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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0425 リサーチ・ダイビング 釜石湾港防潮堤

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      船上減圧のタンク



5-2 釜石湾口防潮堤
日常は、人工魚礁の調査、藻場の調査などをやりながら、大きな仕事が来るのを待っている。じっと海底に横たわっていて餌が頭上に来るのを待っている。来たら飛びつく。
 昭和55年(1980)岩手県釜石湾口の防潮堤の基礎調査工事をやることになった。サウジアラビアでのマネージャー就任を断った、日本シビルダイビングとのジョイントでの作業だった。シビルダイビングからは、田中君という監督が来て、ダイバーは,スガ・マリンメカニックと、それに、シートピア(海底居住実験)を実施していた海洋科学技術センター(今のジャムステック)から 田淵君、米倉君 が加わり、ベテランのフリーダイバー上村君、それに、清水の望月さんのところから、横田君が参加した。大きなプロジェクトだから、参加して、名前を出して置くことに意味があると、誘ったものだった。
 ちょうどその時、田島雅彦が、茨城県立那珂湊水産高校の専攻科を卒業して入社した。船乗りになるため、船長免状をとるための専攻科だが、僕が茨城の調査をする時の定宿である万年屋に下宿していた縁で知り合った。
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     田島雅彦、このあとジャムステックの深海潜水コースに入学した。
     その時の写真。残念なことに癌で逝ってしまった。

湾口防潮堤は、春から秋へ、長い期間の仕事だったから、休日を作り、体育館で運動したり、近くの観光をしたりした。
体育館では、バスケットをやった。僕は中学から高校まで、バスケットのプレィヤーだった。大学一年でバスケットをやめて以来始めてボールに触った。フリースローがリングにとどかなかった。体育館で、田島は、腹這いになって後ろに手をまわして両足首を掴み、腹筋で跳ねた。ボクシングのチャンピオン、具志堅がこれを出来た。それと同等の身体能力ということになる。
 湾口防潮堤とは、津波が起こったときに被害をくいとめるための堤防である。釜石湾は、リアス式の三陸海岸であるから深い。深い湾の湾口、水深64mの海底から堤防を築き上げる大工事である。石を積み上げるために、船底が開く石積み船から石を落とす。その石が、どのように積み上がったか、設計通りに積み上がっているかを確認して行く調査である。水深64mの海底で、ポールを立て、線を張りめぐらせて、測量をする。水深64mだから、普通の空気では窒素酔いになってしまう。ヘリウムと酸素の混合気体を使う。
ヘリウム・酸素混合ガスによる潜水は、よく知られていたが、1980年の日本ではまだ実際の作業例は少なく、各方面の注目を集めた。技術指導と機材の貸与(もちろん有料)をしたジャムステックとしても、数少ない工事実施例になった。しかし、実際の現場では、連日、高価なヘリウムは使えない。かなり慣れてきた途中からは普通の空気で潜った。減圧は、船上に副室のある小型再圧タンクを置いて、船上減圧で潜水した。船上減圧とは、完全な減圧停止はせず、第一段目の減圧だけをして浮上し、3分以内に、減圧症罹患してはいるのだが、まだ発症しない状態のうちに再圧タンクに入って、治療を開始してしまう。発病しないうちに治療してしまえば何事も無いという理屈だ。
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 この潜水で使っていた潜水器は、ホースでカービーモーガンタイプのバンドマスクに送気するフーカー(潜水士のテキスト・最新版では、デマンドバルブをつけたフルフェースマスクと呼んでいる)であった。バンドマスクは、重いフルフェースマスクであるが、水面からの送気と背中に背負っているタンクからの空気供給を切り替えることが出来、米国のコマーシャルダイビングでは一番多く使われている。
 ※今のダイブウエイズのフルフェイスマスクは、それに対応している。カービーほど重くないし、顔当たりも良い。
 深い潜水ではガスの消費量が大きいので、ホースで送気する。エア切れの心配は無い。そして、もしも、送気装置が壊れたり、ホースが挟まったりして送気が停止した場合には、背中に背負っているスクーバタンクに送気を切り替えて浮上できる。減圧停止ができなくても、船上のタンクに入って減圧を加えることができる。国際的なルールでは、このように、送気が2系統の潜水器でなければ、水深55m以上の潜水作業はしてはいけないことになっている。また、水中で失神したとき、マウスピースを口から放して溺水することが無いように顔の全面を覆う、フルフェースマスクを使わなくてはならない。いわゆるシステム潜水だ。
 このシステムこそが、東亜潜水機でやらせてもらった水深100mの実験潜水の完成形であったが、残念ながら、完成させたのは、外国のメーカーだった。
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       ガスバンク
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      ガス分配器 オペレーターをやった田渕君
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     よくも、こんな梯子から潜水出来たものだ。

