バジャウのベニヤ板フィン、これが最強かも。
フィンについて ②
少し、まとめて、少し、つけ加えて整理しよう。
作る年表に沿って、整理、まとめて行こうと思いながら、どんどん書き加え、深みにはまって行くようだ。整理しておきたい。ダイビングの歴史 もう少し書き進んだら系列を整理したいが、しばらく、このままでいく。
スポーツしてのスキンダイビングの始まり、そしてスキンダイビングの象徴であるフィンのルーツ、1930年代のフランスでのことだから、正確には、わかるはずもない。手にしている参考資料、と後は想像だ。
1920年、ガイ・ギルパトリックが南仏のアンティーブに別荘を持ち、素潜りスピアフィッシングを始めた。そして、1934年にコンプリート・ゴグラーという本を書き、ブレイクする。これが、スポーツとしての素潜りダイビングの始まりである。
言うまでもなく、遊びで潜って魚を突いていた人は、それまでにも、世界中に、いくらでも居たことだろう。それを、そのことを本にまとめた、ということが歴史の始まりなのだ。倭人の素潜りが、魏史倭人伝で始まったようなものだ。
一方で、フィン、ゴムのフィンの始まりは1933年にフランスのコリリューが、パテントを申請した。そのフィンのプロトタイプが、モナコの海洋博物館に陳列されている。(1934年とプレートに書かれている)これが、現在僕らが履いているゴムの、そして、ゴム状のプラスティックフィンのルーツである。多分チャンピオンの原形でもあるのだろう。
一方、南太平洋では、椰子の葉っぱだか茎だか、もしかしたら、板切れだったかもしれない、を足に縛り付けて、おそらくは煽り足で巧みに泳いで、漁をしていた。これも、想像だが、ジュゴンを突いていたか、ウミガメを掴まえていたか、追い込み網だったかもしれない。
これは、1988年だったか、須賀潮美がフィリピンでバジャウ(海に棲む人たち)が、ワシントン条約違反のタイマイ漁をしている密漁の取材に行った時のテープでみたのだが、ベニア板製、楕円形の大きな下駄のようなものを履いて、今のテクニカルダイバーのような、煽り足で巧みに泳いで、フィンで泳ぐ潮美は追いつかない。
これは、あくまでも、でたらめ、想像の世界だけど、1930年代は、ベニヤ板がないから、何か平たいもの、椰子の茎?などを足に着けて泳いでいたのだろう。それをアメリカ人のオウエン・チャーチルが見て、ゴムのフィンを作り、1938年に特許を申請し、商品をつくる。この商品が売れ始めたから、だったのだろう、同じような特許を1933年にコリリューが申請していることがわかり、チャーチルは、コリリューに特許使用料を払って、商品の販売を続ける。
これも、想像の世界だけど、板を履いて煽り足のダイバーを見て、ゴムのフィンを作り、バタ足の泳ぎのフィンができ、一回転して、煽り足のテクニカルダイバーになり、最初の板の煽り足に回帰した。そんなことはないと思うけど、
ギルパトリックがチャーチルを使って見て、これは良いと広めたという説もあるが、ギルパトリック自身の潜水方法は、コンプリートゴグラー(1934)にある図では、フィンをつかっていない。チャーチルのフィンは、特許が1938年だから、それ以後のことである。
1940年には、フランス、イタリー、地中海沿岸では、フィンはかなり広まっていた。
また、オウエンチャーチルはアメリカ人だから、アメリカでも、と思うが、初期のUDT 水中破壊部隊は、フィンを使っていなかったという記述が、「人間魚}にある。
そして、世界は、第二次大戦に突入する。
ここから、第二次大戦の項に入り、そして、アクアラングの誕生、1953年の日本、と年表上では推移していくつもりだったのだが、流れで、チャンピオンに話が進んでしまっていた。
※チャンピオン→チャーチルフィンについては別記している。
