一九六〇年代の始め、未だ私が東亜潜水器に勤務しはじめた頃、後藤均一さんという人がいた。
私とは直接の交渉はなかったが、お金持ちらしく、有楽町駅前の日活ビルに事務所をかまえてスクーバダイビングでする潜水作業会社を始めた。潜水作業会社が有楽町駅前だ。道具は気前良く、一番良いものをなんでも買った。カメラも、当時の最高であったローライマリンを買ったし、一六ミリシネのボレックスも買った。送られて来た彼の会社のパンフレットを見ると「どんな危険な潜水作業でも引き受けます。」とあった。
そのうち均一さんは、減圧症になった。未だ、東京に治療タンクがなくて(千葉の斉藤病院にあったが、)、橋梁の潜函工事用のチャンバーに入って治療した。潜函工事とは、橋梁の工事など、水の中を掘るときに、圧力をかけた函を伏せた形で置き、圧力をかけて、水のでるのを押さえて掘り進んで行く工事方法だ。潜水するダイバーよりも潜函の労働者の方が減圧症になるケースが多かった。潜函と潜水の減圧症を防止することを主な目的として、潜水士(潜函の場合は別の資格)の制度ができた。その潜水士の試験の第一回が小田原で開かれ、その帰りに後藤均一さんと一緒になり東京まで話し続けた。減圧症の後遺症で少し足を引きづっていた。トレンチコートの襟を立てて、人なつっこくて、放埒で、格好の良い人だった。大好きになった。
均一さんの片腕になっていたダイバーが植松君だった。均一さんは、私と同年輩、植松は、五年ほど年下になる。彼は伊豆大島の水産高校(現在大島南高校)での伝説のダイバーだった。高校のある近く、波浮の港はカルデラ地形で、擂り鉢状になっている。30m以上の深さがあるその擂り鉢の底まで大きな石をかかえて素潜りで底まで行ったという。
しばらく後になって、その植松が、港湾工事で潜っていて、クレーンで吊り降ろすブロックの下敷きになって圧死した。後藤均一さんから電話があった。「植松がいたから、この仕事をしていたのだけれど、彼がいなくなったから、もうやめます。」その後、後藤さんの消息を聞かない。植松は、式根島の生まれだった。仲間が彼を悼んで石碑を、式根島の海を見下ろす丘の上に立てると聞いた。行って見たことは無い。
脇水輝之の事故で、私は、後藤均一さんのことを思い出していた。私ももう潜水の仕事をする会社はやめようと思っていた。うちも、危険な仕事引き受けますというパンフは作らなかったが、私たちは死なないと信じ込んでいた。別に過信しているわけではない。自分を信じなければこの仕事はできない。自分を信じ込んだ時、事故が忍び寄る。それも、海は凪ぎで、だれでもできるような潜水の時にそっと忍び寄る。
これからは、潜水調査会社などやめて、器材を作るだけにして、好きな潜水を好きなようにやろうと思った。
空港へ、函館、富士サルベージの社長、須田さんが迎えに来てくれた。一緒に昼飯を食べてから、病院に行くことになった。何時も彼のところに行くと案内してくれるおいしいすし屋に案内してくれたのだが、何の味もしなかった。「もう、やめようと思う。」と須田さんに言うと、須田さんは笑って言う「バカなこと、いうもんでねえ。ずっとやってきたんだから、やめられるもんでねえ」彼は私よりも年下だが、サルベージ会社の経営で修羅場をくぐり抜けている。サルベージ会社、潜水工事会社をやっていて事故死者を出さない会社は稀だ。「危険な潜水作業でも引き受けます。」というパンフレットこそ作らないが、危険な作業でも引き受ける。そして、基本的に海の作業はすべて危険だ。
須田さんは、そんな弱気で現場にいってはいけない。田沼君にまかせて、次の飛行機で東京に帰れという。でないと会社を潰してしまう。励まされた形になった。
とにかく、病院に車で走った。須田さんが運転して送ってくれた。
病院で、お母さんと、妹の千春ちゃん、と会った。
お父さんは仕事の都合をつけて、翌日くるという。輝之は集中治療室に移されていた。顔も形も変わっていない。ただ、意識が無く、母親の呼びかけに意識を戻すことも無く、苦しげにもがき眠っているだけの輝之だった。