 この釜石の潜水からさらに25年後、2005年、道路拡張工事で移転した東亜潜水機を久しぶりで訪ねた。機械工場は、佐野専務の息子さん、東亜潜水機を退社したときにまだ小学校高学年だった弘幸さんがやはり専務になり、大きくなった工場を取り仕切っていた。僕が好きだった佐野専務、三沢社長はすでに逝ってしまっている。
 「僕がここに残っていれば、東亜潜水機は、フルフェースマスクの世界的なメーカーになったかもしれませんね。」
 息子の佐野さんも優しい人で、きっとそうなりましたねと言ってくれた。
 退社した当時、ヘルメット式潜水器のメーカーは二社あった。東亜潜水機と横浜潜水衣具だった。横浜は後年、海上自衛隊関連の仕事で、釜石でも使っているカービーモーガンのバンドマスクのライセンス生産をした。日本の製品の常で、原型よりも質が良く、世界的にヨコハママスクとして人気があった。その横浜潜水衣具も、2007年の今は会社を閉めてしまって無い。主力製品であったヘルメット潜水が、作業潜水の主力の座をフーカー式に譲って、今や伝統技術として保護しなければ残らないような状態になってしまったから、持ちこたえられなかったのだろう。
 東亜潜水機は、ヘルメット式潜水器のメーカーとして唯一になったが、それでも今やコンプレッサー関連の売り上げが8割だという。
 今はもう、コンプレッサーのメーカーですよ、と佐野さんは言う。コンプレッサーも、僕の100m潜水実験のあと、次の120mを目指すために、ヘリウムを回収して再使用するヘリウムコンプレッサーが売り物になっているとか。
 スガ・マリンメカニックとしての釜石湾口防潮堤のメンバーは、須賀、河合、鶴町、米田、井上、田島、以上スガ・マリンメカニックの社員で、フリーの助っ人は、田渕(ジャムステックから紹介されエンジニアリングをお願いしたチーフダイバー)、ジャムステックからの米倉、フリーの上村、横田で、現場監督はシビルダイビングの田中君だった。

 ※、後に、2010年、日本水中科学協会を作って、プライマリーコースをやるときに米倉君は、ジャムステックの担当になってくれて、多大なお世話になった。
 日本シビルダイビングは、名古屋の会社で、お金に渋い。サウジではほぼ、使い放題だったけど。

監督の田中君が契約してきた宿舎に入って見て、「ワン!」と吠えた。八畳間が二つ、襖を取り払って一つにして、全員が一つの部屋で寝る。布団は厚さ2cm、本当の煎餅、窓から光は射さない。夕食のカレーライスには、蝿が入っていた。風呂は無いので、向かいの銭湯に行く。近所のお爺さんが入ってきて、毎日、千昌男の「北国の春」を歌う。僕たちも声を合わせて合唱する。今でもこの歌をカラオケで歌うと、涙がにじんでくる。
ある日、シビルダイビングの社長が視察に来た。サウジアラビアに一緒に行った大畠社長だ。良い旅館をとり、マットレスを敷いた上に厚い布団を敷いて寝ている。こっちは厚さ2cmの煎餅だ。同じ社長でなぜちがう。愚痴を言ったら、田島に言い返された。では、明日から良い布団で寝て隠居してください。もう、ダイビングはしなくていいです。「ごめん、僕はここで寝て、潜る。」
 45歳、まだまだダイビングでは、人に負けないつもりであったが、やはりホースさばきが下手くそだった。径が8mm、ホースとしては細いが、水深60mを越すから、120mぐらいのホースを曳いて潜らなければならない。それでも、次第に上達して、終了ごろには、みんなと対等に潜れるようになった。
石を落として、山を作る。その山が設計の通りかどうか確認のための測量である。ソナーでも大体の形はわかる。しかし、10cmぐらいの精度で測るとなると、実測する他ない。恒久的なポールを立てて、ポールの間に水糸を張る。水糸からスタッフを立てて、山の高さを測定する。本格的な測量をやった。透明度が良いので、こんな測量ができた。
40m以上に潜水する場合、ヘリウムとの混合気体を使う理由は、窒素酔いを防ぐためだ。僕らは経費節減、名古屋の会社だから、と陰口をきいたが、ヘリウムはなくなったら補充せずに空気で潜っている。
 ある日、本来の仕事である測量ではなくて、錨引き揚げの仕事が来た。大きな錨を、工事の船が落としてしまった。潜水して太いワイヤーロープを錨にはめこんで、ボルトを締めて来る仕事だ。錨を落とした、地点に目印のボンテン(浮き)は入れてあるが、それを目印にロープを降ろしても海上のことだ、5mや10mは離れてしまう。海底でそれを引きずって、錨に取り付けなければならない。僕がやるような仕事ではない。だけど、やることにした。良くない性格だ。なんでもやりたがる。鶴町と一緒にやることにした。水深は少し浅くて、55mだったと思う。作業に10分はかかるだろう、余裕を見て潜水時間15分として潜降した。
 アンカーとワイヤーロープは10mほど離れている。引きずらなくてはならない。ワイヤーロープは重いから重労働になる。フルフェースの空気をフラッシングにした。フラッシングとは、前面のガラスが曇った時に、空気を吹き付けて曇りを落とすために、送気を、フリーフロー状態にすることだ。こうすれば、ヘルメット潜水同様になり、デマンドバルブ(レギュレーター)を経由する呼吸抵抗がゼロになる。ヘリウムを使っていたらこんなことはできないが、空気だから、幾ら吹かしても良い。二人でロープを担ぐようにして引っ張り歩いた。10mは遠い、ようやく錨にロープをボルト止めにして、そこで、力尽きて、二人とも打ち伏した。所要時間は5-6分しか経過していない。呼吸はもとに戻ったが、二人とも動く気持ちにならない。上から、電話で、時間経過を告げてくる。「8分経過、」しごとは終わったのだから、浮上しても良いのに、そのまま横たわっている。潜水時間15分というのが焼き付けられているのだ。窒素酔いで、仕事が終わればすぐに浮上したほうが減圧時間が少なくて済む、と頭がまわらないのだ。「15分経過、浮上してください」「了解」で浮上した。
 何も考えられない、考えさせないほうが良いのかもしれない。
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 プロの潜水で深く潜るのは、このようなホース送気のシステム潜水でなければ、いけない。日本の高圧則でもそうなっているし、国際的にももちろんどうなっている。スクーバを使うテクニカルダイビングは、危険度が高い。
 仕事も完成が近づき、先が見えてきたある日、休日を作って付近の観光にでかけ、岩手県の竜泉洞にやって来た。洞窟の一番奥、引き込まれるように青い水を覗き込み、「潜ってみたいね」と話し合った。

