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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0601 慶良間からの中継

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 陽圧ガスマスク


そのころ液化ガスを貯留している巨大な球状のタンク、工業地帯では見ることが出来るのだが、京葉工業地帯にある野球グラウンドほどの大きさのタンクを内部から点検する仕事が発生した。作業は、窒素ガスを巨大タンクに充填して、その中に人間が入って、溶接面などに亀裂が無いか点検する。
 なにしろこの巨大球状のタンクが大地震などで破壊され、ガスが漏れると、ガスは空気よりも重いので地を這う。海ならば水面を這う、水面を這って広がり、それに引火すれば、東京湾は火の海になる。ガスタンクが球状をしているのは紙風船の原理、紙風船はポン!と突かれればその部分が凹んで、破裂しないで舞い上がる。この巨大球状ガスタンクは、ステンレス製の紙風船で、土台の上に載せられている。地震が起きればポン!と突かれて、ある程度凹んで破裂を免れる。本当だろうか、計算通りに凹んでいるだろうか、中に人間が入って撮影して調査しなければならない。沼沢沼揚水発電所の中に潜って調べたのと同じようなものだ。
凹みを見るために、なかに圧力をかけなくてはならないのだが、巨大球タンクに空気を充てんするのは、費用が掛かりすぎるので、窒素を充てんする。液化窒素から充てんすれば安上がり、らしい。窒素は完全な無酸素だ。その中に入るためには、陽圧のフルフェイスマスクを着ける。陽圧とは、環境圧よりも高い圧力という意味で、陽圧ならばマスクから外に空気は漏れ出すが、外からマスクの中に無酸素の窒素ガスが入ってくるおそれはない。この仕事、日本アクアラングから親会社のテイサンに転じた、石黒さんから来た話だった。親会社から子会社に出されるのは、栄転ではないが、子会社から親会社に引き抜かれるのは異例のことで、栄転だった。その関わりで、その後のヘリウム潜水のヘリウムはテイサンから石黒さんルートになり、後の僕のヘリウム潜水は全部このルートになるのだが、窒素ガスもテイサンの仕事だった。
 窒素ガスの中に潜るのは、陽圧マスクを使ったとしても、命が危ない。1000万近い収入になる。そういう仕事大好きだった僕は、即飛びついた。残念なことに、窒素環境に潜水?ではないけど入る仕事は結局パーになり、窒素の代わりに水道代はかかり、時間はかかるにしても、窒素との価格差はそれほど大きくないということで、水を満たすことになり、結局は潜水の仕事になり、収入の〇は一つ減って、100万円代の仕事になったが、やらせてもらった。
 そして陽圧マスクが残った。

 僕と並行するように、NHKの河野祐一カメラマンが水中レポートを追っていた。かれは、オーストラリアロケで、口と鼻だけを覆う、通称モンキーマスクで、カメラで撮影しながらカメラマンがレポートするシステムで撮影をした。その河野がダイブウエイズに来て、この陽圧マスクを見つけてしまった。ダイブウエイズにとっては、身内(役員)の僕よりも、お客様であるNHKをないがしろにするわけにはいかない。それに河野は、日本潜水会ほ発足時からの指導員が、僕の親友である。僕と河野は、全日本潜水連盟の発足と同時に、全日本コイコイ連盟というのを結成した。指導員講習の夜、花札のコイコイをやる連盟である。僕らは若かった。若さとはバカさでもある。そんな仲である。
 水中レポートは、資力に勝る、NHKの方が先行して、日本の潜水界初、テレビ放送界初の水中と陸上を結ぶ中継は、NHKがやり、たしか石垣島の海底とスタジオを結んだ。その時の水中レポートは、目方頼子アナウンサーで、彼女がフルフェースを使った水中レポーターの第一号でもある。
 その目方さんは、彼女が上智大学の学生だったころ、日本軍戦士グアム島生き残りの横井庄吉さんのサバイバル生活を題材にして、横井庄吉と7人の女の子の無人島生活、という飛んでも番組で一緒になって、7人の女の子のうちで、ただ一人ダイビングができる子だったので、モデルになってもらった。人間関係というものは、綾のように入り組む。


  そのころ撮影の仕事をさせてもらっていたのは、日本テレビの山中プロデューサーで、知床のキタキツネ物語では、冬の流氷に潜ったし、ポナペのナンマタール遺跡、アラスカ、ガラパゴスなど世界の海にご一緒して水中撮影を担当した。当然、水中レポートの話も山中プロデューサーに持ち込んだ。マイクの改善、通話システムなどは、日本テレビの音声技術と一緒に開発した。
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 そして、この結実で、1985 年2月、沖縄は慶良間の水中と、北海道札幌の雪まつり会場、そして日本テレビスタジオの徳松アナウンサーと結んだ三元中継を行った。なぜ、北海道札幌か?、山中プロデューサーは、キタキツネの親子を追うテレビ番組制作の状況を四季を追って書き、朝日ジャーナルのノンフィクション大賞を受賞し。「シルエトク:地の果てるところ」という単行本を出した。その中で北海道斜里の定置網漁の若手ダイバーたちが活躍する。ぼくらの流氷の潜水、撮影もこの斜里の仲間が一緒に潜った。その中の一人、佐藤雅博が、慶良間の海で僕らと一緒に潜り、札幌雪祭りの会場に来ている家族と、水中でサプライズの対面、会話を交わす趣向だった。
 潮美も出演したが、まだメインの水中レポーターではなく、脇でささえるレポートをした。この水中とスタジオを結ぶ中継はNHKに先を越されているので、僕らは日本民放初というタイトルになった。
 別の番組で、知床の流氷撮影があり、ダイビングのできる若い女優さんをレポーターにしたが、その合間にアシスタントとして同行させていた潮美を氷の下に入れた。親バカの目かもしれないが、明らかに潮美の方がよかった。
 1986年、潮美は大学4年になり、就職は、当然日本テレビにと撮影スタッフたちは勧めた。しかし、アナウンサーの訓練も受けていない。一般入社では狭き門だし、万が一合格しても水中レポーターなどという職は、存在しない。就活で、たしか東京スバルだかに望まれていた。
 そして、その秋(1986)
 テレ朝の新しいニュース番組、ニュース・ステーションで、新しい試みとして日本の自然を紹介する15分程度のコーナーが設けられることになり、マチャアキ海を行くのプロデューサー 田島さんを通して応募して、東京湾を取り上げることになった。そして、それを水中レポートする、レポーターとして、今お台場を一緒にやっている風呂田先生(当時東邦大学講師)を起用した。
 これが、まずまずの好評で、第二騨が、そしてうまく行けばシリーズになる、僕は流氷を、水中レポーターに潮美を起用することを提案した。
 


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