素潜り漁労の第二の革命はウエットスーツの出現であった。
ここでウエットスーツの出現ストーリーについても書いてしまう。
アクアラングを企画制作したジャック・イブ・クストーも当然保温、着るものとしてウエットスーツを考えた。これも、スポンジ状のゴム素材であったが、独立気泡ではなく、水圧でつぶされてしまう。スポンジを着るということは、良い断熱材である空気の気泡を着るということだから、気泡がつぶれてしまうのは効果半減である。
が、とにかく、ジャック・イブ・クストーらは、映画「沈黙の世界」でもこのウエットスーツを着ていた。それと同じデザイン、多分、同じような素材のウエットスーツが小湊実習場に2着あり、一年先輩の竹下さん、橋本さんはそれを着て、小湊で潜水、調査をして、卒業論文を書いた。僕ら、自分と原田進の卒論は、テーマはサザエの棘と日周成長線についてのものだったが、伊豆大島で調査をして、伊豆大島は暖かかったので、古いセーターを着て潜水した。
秋になり、小湊でトレーニングで潜るとき、このウエットスーツを着て見ようということになり、二人で着て潜水してみた。セーターの数倍暖かく、狂喜して潜った。そして、それを脱ごうとしたとき、糊がはがれて、スーツはバラバラになり、叱られると青くなった。幸い叱られず場長は笑ってすましてくれたが、このスーツ接着が難点で、使えないものだった。
クストータイプのウエットスーツをバラバラにしたのが、1958年の秋で、1959年東京水産大学を卒業して、卒業はしたけれど、「大学はでたけれど」就職難の時代で、その上に家が倒産したために、留学、研究者になる道も閉ざされて、東亜潜水機に入社したのが、1959年の10月だった。
東亜潜水機では、山崎さんという中年の女工さん姉妹が、ウエットスーツを作る係りで、糊が剥がれてバラバラになったスーツも彼女たちが作ったものだとわかった。そして、1959年秋に、貼り付けていたのは、黒い色で独立気泡、両面スキン、つまり今のウエットスーツとほぼ同じものだった。
年表:1958 菅原久一氏(潜水研究所)ウエットスーツ生地の国産をゴムメーカーに依頼
このあたり、誰がどのメーカーに発注して成功したのか、わからない。各社入り乱れて競争的に開発製作したのだろう。各社といっても、自分が就職した東亜潜水機系列と、その東亜潜水機をスピンアウトしていた菅原氏の系列だが、そのあたりの人間関係はおいおい説明してゆく。
とにかく、1959年10月、東亜潜水機ではウエットスーツを貼り付けていた。貼り付けていた。この貼り付けががウエットスーツ製作の革命的な事だった。僕らがバラバラにしてしまったウエットスーツは、生地を突き合わせ、帯状の宛貼りをしてつなぎあわせる。新しい黒いネオプレーン(クロロプレーン)独立気泡、5mm厚の生地は、鋭利な鋏で型紙、寸法に合わせて切断し、切断面に魔法としか思えない黒いゴム糊を塗る。接着しようとする両方にぬる。糊が半乾きになったころ、接着面を圧着すると、両側から溶け込むように接着してしまう。引きちぎる力を加えると接着面ではなくて、その脇が切れる。
これならば、バラバラにしてしまったウエットスーツも自分でなおせる。やってしまったと顔面蒼白になることもない。今、ダイバーの皆様が、自分でウエットスーツの修理ができ、やっている事なのだが。
その後、生地の進化、製作工程の進化があって、機械接着も行われるようにもなったが、この機械も何もいらない、糊を着けて貼るだけでできてしまうことが、初期のウエットスーツの拡大普及の大きな原動力になった。
このクロロプレーン独立気泡のウエットスーツの保温力も魔法だった。今、高齢になってしまって、5mmのウエットスーツで耐えられる水温は22度まで、21度になるとギブアップしてドライスーツになるのだが、若い頃は、東京湾の冬、水温6度まで耐えられた。5mmを二枚重ね着すれば、マイナス1度の流氷にも潜水できた。
話を海女さんにもどそう。ウエットスーツの保温力は、海女さんにも福音だった。製作工程が簡略なこともあり、商才のある人は次々とウエットスーツの販売で成功して行く。我が東亜潜水機は?東亜潜水機という会社の歴史もダイビングの歴史、潜水機の歴史そのものなので、追々に述べて行くが、ウエットスーツの販売では立ち後れていた。東亜潜水機のネットワークで販売すれば、あっという間に勝てるのに。
全国津々浦々に海産ヘルメットダイバーがいる。彼らと東亜潜水機はヘルメット潜水機という絆でつながっている。ようやく、伝手をたどって、海女の本場である伊勢志摩の和具というところに行商に行かれることになった。伝手はヘルメットダイバーの親類の海女さんだった。
