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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1121 ダイビングの歴史 8 フィンについて

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       チャンピオン


 東京水産大学小湊実習場で行われるアクアラング講習会に使用されるフィンは、チャンピオンだ。チャンピオンは右左がない。左右同じだ。そしてサイズは、ワンサイズ、全部同じ大きさだ。これで、学生から教官まで全員にフィットする。学生の場合、足が特別に5小さい奴は運動靴を履く。だいたいのサイズの者は問題ない。大きい奴は我慢する。我慢できないほど、足の大きいのは、居たという記憶がない。
 使い勝手について、他には無いのだから、比較のしようがない。何の問題もなく泳げた。
 自分の場合、将来をダイビングで組み立てよう、学者になるにしても、潜水して研究する学者になろうと思ったので、自分のフィンを買って、葉山の磯で、素潜りで魚を突いて練習した。
 葉山に行くための国鉄駅、逗子駅前のつり道具屋には、僕たちが磯で、海で使う道具のすべてがあった。マスクは海女さんが使う真ん丸なガラスの一眼、フィンは、チャンピオンではなくて、踵部分をベルトで留めるペラペラの安物だった。僕は、一年生の時から、スキンダイビングの練習を始めたから、1955年から、もう全国津々浦々の釣具屋にフィン、とマスクと、魚を突く銛は売っていたのだ。
 ところが、このペラペラ、フリーサイズのフィン、踵を締めるベルトをフィンに取り付ける部分の針金が弱く、すぐに曲がってしまう。いろいろ工夫して繕ってみたが、際限もなく嫌になって、新しくもっと良いものを買うことにした。つり道具や以外のどこで買ったら良いのかわからない。日本橋三越本店に行った。ここなら、何でもあるだろう。あったのだ。1956年7月のことだ。1953年に、米国の海洋地質学者ロバート・ディーツが、日本にスクーバダイビングを紹介してから3年のうちに、津々浦々のつり道具屋で普及品のフィンガ、日本橋のデパートで高級?輸入品のフィンが出回っていたのだ。
 その間、1954年に映画青い大陸が公開され、これはフィンで泳いでいたから、ずいぶんとフィン普及には影響があったとは、思うが、その後フィンとのつきあいが一生の事になり、身体の一部分になる、ぼくですら、フィンを最初に着けて泳いだのは、1955年、水産大学に入ってからのこと、最初は、フィンを着けて泳ぐと、フィンがじゃまくさくて泳げなかった。フィンの普及、恐るべし。 


 買おうかと思ったフィンは二種類、どちらもイタリー製、一つは、ダイバーなら誰でも知っている、クレッシイのロンディンだった。もう一つは、イタリーの著名なゴムメーカーであるピレリのマークが着いたチャーチル、左右が非対象、ダークブルーのきれいなフィンだ。結局、チャーチルにした。チャーチルなんて、最近知ったことで、そのころ知る由もなかったが、そのころ日本で公開された映画「青い大陸」でもこのタイプを使っていた。
 この時にフルフット、足が全部入る靴型のフィンを買わなかったことが、後で、大きな意味を持つことになる。
 ピレリは、丈夫でとても良いフィン愛用したが、その後、舘石昭氏と仲良くなり、一緒にダイビングするようになった。そのときにいつも写真のモデル役で同行していた伊藤淳子さんにこれを履かせると写真写りが良い。いつもピレリは彼女、僕はチャンピオンで、そのうちに差し上げてしまった。
 あれから、60余年、ピレリのフィンは、どうしているだろうか、その後、淳子さんはオーストラリアに行ったとか。ピレリのような、良いゴム質で作りの良いフィンは、丁寧に使っていれば、60年は持つはず。僕が持っていれば、今でも手元にあるに違いない。
 ※クレッシィのロンディンは、後に手に入れて、漏っていたので、写真を撮ろうと探したが、見つからない。


 そして、僕は東亜潜水機に入社する。チャンピオンは東亜潜水機で作っていた。今のフィンは、インジェクション、射出成形で一瞬でできてしまう。そのころの東亜潜水機では、ゴム型で焼いて作る。東亜潜水機は、ヘルメット潜水の一式、すべてを製作するメーカーであり、そこに僕はアクアラング担当で入社したわけだ。
 ヘルメット式の潜水服は、綾織りの丈夫な生地にゴムを重ね塗りして加熱加工する。つまりゴム引き布で作る。大変に手間がかかった。東亜潜水機はゴム引き布のメーカーでもあり、社長の三沢さんは、ゴム屋でもある。
 東亜潜水機の三沢社長は本職がゴム屋だ。社長自らがこのチャンピオンフィンのゴムを練る。加熱されたロール二つが、ほんの少しの隙間を開けて回っているその隙間にゴムを挟みこむようにしてゴムを練るのだ。まず生ゴムを入れる。天然の生ゴムだ。生ゴムは飴色をしている。黒いカーボンの粉を入れて練ると黒いゴムになる。カーボンを入れることによって、ゴムの耐久性が強くなる。あまりカーボンを入れすぎると弾力が無くなる。この配合が難しいのだと社長は言う。ゴムを練る専門の人が東亜潜水機には別に居るのだが、なぜかチャンピオンのゴムだけは社長が自ら手を下す。
 練ったゴムを板状にして、適宜の大きさに切り、ゴム型に乗せる。お菓子のタイ焼きのような感じだ。上と下の型で挟んで、加熱する。焼きあがると型を開いて出来上がったフィンを取り出す。挟んだゴム板で余分になった部分は横にはみ出している。バリが出ているという。このバリをハサミで切り取る。切り取った部分は必ずしもまっすぐになってはいない。凸凹になって入る部分はグラインダーでこすってまっすぐにする。バリを切り落としてグラインダーでこすって仕上げるのが、入社早々、第一日目の私の仕事だった。つまり誰でもできる仕事だ。しかし、バリを切り取れば別にみっともなくはないし、海で使うのに何の問題もない。手作りで、包装も無い紙に包んで送るような時代だ。無駄だ、とやめることにした。この改革?が、二日目の仕事だった。


 ところで、チャンピオンという名前、なぜチャンピオンなのだ。東亜潜水機で聞いたところでは、1954年当時水産大学の助教授であった猪野峻先生、アワビについての世界的な学者で、後には、海中開発技術協会の会長、海中公園センターの理事長などを歴任されるのだが、僕が学生時代、水産大学のダイビングのエースだったころ、僕と対で潜る競争ができた。先生と対のエースだから大したことはないけれど。当時の科学研究者で猪野先生を超えるダイバーは居なかった。その猪野先生が、東亜潜水機にこれを作れと見本に持ってきたのが、チャンピオンというメーカーのフィンだったという。
 形をパクるだけでなくて、名前までパクってしまう。しかし、チャンピオンという原形のカタログでもあるのか、さがしてみたが僕の探したかぎりでは、見つからない。
 プールで猪野先生の講習の助手をしていてみたのだが、猪野先生のフィンまぎれもなく、チャーチルだった。チャーチルとは。有名なのは、ウィンストン・チャーチル、第二次世界大戦の敵国、英国の首相だ。日本でチャーチルという語は商品名では使えない。チャーチル、チャーチル、どこかでチャー ンピオンに変化したか、それとも、チャンピオンという名前を新たに考えて付けたか。
※ ブログ、フェイスブックには出してみるもので、チャンピオンのカタログをおくっていただいた。チャンピオンはあったのです。caalero という発売もとで、チャンピオンが商品名です。



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