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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0423 リサーチ・ダイビング 番外の2

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 上の写真は、その当時ビデオカメラで人工魚礁を調査撮影している。カメラとVTRは別々で、船上にVTRを置き、ケーブルで繋いでいる。ライトも有線ライトで、発電機を船上に置いていて、ケーブルを曳いている。
 このケーブルのために、救われたことが幾たびか。ライトマンとカメラマンの組み合わせは絶対的なバディシステムであり、このために救われたことも幾たび。この場合、ライトマンが先導するのか、カメラが優先するかだが、僕の場合、このころは、ライト優先で、ライトを当てた部分をカメラが撮影するようにしていた。
なお、本文はビデオ撮影ではなくて、スチル撮影である。
 つくづく、当時の写真が全部残っていれば良いのにとおもうことしきり、なのだが、流転のうちにほとんど紛失してしまっている。
 なお、このスチルは、ペンタックス17mmで撮影したもので、当時の超広角、ちょっと四隅が蹴られている。



  僕は、一応、ものを書くのがすきだ。今書こうとしている本で10冊目になる。 山中プロデューサーのように、ノンフィクション大賞は取れないだろうと思って、応募もしないが、なんとなくまとまった良い文章、そんなものを書いてみたいと常々思っていた。
 この文は、そんな気持ちで、2008年に書いたものに、今、付け加えながらの復刻である。
 ナンマタールは、ちょっと付け加えが多くなりすぎて、ほぼ、支離滅裂になった。そこで、今度は、2008年のほぼ、原型のままで行ってみたい。
 テーマは人工魚礁調査である。先日、オープニングのところだけ、フェイスブックに出したら、全部読んでみたいという人も居たので、調子に乗って、ということもある。
 ダイビングワールドに1970年代に掲載したものの、復刻を2008年に書き、そのまた復刻である。


5-2 人工魚礁調査 船酔いの大海原
 

2008年、、ダイビング雑誌は、ダイビング・ワールド、ダイバー、マリンダイビング、三誌が本屋に並んでいる。と書いたら、ダイビングワールドが休刊してしまった。そのダイビングワールドに、1976年5月から1977年3月まで、「青い大きな海へのちっぽけな挑戦」と題して、11回の連載を書いた。
 その最終回に、人工魚礁調査を書いた。少し書き直してここに入れる。
 ※ なんだ、書いたのは1977ねんだったか。
 薄緑色のコロナ・ハードトップクーペのシートに納まる。シートは僕の身体をぴったりと包み込む。15万キロもこのシートに座って走ったのだから、身体とシートは一つになっている。秋の大気を車内にいれようと窓を開ける。ギリギリときしんで片手でハンドルを廻しても開けるのに、苦労する。細かいところはガタが来ていて、外回りは凹んでいるけれど気持ちよく走る。房総の低い山なみは、そろそろ冬枯れに近い。春から夏になる季節の移り変わりはゆっくりゆっくりだが、夏から冬へは早い。
 このあたりでは、最も大きな漁港である勝浦で、千葉県水産試験場の調査船「ふさみ」が待っている。出港は明朝だが、港に着くとその足で船に挨拶に行く。魚市場の前の岸壁に船尾を着けている船の周りには、魚の腐った臭い、ディーゼルエンジンの油の臭い、船のペンキの臭い、全部を混ぜ合わせて、網の臭いと潮の臭いを加えた漁船の臭いがする。この臭いをかぐと、なんとなく食道にこみ上げてくる。
少年の日、青い海原にあこがれた時、誰もこの臭いのことを教えてくれなかった。高校生のころ、12フィートのディンギー(小さいヨット)を乗り回したが、船酔いはしなかった。さわやかな潮風の香だけを感じた。
大学に入ってから、海洋観測実習で船酔いとの付き合いが始まった。海原に船を停止させ、定点観測をする。生徒に船酔いの洗礼を与えるためだけの実習にしか思えない。船での食事のあと、交代で食器洗いをするのだが、洗うために前こごみになると胃が圧迫される。それに食べ残しの臭い。たちまちのうちに今食べたものが、洗っている食器の上にぶちまけられる。「お前は洗っているのか汚しているのかわからないなあ」OBのサードオフィサーが笑っている。
 定点観測は、24時間船を定点に止めて観測する。止まっている船に揺られるのが一番辛い。観測だから、海に降ろした水温計を引き揚げて細かい目盛りを読む。海はまあまあの凪で、うねりでゆるやかに船が揺られているだけだが、走っている船よりも停まっている船の方が酔う。吐くものがなくなって苦しいくらい吐いた。
海、海原という言葉からの連想が「船酔い」になった。
海辺育ちの同級生はみんな船酔いする。船酔いのことを知っているからだ。山の中育ちは意外に酔わない。船酔いを知らないからだ。
都会育ち、江戸っ子の真骨頂は「負け惜しみ」だ。船酔いに苦しみながら海からはなれられない者こそが海を愛する男なのだ。と負け惜しみで自分を納得させる。
大好きな海洋冒険小説家、アリステア・マックリーンの描く北海は、厚いデッキコートの上にさらにダッフルコートを着ても、骨の芯までしみとおる寒さを描いている。鉛色の大波を感じさせるが、船酔いを描いていない。アリステア・マックリーンは、船酔いしない体質だったのだろう。スコット・フォレスターのフォンブロアーシリーズも全部読んだ。主人公のフォンブロアーは、生涯を帆船の上で過ごし、英国がフランスと戦っていた帆船時代のアドミラルに登りつめるヒーローなのに船酔いをする。親しみを感じた。

