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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0827 リサーチ・ダイビング 60歳100m潜水 1

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 ブログが滞ってしまっている。「リサーチ・ダイビング」の原稿を優先させているからなのだが、このリサーチ・ダイビングも出口が見つからなくなっている。書いている原稿も出版の時には、大半を削除することになるだろう。ならば、これまで通りにブログにのせて、それを削ればいい。として、ここしばらくそのスタイルで行く。


 「60歳の100m潜水」 1、
 
 何故潜るのか


 1996年、1月、私は60歳になる。輝之の事故がおこってから7年が過ぎていた。
 私は100mに潜ろうとしていた。1963年に100m潜水を企て、90mで引き返した時から数えて33年が経過した。もはや、100m潜ることなど記録でもなんでもない。
 
 ※表現のすべては、1996年当時のこととしている。2020年現在ではない。2020年、あまりにも故を付ける人が多くなってしまっている。故を付けるべきか否か迷った。まだ迷っている。
今回、第一回目だけに故をつけよう。また、本にする原稿からは、すべて、故をとってしまおう。自分が故になっているかも知れない。
 ほんとうに、とっくに故になっているはずの自分が、こうして書いている。人間の寿命は健康診断ではわからない。
 そして今、60歳という人は、まだまだダイバー人生の途上である。僕のダイビングの大半をお世話、ガイドしてもらっている館山、波佐間の荒川さんは、ぼくよりも三つ年下だから、82歳?だっただろうか。彼は多分90まで、このままいくだろう。
 
 この潜水で一緒に潜ってくれる田島雅彦は伊豆大島の水産高校を卒業し、茨城県立水産高校の専攻科に入り、卒業して私のところに来た。最初の仕事が釜石湾口防波堤の水深70Mの工事であり、これは、船上減圧で、ヘリウムを使った、続いて海洋技術センターの深海潜水コースに入り、ナヒモフ号の現場に派遣された。
 ※若かった田島も、今では故だ。

 日本海海戦で沈んだロシアの巡洋戦艦「アドミラールナヒモフ」に積まれていたという黄金を引き揚げようと、笹川陽一さんが行っていた潜水プロジェクトは、水深90m以上の飽和潜水作業である。
 田島は、23歳で入社して、ナヒモフ号から帰って来たときには30歳を越えていたはずだ。浦島太郎のようなものだ。カメラマンとして非凡なものを持っていたのに、深海ダイバーにされてしまった。100m潜ることは、彼にとって日常の潜水であった。


 いまさら記録でもない100mに潜ることにどんな意味があるのだろうか。
  私はただ潜りたいから、私として100mに到達したいから潜る。そのことに理屈をつけるとこうなる。動物は適応の範囲をあらゆる方向に常に拡大しようとする。人間は特にその本能の強い動物である。だから、良かれ悪しかれ今日の人類がここに存在している。高い年齢にも適応しようとする。深く潜りたい。高く飛びたい。それは本能だ。つまり潜りたい。すこしでも深く潜りたい。ダイバーの本能だ。


 高齢化社会を迎えて人は何歳までどんなことができるのか、自分で知りたい。人に知らせたい。
 これは後から付いてきたかっこうの良い理屈だ。とにかく生涯をダイバーとして過ごしたい。自分としてできることはすべてやる。潜水して体験できることはすべてやりたい。自分の身体で体験しないことは、理解したことにならない。自分の身体と自分の知能と、自分の経験で判断して行かないと何もわかったことにならない。ダイビングについて、全てをわかりたかった。
 深海ダイバーは、40歳までと言われている。40歳を過ぎたら現役では深海ダイバーを努める事は生理的に無理だとされていた。そして、自分だが、50歳までは、40歳の時とは殆ど変わらずに潜水できた。それから更に10年が経過して、60歳になった。
 (2020年の今は85歳になってしまっているが)
 直接にお金を産まない計画をやろうと思う時、トロイ、ミケーネを発掘したシュリーマンのことを思い浮かべる。シュリーマンは貧しく生まれて、粉骨働いて財を成し、50歳を過ぎてからその財で発掘を成功させた。夢の実現の前に蓄財をするか、常に夢を追うかどちらが選ぶべき道なのだろう。例えば金融業などに精をだし、それからダイビングをやるというシュリーマンの途もある。
 現在は、1800年代のシュリーマンの昔と異なり、夢を追いつつも、夢そのものを蓄財の手段にすることができる時代である。ただし、運と才能が必要だ。海の中には、小さなビルを一軒建てるくらいの種は、いたるところに転がっている。
 会社を15人以上にはしないという考え方で過ごして来た。まちがいではなかったと思うけれど、消極的に過ぎたかもしれない。小さいビルを建てるチャンスを次々と空振りした。
 とにかく私には自分の企てを自分のお金で実現させる財力は無い。この企てが実現できたことは、全て、周囲の人の好意、おかげである。自分にあったのは、ただ願いだけだった。これから書いてゆくうちに挙げさせてもらう名前の全て、名前を挙げられなかったが応援してくれた人のすべてのおかげで、私はこの60歳100m潜水計画を実施することが出来た。


