フィンについて、もう少しというか行くところまで行こう。そこから、第二次大戦にもどる。
後藤フィンが生まれるころのフィン事情は?
1962年の「どるふぃん」潜水科学協会の機関誌にフィンのことが[足鰭]として載っている。4枚、4種のフィン、もちろんこの他にもフィンはある。輸入されているクレッシイのロンディンとか、62年ともなれば、世界を見れば多種あっただろう。しかし、日本国内ではこの4種で代表することができよう。一番上のダックフィートは番外、こんなフィンもアメリカにはある、というサンプルだ。少し後に、輸入されかなりで回ったが、珍しい部類にはいる。残る三つが日本のフィンだが、そのうちの二つは同じ物だ。アクアのフィンと、パシフィックのフィン、アクアのフィンとは、キヌガワパシフィックが作って日本アクアラングが売っていた。OEM で、同じものだ。全く同じにするわけにも行かないと考えて、アクアラングのフィンにはキールがある。これでけっこう違うと思うが、そんな区別はまだわからない。かかとのあるフィンとないフィン、かかとのないのはチャンピオンだ。
このアクア・パシフィックのフィンは別に悪いフィンではなかった。この、アクア、パシフィックで、全国のフィンの60%は占めていたろう。10ー20%をチャンピオンが占めている。こんな感じだった。あくまで感じであって、調べた訳ではない。
そこへ、かかとのないフィンの新型として、後藤フィンが登場する。多分1965年か66ねんだった。そして、1967年、後藤道夫、浅見国治と語り合って日本潜水会をつくる。28人集まって、一週間の合宿を伊豆海洋公園でやった。
その時に、それぞれが自分の道具を身につけ手にして、アルバムをつくる記念撮影ををした。このアルバムは、僕の宝だ。
まず、巻頭に出した、後藤道夫、もちろん後藤フィンをてにしている。
不世出の魚突きスキンダイバーの鶴曜一郎、手には銛をもっている。ところで、この1967年12月の日本潜水会、指導員合宿で、日本潜水会は、水中銃、銛を捨てて、カメラをてにする。つまり、魚突きをしないことを決議した。それでは、鶴曜一郎は、日本潜水会に居られない。奄美大島に行き、潜水漁師,海人になる。日本潜水会は、プロの漁師が魚突きをやることは認めている。国の規則である漁業調整規則も職漁としての魚突きは認めている。鶴は、後藤一家だから、後藤フィンを手にしている。
望月昇さん「潜水の歴史」の事実上の著者、後に、潜水指導団体 ADS を創立する。しっかりとアクアフィンを抱えている。ここに28人全員を紹介するスペースはない。ここはフィンのことを書いている。ここに上げたメンバーは、アクア・パシフィックフィン以外のフィンを持っている人を紹介し、他のほとんどはアクアフィンだ。アクアフィン代表として、望月さんを紹介した。
大崎映晋さん、水中撮影の草分けで、事実上のヌードである舳倉島の海女を撮影し、イタリーの(フランスだったかな)映画製作者ブルーノ・バイラテイの映画を撮影したりもしていた。イタリーのフィンであるクレッシイ、ロンディンを
加藤芳雅君、当時まだ学生、法政アクアの創立者の一人、チャンピオンを手にしている。僕もチャンピオンだった。
友竹進一 伊豆海洋公園の主、ブーツフィン(かかとが入る)でブレードが大きく強力なVOITのバイキングを手にしている。魚を追い込んで捕獲する網を手にしている。この網で海洋公園の魚、ハナダイの類などを獲って、展示したりしていた。やがて、魚突き同様、展示用にしても、生物を採捕許可なく獲ってはいけないことになったが、まだこの時は、獲っていた。