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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0812 リサーチ・ダイビング 脇水輝之 1

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 日本水中科学協会で作る予定の単行本「リサーチ・ダイビング」の自分のパートを書いている。何人かのオムニバスにするつもりだが、僕の部分はリサーチ・ダイビングの沿革として、1953年から、現在までのリサーチ・ダイビングの移り変わり、自分のダイビングライフを書く、前に出した潜水グラフィティとは、視点を変えて、技術的なことを中心にしたい。書くのがとても難しい。とにかく、粗く書いて、削って行こうと進めていて、僕のダイビングライフの最重要事である脇水輝之の事故死のところまできた。
 この事件については、すでに何度も書いている。グラフィティでも書いた。 
 「ブルー・ディープ」という出版できなかった単行本の原稿を出して見ている。ぜんぜんコンセプトがちがうから、これは、使えない。全く違うものになる。しかし資料としては整っている。
 ブログに載せることにした。そういえば、お盆だ。墓参り、去って行った人を思い浮かべるしきたりだ。


1989 年 
 八月五日、毎日の日課で、昼休みにはYMCAのプールで泳いでいた。ゆっくりと千メートルをクロールで泳ぐ。最初は筋肉をリラックスさせて泳ぐ。気持ちよく水を切って進む。二〇〇メートルをすぎると、身体が硬くなり、進まないように感じる。五〇〇メートルを越えると気持ちが良くなり、ピッチを少し上げる。八〇〇メートルを越えると、力を入れて泳ぐ。最後の力を振り絞るように最後の50mをダッシュする。
 泳ぎ終わって着替えると、フロントに会社にすぐ電話をするようにとメッセージが入っている。電話をすると、函館で事故だという。
 会社のメンバーは大半が函館に行っている。放流したケガニの子供の追跡調査の仕事だ。函館から、半島を横断して裏側の噴火湾は、かつては、ケガニが沢山採れたが次第に漁獲は少なくなり、漁にならなくなってしまっている。日本栽培漁業協会では、稚ガニの放流を行っているが、目立った効果は上がらない。放した稚ガニは、生き残っているのだろうか、どこへ行ってしまったのだろうか。未だ、小さくて抵抗力のない稚ガニは、魚、たとえばアイナメなどの餌になってしまっているのではないだろうか。魚の餌になってしまっているとすれば、高いお金をかけて魚に餌をやっていることになる。
 魚介類の種苗の放流は、他の生物に餌をやっている結果になってしまう場合が少なくない。水槽で育てられた、ひ弱な子供たちは、天敵の餌になりやすい。どうしたらいいのか、どのくらいの数が餌になってしまっているのか、追跡調査をすることになった。場所は、噴火湾(内浦湾)の森(地名)である。森の駅は、イカ飯弁当で有名なところだ。
 だいぶ前から、私は水中の生物をビデオカメラで追跡調査する方法を追求していた。ビデオとカメラが一体化される前のことだから、小さくなったとは言えまだまだ大きいVHSレコーダーとカメラを一つのハウジングの中に入れる。当然、ハウジングも大きくなる。簡単なタイマー回路を自作して間欠的に録画させる。深さ60メートルの魚礁の周辺にこの装置を投げ込んで、六時間後に回収する。人工魚礁の中、人工魚礁の周辺の魚の動きは、ダイバーが入っての観察で見られる魚の動きとは全くちがうことがある。各地でこの方法で調査を行い、それなりの成果を収めた。
 私はアトランダムに、つまり、適当にカメラを投入する方法を追及したいと考えていた。その方が費用がかからないからカメラの数を多くすることができる。アトランダムであっても、カメラの位置がしっかりと図上に定められていれば、統計的な処理が可能である。
 私の後で人工魚礁の調査を引継いでいる田沼君は、アトランダムでは駄目だと考えている。後を引き受ける人は、必ず前にやっていた人とは違う方法で同じ仕事をするものだ。それがよりよい方向に向かうか、間違った方向に向くかは、結果がすべてだ。私たちの場合は、まあまあ、一長一短で進んでいた。彼はダイバーが潜水して、カメラをきちっと並べて設置する方法でなければ駄目だという。もちろん、できればきっちりと設置した方が良いに決まっているが、一人のダイバーが、一回の潜水で多分一台だけしか設置できないから、多数を設置する場合にコストが高くなる。人工魚礁の沈設されている深度は次第に深くなりつつあり、50mを越えるのが普通になっている。50mを越えると、多数のカメラをダイバーがきっちりと設置し、回収することは、普通の予算ではできなくなる。適当に放り込んで、なおかつ統計的な処理ができる方法を追い求めなければいけない。
 もっとも、このケガニの調査では、誰がやったとしても、僕がやったとしても、カメラはきちんと並べて映像も水面にケーブルで上げて映像を船の上で確認する方法を採用するだろう。水深も30mから40mだから、ダイバーの作業が可能な水深でもある。
 甲殻の大きさが人の指の爪ぐらいの大きさのケガニの子供を放す。
 放流地点から同心円の位置に複数、あるだけのカメラを据えつけて、カメラの前に出現する数と、放流後の経過時間を計って、分散の様子を観察し、統計的に処理するデータを収集する。同時にダイバーの目で、集まってくる魚の種類と数、食害の数も数える。その後は、設置したカメラでの観察を続けて、砂に潜ったカニが再び外に出てきて、分散する様子を観察する。そんな調査をしていた。
 ※今、アクションカムの時代である。楽になった。


