中止状態になっている仕事を再開して終わらせなければならない。私もチームに参加することにした。
同じ宿に泊まる。
宿で、酒を飲まない私が隅の方に、みんな酒をのんでいるテーブルから離れて、壁に身体を寄せかけると、「そこに、脇水がいたんですよ、丁度そうやって壁によりかかって。」
「いつもは、一緒に飲んで騒ぐのに、すぐに休んでしまった。疲れていたのでしょうね。」疲れていても、疲れだけならば、早く横になってぐっすり寝れば疲れなど取れてしまう年齢だ。やはり、どこか身体が悪かったのだろうか。
そして、彼はみんなよりも少し早く起き出して、その日の潜水計画は彼が作った。
彼が作り、配置を決め、みんなに説明して、宿を出た。だれも異常は感じなかった。
事故の時と同じ作業だから、まるで再現の実験をするようなものだ。同じ漁船を雇って、定点観測だから、同じ場所に錨を入れる。今度は有線通話器のケーブルを曳いて潜る。
テレビカメラの信号ケーブルを一緒に曳いても、自分の有線通話ケーブルは、全然じゃまにはならない。あのときもこうすれば良かったのだ。
テレビカメラを配置すると、小さい毛ガニの子供を網に入れて放流する。砂地の上に定められた地点にまとめて放す。彼らが散って行く様子を配置されたテレビカメラで、一日、そして夜もこのまま船を定点にとめたまま観測する。もちろん、夜は水中ライトをつける。
小さな毛ガニ、大きい奴で親指の爪ぐらい。小さいので、小指の爪ぐらいだ。三〇センチ以上のアイナメが近づいてきて、一口で食べてしまう。自然のままで調査をするのだから手を出してはいけないのだが、つい、手を出してアイナメを追い払ってしまう。
アイナメなど食害魚を避けるために、篭をかぶせてやる。篭をかぶせる方法、そのままなにもしないで、砂地に置いてやる方法、小さな隠れ場所をブロックで作ってやる方法、色々並行してやってみて結果を対照する。砂地にすぐに潜り込んでしまうカニもいるし、全力で走り回る奴もいる。取っ組み合いの相撲をとっているカニもいる。見ていると飽きない。突然、水が冷たくなって、周りが見えなくなった。濁った冷たい水が押し出して来たのだ。こういうことは、よくあることだが、突然だからなれないレジャーダイバーではショックを受ける場合もあるだろう。しかし、水の濁りや流れ、波浪とも何の係わりもなく脇水は死んでしまった。お父さんが言った。「これが、高波にさらわれたとか激しい流れに流されたとか言うのならば、あきらめもつくのですが、船の上にはベテランが何人もいたのに、何でもない真下の海から助けられなかったのでしょうか。」
私は思う「せめて水面に出て大声を上げてくれればいいのに。」何が起こったのかわからないが、彼は薄れていく意識の中で、ウエイトベルトを外して海底に落とした。そして、意識を失った。水面に出て声を上げることができなかった。
そして、一人での潜水だから、用意していた有線通話器を付けてさえいたら。
ところで、この事故の原因はなんだったのだろう。
肺圧外傷も考えたが、血を吐いたわけではないし、レントゲンでも肺には異常はなかった。それに、プロのダイバーが肺圧外傷を起こすはずもないし、もし、起こしたとしても声も出さずに死んでしまうわけがない。もちろん、プロのダイバーが船の下で溺れるわけもない。心臓は、呼吸回復してから四八時間以上鼓動を続けたのだから、心臓麻痺でもないし、冠状動脈疾患でもない。結局は突然死としか言いようがない。
突然死の要因はいろいろだが、その一つに過労がある。過労であれば労務管理の責任がある。彼等と同行していて、一緒の生活をしていれば、なにか異常を感じることが出来たかもしれない。
とにかく、彼の死の真の原因はわからない。もしも、彼が生きているならば、簡単に原因は解明し出来ただろう。
解剖はできなかった。お母さんがすぐに一緒に連れて帰りたいという。できなかった。
労働基準監督署で問題にされたのは四点だった。
①健康診断に不備がある。