まだ、志摩の海女の浦(部落)でウエットスーツを導入しているところは少なく、見本を持って行ってみてもらい、好評だった。そして、これを取り入れるかどうかの話し合いが行われるので、待っていてくれというので、一泊して待った。
答えは否 だった。お世話をしてくれた海女さんは筋肉質の格好の良い身体で、潜水も上手そうだった。
否定の理由は、太っている海女さんの反対だった。これまで、肉襦袢の効果で、トップの漁獲を誇って居たのに、ウエットスーツで差がなくなれば、もぐりの上手な人に抜かれてしまう。
そういうことだったのだ。資源保護という理由はもちろんあるし、最終的には資源保護につながるのだが、それ以前に、海女はハンターなのだ。寒さに震えても、目が腐っても、一番になりたい。人に負けたくない根性が漁獲を支えている。
志摩の浦には、遠い為もあってその後行っていないが、ウエットスーツを採用した浦(部落)もあるようだ。房総、外房は原則として全身型のウエットスーツ禁止だ。足の部分の長さの制限がある腹巻き型のパンツが許可されているところもあるし、独立気泡の暖かいウエットスーツではなくて、ジャージのような寒いウエットスーツならば、許可になっている。
地域によって着るものはさまざまである。
壱岐の海女さんは派手なレオタードを着ている。レオタードの下は重ね着をしている。
フィンは重要な道具なので、後で詳しく書くが、日本の潜水はフィンが使われなかったという特色がある。これも、後で述べるが、第二次大戦の潜水特攻、伏竜は海底を歩く。ヨーロッパ、アメリカの潜水兵士は、フロッグマンだ。呼び名の通りフロッグの足ヒレを着けている。戦ったらどちらが勝か、残念というより、良かった、助かったのだが、伏竜が戦闘に参加する直前に戦争が終わった。伏竜が戦闘に参加したら、おそらくは、動きの速いフロッグに惨殺されただろう。
なぜ、日本でフィンができなかったのか、それは、海女の泳ぎが上手すぎて、フィンの必要がなかったからだと思う。海女の泳ぎ方、男の海士もいるしいろいろだが、海女の伝統的な泳ぎ方、もしかしたら、伊勢志摩の観光用の泳ぎ方かもしれないが、磯襦袢の裾を乱さないように、優雅なあおり足で泳ぐ。古式泳法の基本もあおり足だからかもしれない。どうでも、アワビさえ穫れれば良いのだが。
それにしても、フィンの方が効率が良い。効率が良いからここでも制限がある。最近では少なくなったが、当初はフィン禁止の浦が多かった。
親しいスキンダイバーで、良いデザイナーでもある直美さんが、房州で海女になるという。彼女はフィンで泳ぐことが必須の条件だった。白浜の名倉という浦で海女になった。ここは、フィンは良いが、ウエットスーツはオレンジ色の独立気泡ではない、かなり寒いタイプになる。
かつて、北陸舳倉島あたりでは、海女はヌードだった。裸が、一番動きやすいのだという。一方で、伊勢志摩では身体を護る伝統的な磯襦袢があり、観光的な海女ショウが行われている。もちろん、フィンは着けないできれいなあおり足で泳ぐ。
1980年代だったが、サンディエゴのシーワールドに行ったとき、海女ショウを見た。和風の飾り付けをしたプールに海女衣装を着けたダイバーが出てきて、海女の泳ぎ方で泳ぐのだが、その海女さんが金髪だったので、仰天した。
今後の潜水漁業 海女漁はどうなって行くのだろうか。直美さんが大海女(年をとり、経験を重ねた老海女、大海女と呼んで尊敬される。ダイビング、素潜りは身体に良い。大海女は80歳ぐらいまで、現役で漁を続けられる。漁場を次第に浅瀬に移してくるが、若い海女は遠慮して深い方で潜る)直美さんが大海女になるころ、次の世代は居ないだろうなどと話をする。若いスキンダイバーの女の子が簡単に海女になれるものではない。浦のしきたりによるだろうが、新参者は一人で沖にでる。危険が大きい。そして、日本の場合、アワビは潜ればごろごろいる訳のものではない。探す技量が勝負なのだ。アワビはだいたい同じ場所にいる。住処があり、その場のアワビが採られると、代わりが入ってくる。その場所を覚えておいて、ピンポイントで行かれなければならない。そして、だいたいだけどそれぞれの海女の漁場が決まっている。人間関係が発生する。ハンターだから、根性が必要。例えばウエットスーツを排除してがんばるような。
1970年代、海洋開発時代とこの本では呼びたいが、もう素潜りなんて、効率の悪いことはやめにして、スクーバで資源管理をするとともに効率の良い採捕をしよう。海を畑、アワビの牧場にしよう。房総では、水産試験場主催で、漁協の若手を集めてスクーバの講習をした。
ちょっと考えればわかるはず。水眼鏡、ウエットスーツが拒絶される浦社会である。
その時の若手は、それぞれ、理事になったり、組合長になったりで、僕は房総半島で潜水の先生と尊敬されるようになった。いまでは、その人たちも引退して神通力はなくなったが。