 水深60mを越えたら、普通の空気では潜れない。ヘリウムを混合しなければ窒素酔いと窒素の呼吸抵抗による炭酸ガス中毒で倒れてしまう。30年前の90m潜水の繰り返しである。ヘリウムの供給と、潜水計画全体のアレンジをしてくれたのは、故石黒信夫さんだった。彼は日本の海上自衛隊で一隻目の潜水艦、黒潮に乗っていた。潜水艦乗りは、沈没したときに脱出できるように、脱出訓練をする。これこそ本当のフリーアセントだ。当然潜水の訓練も受ける。退役して日本アクアラングに入社し名古屋支店の所長などを経て、本社の帝国酸素に転任した。帝国酸素ぐらいの大会社になると、本社から子会社に転出する人は多いが、子会社に入社して親会社に移り、最終的には部長まで登った人はそうはいない。


 減圧症・減圧表に係わる潜水医学については後藤與四之先生にお世話してもらった。彼は、医大に在学中に日本潜水会のメンバーになった。素もぐりダイバーとしては、鶴耀一郎の弟分で、一時的には鶴耀一郎と甲乙つけがたいスキンダイビング能力を持っていた。
腕の良い外科のお医者さんでもあり、鶴耀一郎の胃がんは後藤先生が切った。潜水医学関係のお医者さんも、他の分野のお医者さんも含めて、ダイビング関係のドクターのうちでも素もぐり能力では彼の右に出るものは居なかったはずだ。今現在素もぐり能力がどのくらい残っているかはわからないが。
 東京医科歯科大学の故真野教授にも相談に行った。ぜひやりなさいと励ましていただいた。
 真野先生は、何時でも励ましてくれる。私がまちがいを冒した場面でも励ましてくれて、出来るだけの応援をしてくれる。脇水輝之の事故の時も私が基本的には間違っていないことを、レポートに書いてくれて、事故の経験を今後のダイビングのために最大限に生かすようにと励ましてくれた。
 テレビ番組の制作は、テレビ朝日の故 長谷川格プロデューサー、福田俊男プロデューサーのお世話になり実現した。ニュースステーションにかかわる忘年会で、娘の潮美と張り合って、60歳のイベントをやりたいと挨拶したのを、「面白い、応援しよう」と取り上げてくれたのが長谷川格さんだった。


 娘の潮美も出演して力になってくれた。親と子の交情みたいなテーマが無かったら、ただ誰かが100m潜るだけだったら番組としては成立しない。
 ディレクターは、乾弘明君が引き受けてくれた、ニュースステーションで一緒に旅をかさねた仲間だ。
 番組に出演してのレポーターとナレーションは、故 三浦洋一さんが引き受けてくれた。本当に長いお付き合いで、テレビ朝日の午前中の報道番組で、日本の沿岸を一年にわたって潜り巡る番組を撮影させてもらった。惜しくも亡くなってしまったが、今の役者さんで、かけねなくダイビングのインストラクター級の技術を持っていた。
 謝辞を重ねていたら、本が一冊できるほどの多くの人たちのお世話になった。