集中治療室というのは、この世の地獄だ。苦しさを訴え、叫び、痛みに大声で泣く人が並べられている。自分の母親が亡くなったときもそうだったが、人は、生から死へと境を越える時に、地獄を通りぬけなくてはならないのだろう。集中治療室から個室に移されると臨終が近い。
ニュース・ステーション、潮美の番組のプロデューサー、小早川さんにも電話をして報告した。事故が起こった時が日曜日であったためもあり、新聞にもテレビにも現れなかったが。須賀潮美の父親の会社でダイビングの死亡事故があったというのは、十分にニュースになり得る。
私は真正面から受けとめて、この結果のすべてを背負って生きて行く覚悟を決めていると、小早川さんに話した。新聞の取材を受けても、このように答えるつもりだった。「そうですよ、そうしなさい。須賀さんが逃げてしまっては、脇水君は救われませんよ。」
励ましてくれた。
みんなの泊まっている宿舎に行き、すでに、一応の報告は受けていたのだが、更に詳しく、みんなの話を聞いた。
前の晩、いつもはみんなと一緒に酒を飲んだりしてさわいでいるのに、輝之は早く床についてしまった。疲れていたのだろう。しかし、特に異常を訴えることも無かった。そして、朝、特に元気という状態とは思えないが、普通通りに起きて、普通に食事をとり、普通に海へでた。夏のこの時期、誰でも少しは疲れている。本人が異常を申告しない以上は、仕事を休ませることはない。ダイバーが七人だったので、二人一組を三組作り、一人があまりで遊軍になった。三組の仕事のスケジュールを割り当て、遊軍は何かがあったときの用意でスタンバイだ。脇水輝之が遊軍に廻った。何事も無ければ、遊軍は潜水しなくてもよい。この配置を当日決めたのは輝之だった。自分がスタンバイに廻ったということは、何か身体の不調があったのだろうか。
沖にでた。
ケガニの移動拡散を追うように設置したビデオカメラは、海底にそのまま置かれている。映像信号を送って来るビデオカメラの信号ケーブルの末端は、ビニール袋をかぶせて、ビニールテープで巻き止めて、水がビニール袋に入ってこないようにして、浮標の竿の上部に束ねてくくりつけてある。時化が無ければ、竿の上部まで波がかかり、水浸しになることはない。
船の上に浮標を引き上げ、信号ケーブルを取り外して船上のモニターとつないだ。一台だけ映像が映らない。信号ケーブル末端の防水を確認したが、別に問題は無い。いろいろやってみても映らない。遊軍の脇水輝之がテレビカメラの回収に向かった。チームは7人、3組のバディと、一人の遊軍の輝之だ。
水深は三二メートル、それぞれ、一日に二回しか潜らせないスケジュールである。2人のチームを一つ使ってしまうと、その日のスケジュールが狂ってしまう。輝之が一人で潜ることになり、潜水した。
重いカメラハウジングを持って、ケーブルを巻き上げて戻ってくるのは、かなりの労働になるが、日常のダイビングとそれほど変わらない。その日のスケジュールを変更しても、二人一組を潜らせるべきだったのだろう。しかし、精鋭チームだと自負があった。実は、2人一組を何時いかなる状況でも忠実に守っている作業会社は少ない。皆無と言っても良いだろう。危ないと思うような作業は二人一組になるが、通常の潜水では、一人で潜ることも普通である。二人、バディで潜っても、仕事の内容によっては、水中で一人ずつに分かれてしまう。どんな時にも傍に仲間が居てサポートするようなやり方では、コストが二倍かかる。その中で私の会社はかたくなにバディシステムを守っている会社だった。スポーツダイビングにも関わっているからだ。
十三分の潜水で、輝之はビデオカメラを持って上がってきた。船上にカメラを揚げて、少し、息は切れているようだったが消耗している様子は無かった。タンクに残っている圧力を聞くと三〇気圧以上残っているという。労働安全衛生法で規定している潜水士の減圧表では、そのまま上がっても良い潜水時間であった。しかし、このような場合、プロのダイバーは、予防的な減圧停止をする。空気の残りを使い果たすまで水深三メートル点で停止する。彼は、「空気が無くなるまで減圧します。」ときっちりと申告して、再び潜り、船の下のアンカーロープにつかまった。