入社以来潜水士の受けるべき特別健康診断は、六カ月置きにきちんと受けさせている。これで問題ないと思っていた。ところが、一年に一度受ける一般の健康診断を受けていないことがわかった。一般健康診断と潜水士のための健康診断は、健康診断項目でダブっているものも多い、心電図は、規定によれば医師が必要と認めた者だけでよいが、私は必ず受けさせていた。一般健康診断の項目はすべて受けさせていた。しかし、とにかく書類上で一般健康診断を受けていないことになっている。同じ項目であっても二つの健康診断を受けて、書類を整えていなくてはいけないのだ。この不備については、ペナルテイとして、今後は私の会社は六カ月ごとに特別健康診断とともに一般健康診断を受けさせることで許してもらった。
②次は、休みが少ないこと、この事故の前、一ヶ月は殆ど土日の休みもなかった。船に乗って沖の鳥島の珊瑚の調査に行っていた。一カ月以上の航海だった。一ヶ月以上の航海でも、潜水したのは一週間に満たない。ほとんどの時間は船で休んでいたのだ。それでも船に乗っているということは、仕事をしていることになる。そして、休みもなく北海道に来た。彼は、八月の一〇日から、一〇日間の休みを取ることになっていたので、この時期に休むことをしなかったのだ。潜水業で、七月、八月に休みを取ることは、難しい。そのかわり、仕事の無いときには長い休みがある。おそらくは、このスケジュールが彼の過労に結びついたのだと思うが、事情を説明してなんとか納得してもらえた。
③そして、労働安全衛生法に定める減圧表を使っていないことが問題になった。私は、当時最も安全性が高いと思われていた英国のRNPLの表を使わせていた。これは減圧停止時間が長いので、プロは殆ど使っていない。より安全だと思っていたのが裏目にでた。たしかに、より短い減圧停止を指示している潜水士の減圧表を忠実に守っていれば、浮上してそのまま船上に上がることになるから、この事故は起こり得なかった。減圧症にはなったかもしれないが、死亡事故にはならなかっただろう。
当時は、高圧則の減圧表も他の外国のテーブルも、3分の安全停止など記されていなかった。念のために停止させて、そこで、事故が起こってしまった。
この点に関しては、東京医科歯科大学の真野先生にお願いして、より長い時間を安全のために停止するのは、世界どこででもより安全性を高めるために行われていること、そして、空気がタンクに残っていれば、残っている空気を減圧停止で消費することは、減圧症防止のために望ましいことであると、説明してもらった。潜水士テキストに安全停止が書き加えられたのはこのとき以降だった。この事故がひきがねだったかどうかわからないが。
④最後に、かけていた労災保険の料率が撮影カメラマンの料率であり、潜水作業の料率ではなかったことが問題になり、これは、追徴金として三〇〇万円ほどを収めることになった。撮影カメラマンと潜水作業の線引きは、困難だが脇水はカメラを手にしていなかった。
私は、経営状態が許す限り、保険は入る方針だった。生命保険は死因がなんであろうと支払われる。生命保険に事故の場合には倍額の特約を付けたものに加入していた。さらに事故傷害保険にも加入していた。
全部あわせれば、会社の年間売り上げに近くなる。
ところが、入院してから四八時間以上経過した死は、事故死ではなく病死と死亡診断書に書かれる。病死となると、事故特約が適用されない。また事故傷害保険も支払われないかも知れないということになった。
事故ならば事故責任が問われる。病死ならば事故ではない。少し荷が軽くなると思ったのだがとんでもないまちがいだった。事故である事を主張しなければならなくなった。とにかく保険は全額もらって、遺族に渡さなければならないと思った。一般的には、作業現場で事故が起これば、あらかじめ決めてあった規定額を遺族にわたし、それ以上の保険がかけてあった場合には、会社の収入にする。私は会社の経営者としては適性が無いだろう。会社の存続、会社の利益よりも個人を大事にしてしまうからだ。それが結果として、個人を大事にする事にはならないと、後年思い知らされる事になる。しかし、とにかくその時はできるだけ保険を出してもらって、そのすべてを遺族にあげることで許してもらおうと思っていた。