 潜る身体
 潜って行く人間の身体は、潜水艇のようなものだ。この潜水艇に、人間の頭脳、心、が乗りこんで潜って行く。そんな風に考えるのが好きだ。潜水艇が壊れていれば、当然生きて戻れない。
 60歳になったら、人間は誰でもどこか身体に故障を持っている。潜水艇はそうとうにガタが来ている。私の艇は高血圧症だ。
 人間死ぬ時は必ず来るのだから、死ぬことは恐ろしくない。恐ろしいのは、生きながら廃人同様になってしまうことだ。これだけはいやだ。高血圧は脳梗塞の玄関みたいなものだ。
 順天堂大学病院の河合祥男先生に診察をお願いした。河合先生は古い魚突き時代からのダイバーで、今(1990年代)でも日曜日には、千葉県の内房で潜っている。
 大きな病院は、待ち時間が長い。特に、河合先生は評判の良い循環器内科のお医者さんだから待ち時間が長い。待っているうちに血圧も上がる。下が100、上が160ぐらいある。瞬間的には190ぐらいになるのだろう。
こんな高血圧が100mに潜ろうと言うのだから、困ったはずだ。黙って勝手に潜って倒れるのならば仕方が無い。相談された以上責任が出来てしまう。指導団体としては、高齢者はまず医師に相談してという旗を掲げているから、団体の中心メンバーである私が医師に相談しないわけには行かなかった。
 椅子の上に登ったり降りたりする運動を繰り返したあとで心電図を測定する負荷心電図の検査を行い、次いで心電図の測定をしながら息を止めていて、氷の入った袋を顔に乗せて潜水反射の検査を行った。哺乳動物は水に身体を漬けると脈拍が遅くなる。脈拍を遅くすることで、酸素の消費を少なくして、呼吸の回数を少なくして、呼吸のできない水中という環境で少しでも長く生きながらえるように適応を計っている。マッコウ鯨などの深く潜る哺乳動物は、極度に脈拍を遅くして、1000mにまで潜り、一時間以上潜水していられる。人間も、水に潜ると脈拍が遅くなる。潜水除脈である。
 「さすがダイバーですね。潜水除脈がはっきりしている。」
 普通、幼児は除脈がはっきりしているが、年を重ねるにしたがって薄れてくるものなのだそうだ。除脈がはっきりしていることは、ダイバーとして適性がある、喜ぶべきことなのかと思った。やがて、アザラシのように毎分数回の脈になり、数十分も潜れるようになるのか?
 実は良くないことのようだ。脈の間隔が遠くなると、その間で心室細動が起こる可能性が大きくなる。不整脈は誰でもあるのだが、悪い不整脈と、それほど気にしなくても良い不整脈がある。私には少し気になる不整脈があるので、あまりハードなスキンダイビングはしない方が良いと忠告された。ハードとはどのくらいのことなのだろう。「水深10mぐらいなら大丈夫ですか?」「無理をしないことです。」となった。10mは無理ではないので、きっと良いのだろう。と解釈した。
 その日から、腕巻き式の血圧計で一日に何度も血圧を計る毎日になった。
 低血圧の人は、ブーッと一回手首を圧迫する袋に空気が入る。正常な人は二回鳴る。三回鳴ると境界型の高血圧だ。四回鳴ると高血圧症だ。五回鳴ると、すぐにでも頭の血管が破裂するのではないかとパニック状態になる。もちろん血圧も上がる。血圧を計ることは血圧に良くない。
 脳の血管のMRIをとった。血管の一部に瑠があるみたいだと河合先生に告げられた。
「くも膜下出血の可能性があります。」「そうなると、どんなことになりますか。」「ものすごく痛いのです。」
痛いだけではないことは私も知っている。テレビ朝日の親しいプロデューサー、もし生きていてくれたらと願うプロデューサーがくも膜下出血で亡くなった。海釣りが好きで、ハードな毎日の間でようやく休みをとり、船釣りに言った。目の下一尺という大鯛を釣り上げた瞬間に倒れた。
 確認するために、造影剤を使った検査をした。MRIよりもだいぶ大げさで手術の感じがする検査だった。
「MRアンギオグラフィーによる検査で、前交通枝に小さな動脈瘤を思わせる異常陰影を認める。経静脈造影剤点滴によるデジタル「減算」脳血管撮影では正常血管造影像を示し、MRアンギオグラフィーで疑われた動脈瘤は認められず、血管の重なりのためと考えた。」
 河合先生の報告書からの抜粋だが、とにかく脳の血管は大丈夫ということになった。
 いよいよ、全てにわたってGO サインが出て、11月末を実行の日と決めた。場所は館山湾で、できれば、28歳の時に100mまで到達できずに90mで引き返した同じ地点に潜りたい。
 春から夏にかけては快調で、夏のスケジュールは、他の撮影で必殺のスケジュールだった。そんな過密スケジュールをこなしても血圧は正常値を保った。夏のスケジュールが一段落ついて、いよいよ、100m潜水の撮影に入る。
 
 

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