 会社に戻って連絡を待つまもなく、電話が入った。
責任者の田沼君からだ、「今日の午前中、テルが潜水中に意識不明になり、人工呼吸しました。救急車の中で自発呼吸を始めましたが、まだ、意識はもどりません。」テルとは、脇水輝之の愛称だ。
 受話器を握ったまま、膝から下の感覚が無くなった。自分が立っているのかどうかもわからない。
 「それで、どうなるの?」
 「医者はむずかしいと言っています。家族にはもう連絡をとりました。」
 「とにかく、すぐ行くから。」
 すぐ行かなければと思いながら、パニック状態になり何をどうしたらよいかわからない。心臓の鼓動が大きく聞こえる。とにかく、落ちついて、何をなすべきか考えなければ。飛行機のチケットを聞いてみた。当然この夏の観光シーズンに今日の明日で北海道行きのチケットがあるはずはない。電話を方々にかけて、緊急だからとVIPのルートで朝一番の飛行機をとった。函館に居る親しい友人、富士サルベージの須田新輔さんに電話を入れて、めんどうをみてくれるようにお願いもする。
 北海道と言えば飛行機と連想してしまったのだが、夜行寝台で行けば、朝には函館に着いてしまう。飛行機は必要なかったのだ、秘書の大森とも子も、それに気づかなかった。すぐに寝台を手配して、家族は寝台で行ってもらう。無理をして手に入れた飛行機のチケットは、キャンセルするわけには行かないから、私は飛行機で行くことになった。
 深夜の上野駅に、脇水輝之のお母さんと妹を見送った。初対面だ。言葉もない。「とにかく生きていてくれれば」というのがお母さんの言葉だ。妹の千春ちゃんは、しっかりしている子だ。
 脇水輝之は、東海大学を卒業して、会社に入り二年目だ。大学ではスキンダイビングクラブのキャプテンだった。明るくて誰にでも好かれて、本当にいい子だった。たくましい身体の持ち主で、よけいなことも言わない。
 水中作業の業界では、東海大学卒業二年目が危ないというジンクスがある。ジンクスだから、理由などない。強いて理由をさがせば、東海大学卒業が潜水作業の仕事につくことが多い、多ければ確率的に事故もふえる。そして彼等はまじめで良い子すぎるのだ。この仕事は狡賢くなければ生き残れない。ベトナム戦争でウエストポイント出のまじめで良い子の死亡率が高かったというのと同じだ。戦場では狡猾な下士官がお守りについてやらなくてはならない。ダイビングでも、何とかして守り育てる態勢を受け入れ側はつくらなければならない。私の会社は、そのように努力してきたつもりだ。テル坊は、みんなにかわいがられていたから、彼に無理をさせることなど決してなかったはずなのに、どうして、何が起こったのかわからない。
 事故で家族と会うのは辛い。これまで、自分の会社では無事故で過ごしてきたから、初めての体験だった。とにかく、誠意を尽くして後は天命を待つしかない。
 家に帰り、妻に報告した。会社も止め、財産もすべてを失うかも知れないと、了解してもらった。まだ、私のパニック状態は続いていた。人間とは弱いものだと思う。

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