全員の眼は、引き揚げてきたカメラに集中する。どこが壊れているのか。どこかから浸水しているのか。もうだれも輝之のことは、考えていない。プロのダイバーが無事に浮上してきて、減圧停止を始めたら、もう彼を取り戻したものと思ってしまっても不思議は無い。
ふと、誰かが言う「脇水はどうしている?」水の中を覗き込む。気泡がでていない。船の底にはりついて、身体の一部が船底の縁から外にはみ出しているのが見えた。彼は船底に張り付くようにして動かない。すぐに引き揚げて救急蘇生法を行った。ウエイトは捨ててあった。ウエイトを捨てて、浮き上がり、船底の下に張り付いてしまったのだろう。浮き上がって船底にはりついてしまって不運だったという考えもあるが、張り付かなくて水面に出ても、声を出さなければ、誰も気付かなかったろう。そのまま潮に流されれば行方不明になる。
漁業無線で救急車を依頼し、岸に向かって走る。船が岸壁に着いて、待つほども無く、救急車は到着した。救急車の中で自発呼吸を開始した。そして、そのまま意識は戻っていない。
病院の集中治療室で、お父さんとも会った。
奇跡ということはある。生きて居さえすれば、意識がずっと後になってもどることもある。おかあさんは奇跡を信じている。お父さんを見ているのは辛い。彼の身体をなで、足をなでて、「鍛えた足です。母親ゆずりの足です。」という。お母さんはランナーとして国体に出た選手だったそうだ。
その日の午後、お母さんのお兄さんが後見としてやってきた。精神科のお医者さんだ。喫茶店で、お父さん、そのお医者さんと今後のことを話し合った。もしも、輝之が意識を回復しなかったらどうする。東京へはどうやって連れ帰るか、その後も長く植物人間の状態を続けたらどうするか。そんなことになったら、小さい会社だから、すぐに潰れてしまう。潰れない範囲で出来るだけのことをしたいと答えるしかなかった。
翌日の未明、脇水輝之は息を引き取った。市内の須田さんの寮でやすませてもらっていた私は、病院に駆けつけた。
私がベッドの傍らに立つと、椅子に座っていたお母さんが私に何かを訴えるようにすがりついて泣き出した。どうして、「何とかしてやれなかったの」と言いたかったのだろう。お父さんは、立って耐えていた。
告別式は夏の暑い日だった。
私の会社関係者の全員が出席した。
潮美は、お母さんと、そして妹の千春ちゃんと抱き合って手放しで泣いていた。潮美とお母さんとは初対面だが、互いの本当に悲しい気持ちが伝わると、どちらからともなく抱き合って泣いてしまったのだろう。三番瀬の中継で、空気が無くなったとき、脇水輝之は着衣のまま飛び込んで潮美を助けてくれた。もちろん潮美の命が危なかったわけではない。でも、エア切れでフルフェースマスクの潮美だ。おかげで苦しくなかった、彼のおかげで助かった気持が強かったにちがいない。
団地の集会所で、彼の小さい時からを見守ってきた近所のおじさん、おばさん、小学校、中学校、高等学校、塾の先生と友達、みんなに囲まれての葬儀だった。全員の目が私に突き刺さるように感じた。私は針のむしろに座る。
友達が挨拶した。「このくそ暑い日をぼくは決して忘れない。」
良い子だった彼のエピソードが次々と語られる。
その後10年間、何時でも、どこでも、私はこの日のことを思い出せば涙を流すことができた。
告別式で全てが終わったわけではない。事故処理の出発点に立ったのだ。
事故で休止状態になっている仕事の処理、何があろうとも受けた仕事は仕上げなければならない。ケガニの子どもは狭い生簀の中で、海に放されるのを待っている。
海難事故として、海上保安部の取り調べを受け、労働事故として労働基準監督署の取り調べを受け、そして、保険を出してもらうことと、お父さんとの話し合いが待ち受けている。