朝早くの出港だから、民宿に泊まる。
6時のテレビ予報を見ながら民宿の朝食を食べる。コアジの干物、味付け海苔、生卵、ワカメのミソ汁、どれも胃から逆戻りする時の味が思い浮かぶ。干物のわきに付け合わされている昆布の佃煮をご飯の上に乗せて、お茶をかけて流し込む。
不連続線のちょっとした動きが出港できるかどうかを左右する。船酔い状況にも影響する。
洋上では寒冷前線が温暖前線を追いかけている。調査船が75トンの「ふさみ」でなく、28トンの「第二ふさみ」だったら、今日は沖には出ないはずだ。「ふさみ」は船幅が広く、船底が丸い。波に強い船だが、ころころと横揺れする。船酔いしやすい船型だ。波に強くて、船酔いしやすい船、最悪だ。
 目的地の九十九里沖までは、3時間かかる。九十九里は遠浅で、岸の建物が見えなくなるくらいまで沖に出ても、まだ水深は25mぐらいだ。ヒラメを漁獲対象にした大型の魚礁が設置されている。それが潜水の目標だ。
 やはり、少し時化ているけれど出ることになった。この「ふさみ」には収入予算というのがある。試験船だが、調査操業で獲った魚を売った収入を毎年の予算に入れ込んで、運航費、人件費の足しにしている。たくさん獲れると船員にボーナスが出る。船員たちは、漁をしない調査よりも、漁をする調査操業を好む。当然の話だ。
魚礁の調査をやっている間は魚を獲ることができない。魚礁調査は、早く終わらせて、魚を獲りたい。だからとにかく出港だ。
 船にあるだけの漫画週刊誌をかき集めて、二段ベッドの上段に潜り込む。船員の誰かが寝ているベッドだ。左側を下にして、身体を少し曲げて、一番楽なショック体位で横になって、身体に出来るだけ負担をかけないようにする。しめった毛布にくるまって漫画週刊誌を眺めながら揺れに身をあずける。おそらくは、風速10~15m、風の波と北に上がっていった低気圧の残して行ったうねりが混ざっている。
重ねた漫画週刊誌の山が半分ほどになった時、やっと浅く眠ることができた。眠りながらも、船の上下動で波の高さを瞼の裏に描き出している。
エンジンの音が急に低くなって、船のゆれのピッチが変わる。時計を見ると11時に近い。目的地到着だ。ベッドから這い降りてブリッジに登る。魚探(魚群探知機)と電波測距機で調査目標である人工魚礁を確認しなければならない。
 九十九里は、陸地から遠いので、陸地の目標、山を見通すことが出来ない。電波測距機だけしか手段が無い。
電波測距機は、陸地にA局、B局、二箇所に電波を発射する器材を据えて、A局と船、B局と船の距離を電波で測定し、二つの線の交点で船の位置を特定する。今ならば、GPSで簡単に位置をだせるが、その当時(1973年ごろ)は山立てか、電波的な山立てともいえるこの測距で決めるしかなかった。洋上での船の位置の測定には、ロランとデッカがある。地域によって、ロランが使えるところと、デッカが使えるところがある。これも、原理として電波測距であり、恒久的な電波ステーションであるロラン局が発信している電波をとらえて位置をだす。ロランは、精度が低い。100m以上の誤差がある。広い洋上での100mは、海図の上では鉛筆の点だが、100m以上の誤差では、人工魚礁を探すことができない。より精度の高い、電波測距機を使う。この電波測距機ならば、誤差が20m程度、ダイバーが捜索できる範囲にブイを入れられる。
いつか悲しいことがあった。その日は天気が良く、波も無く、絶好の潜水日和だった。A局、B局は、水産試験場の職員が器材を所定の位置に据えて電波を出すのだが、「A局の電波が出ません。故障らしいです。」無線通話が入ってくる。これでその日はもう終了だ。また別の日となる。もしかしたら、次のシーズンになってしまうこともある。
魚探は魚の群れを見つけようとするソナーだが、海底の深さを測ることによって、海底の起伏も見ることができる。測深した深さを湿式記録紙の上に連続的に描くと魚礁の形が現れる。(これも現在はカラーモニターで見ることができる。)
高さ7mの大型のジャンボ魚礁の上を船が通過すると、高さ7mm程度のピラミッド型のパターンが記録紙の上に描かれる。
ゆれるブリッジで記録紙の上を上下する針を見ていると、少しづつ気分が悪くなってくる。しかし、長い船酔いとの付き合いで、船酔いをしながらしかも仕事を確実にやり遂げるノウハウを身につけている。それは、如何に吐くかである。たくさん食べ過ぎると、吐くときに胃の中から大量に吹き上げるので、人前に汚物を広げてしまうことになる。食べないと吐くものがないので、おさまらない。吐くという動作で気分を一転させ船酔いを軽減させるためには食べる量が適切でないといけない。吐いてしまえばたいていの場合気分爽快になるが、吐いた後に後味の悪いものを食べると効果は半減する。僕の場合は麺類が良いが、宿の朝食に麺類は望めない。次善のものとしてお茶漬けにしている。
酔い止めの薬はかなり効果があるが、連用すると胃腸や肝臓を痛めるというので、控えている。潜水のために船酔いの薬は良くないと、医者は言うが、その医者は船に強いにちがいない。
船酔いはなれることができる。一つの船に一週間以上乗り続ければ、船の食事をおいしいと思って食べられるようになる。船が変わってしまったり、船から下りて一ヶ月ほどすれば元に戻ってしまう。人工魚礁調査で乗る船は変化に富んでいて、しかも、乗る期間はだいたいの場合は一日だけだ。船に慣れるほど乗っていないから何時でも船酔いする。
むかつく胃をなだめながらウエットスーツを着る。一度吐いたぐらいでは今日の波では吐き気はおさまらない。波高は2m以上あって、船は左右に揺れる。70トンもあるのに本当によく揺れる船だ。
魚礁の位置に投げ込まれた浮標のロープの長さ、魚礁と浮標の方位関係を再度確認する。舷側に立って船が浮標に接近するのを待つ。漁をたくさんやる船だから、こういう操船は上手だ。浮標との距離5m、片手を上げて船長に合図を送ると飛び込んだ。浮標につかまってバディが来るのを待つ。他の調査に出払ってしまっていて、うちのダイバーは誰も居ないので、後藤道夫の弟子で、真鶴でダイビングサービスを営んでいる志村嘉則君をたのんで、一緒に車に乗ってきた。減圧停止をしなくても、減圧症になりにくいダイバーで、本当に良い男だったが、後年、ただひたすら酒を飲んで死んでしまった。あれだけ飲んだら死んでも当然と誰もが思うから、悲しんだりする仲間はいなかった。誰にでも好かれる本当に良い男だったから、参列者が多い。真鶴の小さな集会場でお通夜をやったから、多人数がお経を聞くために座るスペースなどない。そのまま通過するご焼香で流れて、お清めになり、直ちに食べたり飲んだりだ。ご焼香の通過に5分、1時間以上盛り上がった。男の葬式はこうありたい。
彼の役割はサポートだ。2人がそろうと、急降下に移る。
目指すのは、周囲8m、高さが7mの大型の魚礁だ。このあたりの海底は、粘土質で平坦だ。波で砂が舞い上がることがないので、10m以上の見通しがある。
魚礁の中には、15cmくらいのイシダイの群れ、ウマヅラハギの群れが入っている。魚礁の目的は、ヒラメだ。
ヒラメは魚礁の周辺部の海底に張り付いている。前回の調査の時には、魚礁の中の底に80センチほどの大型のヒラメがいたが、原則として、魚礁の周囲にいる。
 魚礁が壊れていないことを確認しながら、魚の撮影をする。魚礁は4基入っている。次々と見て行く。時間が足りなくて、4基全部は見られなかったが、浮上する。魚礁を設置すると、設計どおりに設置されているか、海底で転倒などしていないか、確認のために必ず潜水調査をする。もちろん、目的としている魚が見つかれば、めでたい。その写真を撮る。が、めでたいと言うくらいの確率である。魚が来ているかどうかの確認は、釣りをした方が直接的である。
 日本は、沿岸の海底に魚を集める万里の長城(人工魚礁)を築いているのだが、海底にあり、人の目に触れないから、この長城は、わからない。1970年代から1990年代が、長城を築く最盛期であった。
 水面に浮上して、浮標につかまり、船に合図をする。船が接近してくるが、潜り始めたときよりもさらに波が高くなっているように見える。
 僕たちを収容するために舷側のゲートが外してある。波がデッキを洗っている。この船の良いところは、甲板の位置が低いことだ。それでも、水面すれすれからダイバーの眼で見上げると、二階から船が落ちてくるように見える。落ちて来た時にデッキに流れ込む波と一緒に跳ね上がり、タンクを背負ったまま、甲板にすっくと立った。ダイビングで一番怪我をしやすいのは、船に上がる時、岸に戻る時だ。今ならばこんな危ないことはやらないし、できもしない。まだ若かったから、こんなことが出来た。
 タンクを外し、ウエットスーツを脱いだら、どっと船酔いがやって来た。ゆれる水平線と盛り上がる波を見おろして吐いた。鼻がつまって眼から涙がポロポロとこぼれる。小雨交じりの風が、波のしぶきと一緒になって顔と裸の上半身に吹き付ける。良い気持だ。船酔いはするけれど、寒さには強い。海から上がって10分ぐらいは体が火照っていて、寒くない。船の人は、房州の船乗りだから口は悪いけれどみんな親切にしてくれる。私の船酔いを馬鹿にする人もいない。笑って見ていてくれる。あの大波と一緒にデッキに跳ね上がるところを見せるのは、馬鹿にされないためだ。バケツにきれいな水と、大鍋に沸かしたお湯を持ってきてくれる。バケツから水を飲んでうがいする。お湯と水を混ぜて頭からかぶる。潜水した体の火照りが消えないうちに身体を拭いて厚いセーターとデッキコートに身を包む。
 潜水する前には、気難しく私を拒んでいるように見えた海が、潜り終えた今は、こちらを向いて笑いかけているようだ。潜った後は、いつでも気分がいい。
 ハードルの選手にとってハードルがあたりまえのものであるように、僕にとって船酔いはあたりまえのものだった。
 
