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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1015 ダイビングの歴史12 アクアラング

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    右側が浅見国治 1962年 アメリカでの指導者講習スナップ
    1965年、須賀次郎 浅見国治共著「アクアラング潜水」から


アクアラングの話をしよう。
 横道にそれるようだが、ダイビングの歴史のスクーバの項での重要な事だから、ここで整理しておこう。
 ※ この何年か日本アクアラングのカタログにアクアラング社の歴史がけいさいされているので参考にしている。


 アクアラングとは商品名であり、日本では、日本アクアラング社以外は、つかうことはできない。このように、ネットで発表する文に使うのは、どうなのだろう。いけないということになると、ダイビングの歴史から、アクアラングという言葉は歴史から消える。商品名として使ってはいけないということなのだろう。お店、ショップの名前としては、どうなのだおう。古いダイビングショップで、東京アクアラングサービスというのがあった。名前に使うことが許されないならば、日本アクアラングの物は売らない、といわれれば、認める他ない。
 もしも、アクアラングという言葉が商品名だという主張が、なされなかったならば、今もなお、スクーバという言葉よりも、アクアラングという言葉が広く使われただろう。アクアラング、水中肺、は、良いネーミングだる。いまや、アクアラングという言葉は、昔のことを語る時だけに使われ、一般には、スクーバである。日本アクアラング社では、スクーバという言葉、使われているだろうか?2020年度のカタログを見たが、当然、どこにも使われていなかった。
 
 アクアラングは、1943年、フランス海軍に席を置いていたジャック・イブ・クストーは、液化ガスの専門メーカーであるエア・リキード社のエンジニアであるエミール・ガニアンに相談、アイデアを提供して
CG-43 と呼ぶ、高圧空気を減圧して呼吸するレギュレーターを作る。このレギュレーターは、1996年、フランスに行ったとき、ニースにある工場を訪ね見せてもらった。とても良くできているものであるが、原理は、たとえば大串式とか、フランスのルキヨールの潜水機と同じようなものであり、コンセプトとアイデアをジャック・イブ・クストーが提供して、優れたエンジニアであるガニアンは、ガスレギュレーターの原理で、潜水レギュレーターを作る。


 1943年といえば、連合軍が「史上最大の上陸作戦」ノルマンディに上陸したとしである。
 クストーは、フランス海軍に席を置いているとはいっても、この潜水機は、軍事目的で作られたものではない。1920年頃から、コートダジュールで行われていた。スピアフィッシングなど、スキンダイビングの延長線上にあるスポーツを目的としたものであった。このことが、後のアクアラングの発展につながる。そして、クストーは、このアクアラングを駆使して、海底調査探検の途を開く、それも、映画撮影という探検である。クストーが誰よりも優れていたところは、映画制作者であったこと、映画制作者として優れていて成功したことだとおもう。フランス海軍の掃海船を改造したカリプソ号で世界の海を回る。この記録は、1953年に「沈黙の世界:日本語訳は、海は生きている」が著書として発表され、その旅で記録された映像、映画「沈黙の世界」は、全世界で大当たりをとる。
 それにしても、フランスはすでに降伏していたとは言え、ノルマンディ上陸作戦、そしてそれに続く、ヨーロッパでの死闘のさなかに、軍事目的ではなく、魚突きから発展させた潜水機を作っていた。
 軍事目的には気泡のでない酸素呼吸器がすでに実用(戦闘に)されていた。
 自国の国土で戦闘が繰り返されていたヨーロッパの懐の太さともいうべきだろうか。クストーは諜報機関に所属していたというが、その合間に何人かの仲間と魚突きに熱中し、シネカメラを手に入れ、ハウジングを作って、映画も製作している。
 上にのべた、ニースに行った1996年、クストーにも、会うべくアポを申し入れていたが、体調不良とかで、お目にかかることができなかった。まもなく、クストーは亡くなってしまう。テレビ番組の撮影に行ったのだから、生前最後のインタビューになったはずであり残念だった。


 商品としてのアクアラングは、1947年にフランスに ラ・スピロテクニック社が設立されて、アクアラング機材、タンクとかレギュレーターが製造される。
 1954年に日本に輸入されるのは、このスピロの製品である。
 アメリカでは、1951年に U Sダイバーズ社(後のアクアラングアメリカ社)が設立される。