ダイビングは、歩くダイビングと泳ぐダイビングに分ける分類方法があるが、泳ぐダイビングにとって、フィンは最重要な道具である。
もうしばらく、フィンを追って行こう。
後藤道夫は、1957年、日本潜水科学協会発足以来、2014年に亡くなるまでの親友で、日本水中科学協会も一緒に作ったが、
生涯の親友である後藤道夫は、もの作りの天才である。ウエットスーツの初期、後藤道夫の考案した型紙をみんなまねた。このウエットスーツ部門は、弟の後藤勇輝君に引き継がれ、そして今、UGO は、フリーダイバーに人気だ。UGOは、勇後藤の略である。
後藤道夫は、チャンピオンの進化型ともいえるフィンを作った。多分1968年ごろだろう。金型を作って、本格的に作った、仮に後藤フィンと呼ぶ。特に名前は無かったように記憶している。僕らの仲間うちで一世を風靡した。残念なことに、あんまりお金を掛けられなかったのだろうゴム型が壊れれしまって、長続きしなかった。1970年にはもう作られていなかった。
今、後藤フィンの、多分、最後の一足が、ダイブウエイズにあった。汎用フィンの決定版ともいうべきトライスターは、この後藤フィンの系列である。
後藤フィンは、フォルムとして、今見てもいいフィンに見える。
ただ経年変化でゴムが固くなってしまって、板のようだ。1960年代に使ってみたころはもっと柔軟だったように記憶している。
2020年11月24日、辰巳プールで使ってみた。
これまで、自分の泳ぐ姿を撮るときには、正面から迎えるショットが多かった。フィンの撮影だから、横打ち、横から撮った。横からの角度だと、自分の不格好な姿になるので嫌なのだが、仕方ない。
現在使っているフィンは、TUSA のカイルで、その前はバラクーダだった。バラクーダは持っていて重いのと、高齢化でフィジカル、筋肉が弱くなって、振り切れなくなったと感じたので、カイルに換えた。
キヌガワで行くのならば、ワープが良い。ワープはとても良いフィンで、辰巳で使うには最適だと思うのだが、ブーツの横の部分が裂けてしまった。キヌガワは、親しくしているし、アドバイザーをしていた事もあり、お世話になっている。次は、ミューを履いてみる。
カイルは、はじめて使ったTUSAのフィンであるが、辰巳で使うには、目下のところ気に入っている。
なお、海でスクーバで潜るときには、厚い底のブーツを履いていたり、ドライスーツでもぐるので、ブーツのフィンは使っていない。ブーツの方が良いのだが、仕方なく、ストラップタイプのフィン、これをここでは汎用フィンと呼ぶが、汎用のフィンをつかっている。ダイブウエイズのトライスターである。
使ってみる後藤フィンは、このトライスターの系列だから、トライスターと比べてみるのが良いかもしれないが、とりあえずはベアフット、裸足で履く。
カイルはスムースに動き、水をきれいに押しているが、後藤フィンの方は、カクン、カクンとする。フィンの重さのバランスもあるかもしれないし、ゴムの経年変化で固くなっているかもしれない。
1966年?のフィンと、2016?年、タバタがキヌガワゴムフィンの牙城を切り崩したいと全力投球で作ったカイルを比べてみることには、無理がある。ましてや、後藤フィンは汎用、カイルはスキンダイビング用だ。このあたりを考慮すれば、後藤フィンはチャンピオンの後継としては、よくできたフィンだった。型がこわれてしまったのが残念。
TUSA(タバタ)のカイルは、とても良く、自分の現在の脚力にも合っている。
それは良いのだが、TUSAは、その後ゴムのフィンは出していないで、軽量で色鮮やかなプラフィンに熱意を戻してしまっている。プラフィンも試してみたいが、お金を払って購入してまで、試してみる余裕は、経済的にも時間的にもない。
※次回はロングフィンの元祖 でソルトを試してみる。
これは、練習に来ている、現在のロングフィンの子にも履いてもらって
比べて見よう。自分はバラクーダと比べて見る。