 スガ・マリン・メカニックの人工魚礁調査の中心は、千葉県、茨城県、福島県で、千葉では「ふさみ」、茨城県では「ときわ」福島県で「拓水」に乗る。
 書いてきた千葉県の「ふさみ」の時から何年かあとだった。
 ある日、茨城県の「ときわ」に乗っている時のことだ。二つ玉低気圧が走りぬけ、大陸の高気圧が張りだして、今年で始めての強力な冬型の気圧配置になり、北北西の風が海上では風速12m、船は船酔いに充分なピッチングとローリングを繰り返している。ところがどうしたことだろう。船に乗って、潜水を終了するまで船酔いをしなかったのだ。
 潜水を終えて、うすいインスタントコーヒーに砂糖とクリームをたくさん入れて、舷側に寄りかかっていると、船の上下動が気持ち良いものに感じられる。
 すっかりうれしくなって、船長と食べ物のはなしをはじめる始末だ。「ときわ」の戸羽船長は、豪快な酒飲みで、50トンの船を信じられないほど岸近くまで寄せて潜水させてくれる。次の調査の時にはもう「あんこう鍋」がおいしくなっている。今度は北茨城の大津港に入港して「あんこう鍋」を作ろうなどとうれしい話をした。
 しかし、つかの間の幸せで、次にこの船に乗るときは、海はもっとひどく酔わせるのかもしれない。それでも良い。人生だって幸せを感じる時はほんの一瞬だ。船に弱いからこそ、海がほんのちょっと、とけこむ表情を見せる時に、きわだって嬉しさを感じるのだろう。
 ある日、「ときわ」に乗る予定で、朝、出発しようとしていると電話が鳴り、戸羽船長が死んだと言う。昨夜、少したくさん飲んで寝たら、朝起きなかったそうだ。豪快な酒飲みは長生きしない。豪快に死ぬ。幸せだと思う。僕は酒を飲まないで長生きしている。しかし、何も考えずに酒を飲み、死んだ方が良かったかな、と、このごろしばしば思う。
  