 エア・リキード社は、日本にも支社をもっており、それは、1930年設立の「帝国酸素」である。帝国酸素は後にテイサン、現在は 日本エア・リキード社である。
 日本でアクアラングレギュレーターを最初に作ったのが、誰、どこであったのかは定かではないが、1953年に東京水産大学にアクアラングが紹介されたその翌年には、何種類かのアクアラングコピーが作られる。簡単な構造であるから、コピーはよういであった。そのうちの一つが川崎航空であり、これは、大会社であるから、エア・リキード社からライセンスを買って作ったのかも知れない。
 日本アクアラング社のカタログは、この時代の歴史について、かなり詳しく、掲載しており、ここでもそれを参考にしている。


 僕が東京水産大学を卒業したのが、1959年の3月である。時は就職難「大学は出たけれど」という映画も作られた。大学は出たけれど、就職口が無く、苦労し、転々としてようやく、小企業に勤め口を見つけるストーリーであった。僕の場合もまさしくそれであり、今事務所のある付近の建設機械再生工場で、修理工としてスタートした。が、海への思いは消えず、大学の恩師、宇野寛先生に泣きついて、東亜潜水機へ入れてもらったのが10月である。
 それと前後するようにして、日本アクアラング設立のための社員の話が、同じ宇野教室にくる。潜れる大学生など、宇野教室と神田教室にしかいない。
 僕と同じく、職が無く、どこへも行かずに教室に残っていた、上島さんと、一年下の潜水部部員の浅見国治が、これに当てはまった。
 自分の不運を嘆いた。僕は南千住の東亜潜水機き通い、上島と浅見は、日本アクアラング設立のためにアメリカ留学である。その落差はめちゃくちゃに大きい。
 1960年、二人の留学、出向先は、ユーエス・ダイバー社である。PADIを創立するジョン・J・クローニンがちょうどそのころにユーエス・ダイバーに入社している。タイミング的には同期になる。
 そして1961年に、日本アクアラング社が設立される。帝国酸素(エール・リキード社)、スピロテクニック社、そして川崎航空が出資している。帝国酸素が主力だから、フランスの会社である。社長はフランス人だったはず、事実上の社長である中村専務は、帝国酸素からの出向で、フランス語ペラペラ、である。
 会社創立に合わせて上島さんが戻ってきていて、中村専務ともども、僕のいる東亜潜水機に訪ねてきた。東京での協力会社になる。アメリカ留学をやっかんではいられない。水産大学は同学年は親戚、同じ教室は兄弟も同然である。協力して日本のアクアラング潜水を盛り立てて行かなくてはならない。
 どちらかといえば上島さんがマネージメント、浅見さんはダイビング技術指導という役割分担で、浅見さんはアメリカに残って、ダイビングの講習を受ける。
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  1962?年、アメリカでの指導員講習(おそらくアメリカでも一回目かニ回目 NAUI? 左から6番目が浅見さん。
   ※ 日本アクアラング者のカタログより。


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      浅見さんは、大学で一級下、一緒に潜水部を創立した、
         残念ながら故人です。


  アメリカで、最初のダイビングライセンス、カードを出したのは、ロスアンゼルスカウンティ、ロスアンゼルス郡にあるカタリナがアメリカ初期屈指のダイビングポイントで、そこに潜るためのライセンス?だったのだろう。それがNAUIに転じていくのだが、その由来、経過はアメリカ人ではないからわからないが、そのロスカンがNAUIに移行するそのすれすれ、のインストラクター講習を浅見さんはうける。
 そのときの写真が日本アクアラングのカタログに掲載されていた。1962年ごろというが、1962年には浅見さんはもどってきているはずだから、1961年の秋ではないだろうか。とにかく浅見さんが日本人でアメリカ本土でのインストラクター講習を受けた第一号である。アメリカだってまだNAUIが誕生する直前の、インストラクター講習だ。アメリカだって、まだ、インストラクターという言葉がダイビング指導者に当てはめられていたのかどうか、不明である。浅見さんは、インストラクターを名乗らなかった。

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