まあ、所詮は遊びだから、系統的なテストといえるようなものでもなく、感覚的なものだけど。そしてその感覚は、あくまでも85歳の弱った筋肉によるものだけど、選手ではなくて、一般のダイバーについて考えるには、かえって良いかもしれない。まあ、また横道にそれているから、最終的にはこのあたりは全部カットだけど。面白がってやっている。
自分の泳ぎを横から見て、そして周囲で練習している今現在スタイルのスキンダイバー、フリーダイバーと比べてみて、隔世の感がある。自分は1960年代スタイルだ。
昔といっても2000年、21世紀に入る前まで、スクーバダイビングの基礎、基本はスキンダイビングであり、スキンダイビングを練習すれば、スクーバダイビングも上達すると言われ自分も実践してきたが、21世紀の今、スキンダイビングの先にあるものは、スクーバダイビングではなくて、ドルフィンスイミング、であり、フリーダイビングである。スクーバダイビングの方は煽り足、バジャウの泳ぎ方だ。
スキンダイビング、ドルフィンスイミング、フリーダイビングについてはダイビングの歴史の末尾近くで書きたいが、ここでちょっとふれておきたい。
スキンダイビングは、85歳になる自分でも気持ちよくできる。スクーバダイビングは、ウエイトを着けて、タンクを背負い、立ち上がるだけでも難儀で、歩いて行って、エントリーする。エキジットするときに転んで骨折すれば、もう半年、一年は活動できない。もしかしたら、そのまま死んでしまう可能性だってある。
1988年に生涯スポーツをダイビング界に導入しようと、社会スポーツセンターで、生涯スポーツの公式指導員資格の講習を一生懸命やった。そして、いよいよ、生涯スポーツが国を救う、高齢者を救う世の中になってみれば、オリンピックだ。競技スポーツ優先、生涯スポーツは消えた。オリンピックも消えるだろうけど、自分としては、生涯スポーツを極めたい。すなわち、このままスポーツを続け、寝込まずに、死にたい。
スキンダイビングは、生涯スポーツに最適なスポーツである。このことを実践したい。
フリーダイビングは、競技スポーツである。とても魅力のあるスポーツだが、最高記録は、そろそろ限界だろう。身体を壊してまで、やるものではない。が、競技スポーツでない、フリーダイビングも十分に考えられる。その一つは水中撮影である。思いタンクを背負わなくていい。音もなく被写体に接近することができる。
フリーダイビングのチャンピオン、篠宮君、まだ、確か選手だったころだろうか、彼の撮ったという写真を見て、「この写真、篠宮君が撮ったの?」と聞いた。プロの写真だった。その後、今は半ばプロのカメラマン、半ばフリーダイビングの指導教師をやっているみたいだけれど、カメラマンとして大成することも可能だろう。
親しくしている中村佳樹夫妻、沖縄に移住してプロ級の動画を撮っている。どこかでブレイクして全国区になれば良いと願っている。フリーダイビングで、一息で撮る映像だ。
リサーチ・ダイビングも、タンクを持っていかなくてもどこでも潜れるのだから、可能性はある。
危険性については、スクーバダイビングでも同じだ。フリーダイビングだから安全なんていうことはない。
スキンダイビングは、心得て、場所を選んでやれば、一番安全なダイビングではないだろうか。
スノーケリングは、もやはダイビングではないから、ダイビングとして、論じることはないけれど、海水浴のすべてがスノーケリングになれば、良いとおもっている。その方向に働きかけるべきだと、昔から唱えているけれど、なんか、ダイビングの指導の亜流をやっているように見える。ちがっていれば良いけれど。海水浴すべてをスノーケリングにするためには、学校教育に働きかけなければだめだ。僕にはもはや時間がないけれど、ダイビングの歴史の末尾、結びはそんなことにしたいな、と思っている。原始時代の素潜りからのスタートだから。