苦労を重ねても、ダイバーが魚礁を観察している時間はほんの数分だけだ。磯に定着している魚、魚礁に住み着いている魚も、どこかに出かけていれば、魚を見ることが出来ない。広い海を泳ぎ回っている回遊性の魚では、タイミングが良く、ラッキーな時だけ、通り過ぎ、寄り道をして、魚礁に立ち寄った魚を見ることができる。
 魚礁の調査は、潜って魚を見ること、そのふるまいを観察すること、そして、その証拠として撮影してくることだ。証拠がなければ、どんな嘘でもつける。釣り師のほら話と同じだ。
 スチルカメラが今も昔も撮影調査の中心だ。最初の人工魚礁調査で、死にかけて以来、水中ではスチルカメラは手放したことがない。侍の刀のようなもので、カメラを持っていないと潜水できない。
 8ミリ映画カメラも使った。やがて小型で誰でも使えるテレビカメラが世に現れ、さっそく水中ハウジングを作って、水中に持ち込んだ。
 魚を観察するために、テレビカメラを魚礁の中に据えつけて長時間の観察撮影をしようとした。
今ではVTRとカメラは一つになっているが、1970年代にはカメラとVTRは別々であった。VTRもハウジングを作り、カメラのハウジングと一緒に水中に持ち込むことにした。
 これとは別に、テレビカメラを吊り下ろして曳航する方法もやり、次には、スクリューで走らせる自走式のカメラも試作した。
日本海海戦で沈んだロシアの巡洋戦艦ナヒモフ号の金塊引き上げのための飽和潜水作業に協力していた縁で、自走式カメラを作るお金を出してもらった。1年間の苦労の末出来上がったカメラを、ナヒモフ号の現場で水深90mの海底に沈めて、テストをした。走ることは走った。しかし、走らせるモーターの力が弱く、少しの流れでも押し流されてしまって前に進まない。僕の作った自走式カメラは、「役立たずのポチ」号と呼ばれて短い生涯を終えた。