潜水作業会社の常としては、社長は事故処理の矢面に立ってはいけないと言われる。遺族に会っては絶対にいけない。事故処理係りが処理する。社長は告別式に出席してお線香を上げる。それで全て、それ以上のかかわりを持ってはいけないといわれる。
しかし、私にはそれはできない。10人前後の小さな会社であり、仲間は皆兄弟のように思っていた。僕にとっては息子だ。お父さんとの話は自分がしなければいけない。そして、訴訟にだけはしたくなかった。
携わってきたニュースステーションの番組は、有線通話器で水面と水中が会話する水中レポート番組である。フルフェースマスクをかぶって、普通に話をする。フルフェースマスクの中にはマイクが設けられており、マイクは一〇〇メートルのケーブルで音声信号を船上に送り返す。いつも一〇〇メートルの命綱を着けているのと同じだ。この命綱があったから、助かったという場面を何回か経験した。潮流に流されそうになったとき、空気が無くなったとき、氷の下をどこまでも潜り込んで行ったとき、十和田湖で水深五〇メートルを越えて、レギュレーターが凍結して、吹いたとき。いつでもケーブルがあるので逃れられた。なによりも、いつも潮美の呼吸が聞こえていることで、水面では安心していられる。呼吸は身体が正常であるかどうか判断する計器になる。呼吸が弾めばレッドゾーンに入る。もちろん、緊急時には「助けて!」と叫べば、すぐにケーブルを引き揚げて、ダイバーを回収することができる。ケーブルが安全の鍵だ。ケーブルの長さは一〇〇メートルだった。一〇〇メートルは野球場のフィールドなみだ。潮美のシリーズで、海で、船の上からの潜水では、ケーブルの長さが足りなくて困ったことはほとんどない。ニュースステーションの有線通話から、ケ-ブル・ダイビング・システムという潜水安全管理システムを考えた。
ケーブルの問題点は、何かに絡まってしまうことだ。絡まりにくいように、中性浮力の丈夫なケーブルをつくった。
そのころ海上保安庁が中心になって、スクーバダイビングの安全管理者の制度が作られようとしていた。この制度の実施面の推進者が、沖縄で警備安全を担当されていた、矢野智衛さんだった。ケ-ブル・ダイビング・システムについて、何度も相談し、賛同をいただいていた。
港に近い海域や、船の通る航路近く、船の交通の頻繁な東京湾や瀬戸内海などで潜水作業を行う場合には、海上保安部に作業の許可を申請する。申請書には安全管理の方法を書くことになっていて、決まり文句のように「スクーバを使用して、二人一組で潜水し、安全を確保する」と書く。私の場合はケ-ブル・ダイビング・システムを推進していたので、「一人で潜水する場合には、命綱を兼ねた有線通話器を使用して行う」とつけ加えた。今度の事故も「二人一組で潜水し、もしくは命綱を兼ねた有線通話器を使用して」行っていれば、死亡までには至らなかったはずだ。「虫の知らせ」というのがある。今回の仕事に間に合わせようとして、新しいケーブルを使った有線通話器を急がせて作った。
そして今回の事故が起こった。
私の作ったケーブルは、空しく船の上にころがっていた。しかし、ケーブルを使わなかったことを責めるわけには行かない。ケーブルを使う習慣が無いのだ。そして、特に今回の作業の場合には、五台のテレビカメラの五本の信号ケーブルが船を中心にして蜘蛛の巣のように張りだされている。これに自分の曳くケーブルが絡むのが嫌なのだ。フーカーのホースとは違って、ケーブルは、身体からはずしても、呼吸に差し支えはないのだが、やはり絡むのは嫌だ。
輝之は、一人で潜っている。しかもケーブルは使っていない。私たちは許可申請の約束を破って事故を起こしたことになる。
海上保安部は、私を書類送検することも出来た。そうしなかったのは、安全確保についてケーブルの使用などの新しい提案をしていた私の今後の活動を斟酌してのことだと言われた。矢野さんが、そのように動いてくれた。残りの生涯は、ダイバーの安全確保をライフワークにしよう。