ここ釜石でも、ダイバーが死んだ。僕たちの工事ではなく、地質探査のために、海底に爆薬を仕掛けるダイビングで亡くなった。親友と言うより、弟のように思っている石巻の福田君が受けていた仕事だった。僕らの仕事は終了して東京に戻っていたのだが、ピンチヒッターを買って出た。大阪のフリーのダイバー、上村君とバディを組んだ。彼も名人だ。水深65m、普通の空気で潜った。事故は、窒素酔いが原因だろう。僕は、窒素酔いにもなれ、重いカービーのバンドマスクにも慣れて、視界の狭さも苦にならない。秋も深まった釜石湾は澄み切っていた。見上げると、ホースも水面まで一直線に見える。海底に穴を開けて、ダイナマイトを差し込む。このまま、ここに居たい。窒素酔いになっているから気分が良いのだ。水面を見上げると、気泡が輝きながら、浮いていく、陶然とそれを眺める。水面から浮上を指示してくる。仕方がない。ふんわりと上がって、楽しく減圧停止をする。
 空気の質が良くて、空気量があまりあるほどあれば、窒素酔いは気分が良いのだ。それに、意識を失ったとしても、、ホースを手繰って引き揚げてもらえるから安心だ。窒素酔いは、酒酔いとおなじように、ジャンキーになる。酒のように二日酔いにもならない。
 湾口防潮堤の、測量工事が終わっても防潮堤の工事には、細かい潜水仕事が発生するかもしれない。日本シビルダイビングでは、釜石に駐在するダイバーがほしい。スガ・マリンメカニックから誰か一人出向してくれと依頼があった。かわいそうに、鶴町が島流しになることになった。人事の序列としてそうなるのだ。河合君と、鶴町が同列だが、河合は、コックの修行もしてことがあり、要領が良いのだ。軍隊の戦争で、下士官の要領の良さが、重要であるように、潜水仕事も要領なのだ。要領、つまりずる賢く立ち回ることが事故を防ぐ、事故の起こる臭いを嗅ぎ分けて逃げることに巧みなのだ。鶴町はまっすぐないい男で、悪賢くない。貧乏くじを引く。鍛えられてやがては賢くなって独立するのだが、まだ、この時代は、島流しになった。これという仕事もなく、半年ほど駐在した。
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    これは、釜石ではないが、寒さに震える
   左から、鶴町、河合、新井拓


 ※僕らが1980年に基礎工事の測量をした釜石の大湾口防潮堤は、30年近くかかって、ようやく完成した後に、東北大震災の津波が来た。津波は防潮堤を乗り越えて、釜石の街を襲った。防潮堤があったために、何分か潮が上がるのが遅くなり、そのために何人かの人が助かったのだという意見と、いや、防潮堤があるからと安心して逃げ遅れた人も居るのではないかという意見もあった。
 釜石は懐かしい街だ。グーグルアースで街並みをみる。昔とは、全く変わった。甲子川には、いまでも鮭は上ってくるだろうか。たしか、橋の上に市場があったはずと探しても見当たらない。湾口防潮堤は立派にのこっているけど。
 


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