 とにかく、海のことがわかるためには、船に乗り組み、海に出なければだめだ。現場第一主義、調査の虫にならなければいけない。机に座っている人には海のことは、半分しかわからないだろう。

 2008年現在、73歳の今でも人工魚礁の調査で潜っている。もう、タンクを背負ってすっくと立つことはできない。タンクを背負わせてもらって、海に落ちる。重力の無い水中では、自由自在に動ける。水面でタンクを外し、ウエイトを外して、引き上げてもらう。それでも自分の身体は、フィンで蹴って船によじ登ることができる。
 ※これを書いた時が73歳、書かれた時点は30歳代のころだ、今は85歳、水中でもよぼよぼしているけど、館山で人工魚礁に潜っている。今では、タンクを脱いで、引き揚げてもらって、空身にならなければ、船に上がれない。




 ※ ポチのことを書いたので少し付け加える。
   ポチの話も機会があれば、別にしたいのだが、
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ナヒモフ豪の金塊引き上げに活躍しなかったポチ
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ポチから数年後、購入した日立造船のROV、日本の本格的ROVとしては、草分けである。そして、今もなお、富戸の大西君のところにあり、彼がメンテナンスと改造をして、沼津の内浦湾の海底居住の遺跡?の撮影などで、動いているおそらく、世界最長寿のROVである。今度は、伊東沖の海底噴火の跡をさつえいするとか、この話では、その海底噴火口に潜水した潮美が講演とかしている。
 

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