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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0531 「要約すると」 1

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「要約すると」 1


 ずっと、自分の潜水人生を振り返って見て、流れというか、逆らえない何かに導かれるように、その場所、位置に行ってしまう。
 大学時代に読んだサマセットモーム、「月と6ペンス」だったか、「要約すると」 だったか、その両方だったか、人生は経糸、横糸を紡いで、一つの絵柄を作っていくようなもの、モームはタペストリーと表現していたように覚えているが、
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 1963年、100mを目指した時、送気式、全面マスクを選んだ。フルフェースという言葉はまだ、なかった。そのマスクにレギュレーターをつないだ。そして、それを題材にして、テレビ番組を作ることんなって、監督(ディレクター)から水の底からの声、音声が無ければ番組は成功しないと言われて、東亜潜水機で水中電話機を担当していた、片多さんにお願いして、ヘルメット式潜水機につけていた水中電話機の改造型をつくってもらい、海底からの声、つまりレポートを上に上げた。93mで、意識を失って落下してくるバディの舘石さんをつかんで「舘石さんを上げてください」と絶叫して、命綱を引き上げてもらった。このレポートが効いたのか、番組のタイトルは「命綱を降ろせ」となった。意識を失った原因は、窒素酔いだか酸素中毒だったか、わからないが、93mが到達水深だった。

 このフルフェースにレギュレーター、デマンドバルブを付ける方式は、職業潜水のスタンダードになるのだが、それを完成させずに東亜潜水機を退職してしまった。本当に申し訳ないと思って、トラウマになっている。今朝(2020年5月16日)東亜潜水機の三沢社長が夢に出て来た。社長はゴムの配合をしていた。「須賀君88歳になったよ、」と言った。はっきり覚えている。僕は今85歳だ。八十八、末広がりが二つ重なって縁起の良い数字だが、僕はそのあたりで、世を去るのだろうか。


 そして、時は流れ、1980年、釜石湾港防潮堤工事で、水深60mの作業をして、フルフェースにデマンドレギュレーターを付け、ホースで空気を送る、カービーモーガンのバンドマスクシステムを使った。本来ならば僕が開発していなければならなかったシステムだ。
 親しい友人の武田さんが作った会社 ダイブウエイズに僕は役員として参加していて、そのダイブウエイズで、フルフェースにマイク・レシーバーを付けるシステムの開発をお願いした。釜石の後に、龍泉洞、そして沼沢沼揚水発電所の取排水トンネルの工事で、有線の水中電話を使った。マウスピースでしゃべっても、意味は通じるのだが、もこもこ声である。
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 そのころ、僕が1963年の100m潜水をやった前年の生まれた娘の潮美が大学生になり、法政に入り、アクアクラブに入部した。
 彼女は小さいときに何度も中耳炎を患ったことがあり、そのためか耳ぬけが悪かった。夏の八丈島合宿でようやく耳抜きがよくできるようになり、素潜りで10mできるようになった。「夏の合宿で、一番伸びた。」と先輩に褒められたと喜んでいた。
 そして、その秋の合宿で事故が起こる。
 そのころ、僕らは泳力こそが、泳ぐ潜水であるスクーバダイビングの能力の基であると考えていた。その泳力のテストで同学年の男の子が亡くなってしまう。
 部活は、活動停止状態になる。
 せっかく習い覚えた、しかも鍛えた泳力を無にするのはもったいない。僕の撮影の助手をさせることにした。
 父親にとって、自分の娘とともに仕事の旅をすること、しかもそれが、自分が選んだダイビングであること。それ以上の幸せは、ちょっと見つけられない。今もはっきりと思い起こせるシーンがたくさんある。
 石垣島で追い込み網の撮影をした。そのころのビデオ撮影は船の上にビデオレコーダーを置き、ビデオカメラとの間をケーブルで結んでビデオ信号を送り録画する様であった。ビデオレコーダーをハウジングに入れて水中に持ち込めば、自由に泳ぐスクーバで行ける。ビデオレコーダーをハウジングに入れたのは、僕ら、スガ・マリン・メカニックが一番早かった。ハウジングを作るメーカーから撮影に転じたからであり、そのハウジングの類を次々と作ってくれたのは、自分も役員に名前を連ねていたダイブウエイズであった。
 そのころのビデオレコーダーは、大きな箱型で、ずいぶんと重かった。水中だから浮力はゼロにしているので、水中で重さは無いが、質量は大きいから引っ張って移動するのは泳力が必要になる。
 追い込み網は、穫ろうとするグルクンの群の泳ぐコース、追っていくコースの前方に追い込む箱のような網、つまりポータブルの定置網を張って、ダイバーがスルシカーと呼ぶハタキのようなヒラヒラのついた棒で追い込んで一網打尽にする。追い込むダイバーは、グルクンの群と一緒に、時には前にでて追わなくてはならない。つまり、逃げまどう魚と同じ早さで泳がなくてはならない。それと、同じ早さでカメラを持つ僕、レコーダーを引く助手の潮美が泳がなくてはならない。潮美は水泳選手体型ではない。普通の女の子だった。
 追い込み網の親方に褒められた。「お姉さんすごいね。漁師になれるよ。」同期生が亡くなった立ち泳ぎトレーニングが役にたっている。
 沖縄では久高島のロケ、小笠原のロケも助手を務め、冬には知床ロケに同行した。
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丁度そのころ、フルフェースマスクにマイクを仕込んで水中からのレポートをするシステムの開発をダイブウエイズで進めていた。作業ダイビングの世界では、釜石湾口防潮提工事で、使ったカービーモーガンバンドマスクで通話が出来たし、シートピア海底居住でも普通に使っている。そもそも、ヘルメット式潜水機には水中電話が使われている。

 それをテレビ番組で使う発想は1963年の100m潜水で、TBSの竹山ディレクターから、テレビ番組はレポート、声がなければ持たない。いくら珠玉のカットを撮っても、ニュース性、話題性がなければ、それはフィラー、天気予報の背景にしかならない。水中からの現場の声、つまりレポートが必要と言われたことにあった。
 なお、一方では何の意味もない、ただ美しいだけの映像を動く壁画、動く絵として部屋に飾り、見るともナシに見ていて癒しにするという環境映像も創られるようになり、その撮影にも関わり、熱中するのだが、テレビ番組としてはレポーター、実況を報告するアナウンサーが実像として其処にいて、しゃべっている必要がある。彼が、彼女がテレビ画面の中にいることで、放送が成立するのだ。
 カービーでも出来ないことは無いのだが、工事ダイバーがレポートしているイメージになってしまう。
 
この項続く

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