これはどう考えても事故だ。病院で死んだからと言って単純な病死ではない。死亡診断書を書き直してもらうように、医師にお願いした。死亡診断書は医師の書く最重要な公文書であるから、書き直すことなどあれば医師の犯罪になってしまうと言う。それならば、どうすれば事故のとして、認められてもらえるのか保険会社に訊ねた。新聞で事故と報じられていれば、その切り抜きがあれば事故と認められるそうだ。日曜日に事故が起こり、新聞に報じられなくて良かったと喜んだのだが、裏目だった。
なんとかならないかと保険会社にお願いした。結局、事故が起こって救急車が到着した港の漁業組合長、町の町長に溺水であることを証明してもらって、ようやく保険の上で事故になった。
労働災害保険の申請、生命保険の折衝を続けながら、お父さんと何度も会って話し合いをした。会えばお金のことよりも輝之の思い出話ばかりをした。海の話、潜水の話。側に輝之のいるところで海の話をしたかった。
「テルは言っていました。高校の同級生が集まると、就職先の愚痴ばかり。僕は自分の好きなことを、気の置けない仲間とやっているから、全然愚痴などないよ。と」
「実は、私も須賀さんの会社を見に行ったことがあるのですよ。息子の働いているところを見たいと思ってね。夕方でした。もう灯がついていました。土産を買って挨拶に行こうと思ったのですがやめました。」
「テルは本当にいい子でした。私が単身赴任で長かったものですから、家の中で一人の男手としてよくやってくれました。ようやく、私も東京に戻れて、これから親子四人で暮らせてと思ったのですが。」
私に出来ることは、保険を出来るだけ多く確保し、全部さしあげること、そして頑張って、会社を存続させることだけだ。
その後、お父さんは親戚付き合いしてくれている。潮美の結婚式の時は、お父さんと妹の千春さんが来てくれたし、僕の本の出版の時、僕の節目のパーティには来て、挨拶をしてくれている。経営者として、僕は失格だったかもしれないが、これで良かったと思っている。
☆☆☆
今日は8月14日、去っていった人たちを思い起こす日、お盆なのですね。
楽しい話ではありませんでしたが、僕の60余年のダイビングライフで、忘れることができない。忘れてはいけない出来事です。このことを何度も書いていますが、今企画している、リサーチ・ダイビングでも、心情的には、脇水輝之のこと、そしてそれに引き続くケーブル・ダイビング・システム失敗の記は、僕の書く部分の中心です。
もう、すでに一応、この部分は下書きを書き終えていますが、ここに出したものとは、大幅に違います。ブログの方がセンチメンタルです。お盆ですから。
付け加えれば、噴火湾の毛ガニは復活して、いまや名産になっています。噴火湾の毛ガニの広告を見ると、眼の奥が熱くなりますね。
今、ダイビングで事故が起これば、ほとんど一律に賠償責任が争われ、責任賠償額が決定されます。リサーチ・ダイビングに通常の賠償責任保険がそのまま適用されるか、微妙な争点になりますが、僕の考えでは、法廷で争う前に、遺族(いやな言葉ですが)の心のケアを目指すべきだと思います。現在は保険社会で、保険なくして、生きて行かれませんが、事故が起こると保険会社の弁護士さんから、遺族との接触を避けるように、そして、謝りの言葉を発信しないようにと言われます。行きずりの商品スポーツであれば、それが正解でしょうが、リサーチ・ダイビングのような、そしてまた、大学のクラブのような、チームでのダイビングであれば、別の対応があると考えます。
グランブルで、誰かが死ぬとか。昔あったのです。大瀬崎で、「はごろも」に宿泊していたので、ご主人がよく知っています。東大と、どこかほかの大学の合同サークルでした。