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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0419 リサーチ・ダイビング(13)

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       波佐間海中公園です。
 
 リサーチ・ダイビング転回


ここまで、「リサーチ・ダイビング」と題して、出版ではカットするようなことを 書いてきたが、おなじようなことを何回か書いていて、出版の寸前まで行き、お金がなかったためにストップしていた、原稿がある。
2008年、というと足掛けで12年前になるが、参考のために、と読み直したら、2008年版のほうが、まとまっていて、はるかに面白い。それに現在の視点、考えを※印で書き加えた方が良い。


以下、前に書いていたものの梗概
   

  第1章 アクアラングの時代
1-1 アクアラングの誕生
 1943年、フランス海軍に籍があったジャック・イヴ・クストーは、スキンダイビングの延長線上で、圧縮空気のボンベを背中に背負い、フィンで泳ぐ潜水器を実用化した。
1-2 日本で最初
 1953年・5月25日の朝日新聞に、「アメリカ軍の海洋電波研究所 海洋学主任であるロバート・ディーツ博士が千葉県小湊の東京水産大学実習所で日本の若き海洋学者に実技指導を行った」という記事がある。日本におけるスクーバダイビングの始まりであると同時にリサーチダイビングの始まりでもあった。リサーチダイビングとは、スクーバで何かをする目標のある潜水を指す。リサーチダイビングでは、スクーバは手段であり、目標ではない。一方スポーツダイビングは、スポーツとして、楽しみのために潜る。ダイビングそのものが目標である。
1-3 アクアラングで潜る
 1956年8月、著者は、初めてアクアラングで潜る体験をして、水中写真を撮影した。
1-4 マスク式の時代
 スクーバが日本に来る前、マスク式潜水では日本は世界一だった。しかし、それは、潜水病罹患死亡率20%という、壮烈な潜水でもあった。
1-5 昭和32年
 1957年、日本ダイビング協会が発足し、アクアラング普及が途に突いた。
1-6 潜水実習
 著者は、大学3年生、本格的な潜水実習を受ける。この実習のプログラムは、現在のスクーバ講習と基本は同じであった。
1-7 日本初の事故
 それより以前、日本にアクアラングが紹介された1953年の翌年、1954年に水産大学小湊実習場で、日本で初めてのアクアラング実習を受けた学生二名が、事故で命を落とした。日本で始めてのアクアラング事故になってしまった。
※この項については、今度書いたものが正しい。
1-8 潜水部誕生
 1957年、水産大学潜水部を創った。2008年、50周年を迎えている。
1-9 ぺガス
 フランスから輸入した、水中撮影スクーター、ペガス(天馬)に乗る。


 第2章 リサーチダイビングのさきがけ
2-1 磯根調査
 サザエの生態調査をライン調査法で行う。
2-2 人工魚礁
 人工魚礁は、日本の海に築く、万里の長城のようなものだ。
 
2-3 はじめての危機
 その後の潜水生活のメインテーマの一つになる、人工魚礁調査を始めて行い、スクーバの宿命とも言えるエア切れで、危うく命を落とす危機一髪を体験する。
2-4 リサーチダイビングの安全について
 運用のミスが、危機一髪を生んだ。ミスについて解析する。ここにリサーチダイビング事故の原点があった。
※ この項については、刊行するリサーチ・ダイビングに掲載する。


 第3章 100mを目指す
3-1 100mを目指す
ヘルメット式潜水器を製造する東亜潜水機に入社、アクアラング部門を立ち上げつつ、新しいタイプのマスク式潜水器であるフーカー式潜水器で100mまで潜る試験潜水を企画する。
3-2 ハンネス・ケラーの300m潜水
 世界では、すでに、300mの潜水に成功している男がいた。が、この潜水では、参加した4人のダイバーの二人が死亡している。
3-3 館山湾の潜水
 水中カメラマン館石昭氏(現、マリンダイビング社長)と100mを目指し、90mで炭酸ガス中毒と窒素酔いで倒れる。潜水中、須賀のホースが破裂しそうになり、九死に一生を得る。


3-4 退社・タンク破裂
 お世話になり、わがままの限りをやらせてもらった東亜潜水機を退社した。社長も専務も好きだし、社員も皆親切、しかし、もっと潜りたかった。自由になりたかった。
 退社した直後、東亜潜水機では、タンクのテストを行っている時にタンクが破裂して、一人の若者が即死した。
 ※、ここから反転したいのだが、すると、今回の原稿とダブってしまうところが多くなる。ここだけを抜き出そうか。やはり、ダイビングの歴史に回す。


 第4章 転がる石
4-1  遺体捜索
 独立して自分の会社を設立し、ダボハゼのように何にでも食いついて、生き抜くことになった。二つ玉低気圧に急襲され、防波堤に打ちつけられ木っ端微塵になった1万トンの貨物船空光丸の遺体捜索に、北国の凍てつく海で潜った。
4-2 日本初のダイビング練習用プール 
 日本初のダイビング練習用プールが建設され、指導スタッフを請け負ったが、息こらえ練習中の若者が、死亡し、経営難でプールも倒産した。
4-3 野垂れ死に覚悟
 スガ・マリンメカニックは、水中カメラのハウジングを売るべく設立されたのだが、カメラの販売はあきらめ、野垂れ死に覚悟で、夢と探検を追って、自分が作った撮影機器で行う水中撮影を中心業務とすることにした。カメラは作っているよりも使う方が楽しい。

 ※ここからでもいい。


4-4 ナンマタールの呪い
 ※ここから乗り移ると、つながりが良い。
 太平洋の孤島、ポナペには、石造の遺跡ナンマタールがある。ナンマタール神殿前の海に潜ると、呪いを受けるというタブーがある。まじめに社長さんをやり、会社をしっかり経営しようと決意していたのだが、なぜか、ピンチヒッターでカメラマンをやることになり、そのままテレビ番組撮影のカメラマンになってしまった。社長さんをやれば、ビルの一つぐらい建てられたのに、ナンマタールの呪いで、カメラマンになってしまった。 
 
第5章 スクーバダイビングサーカス
5-1 船酔いの大海原
 テレビ撮影もやったが、人工魚礁の調査も仕事の柱にしていた。ただただ、潜るのが好き、海が好きであった。にもかかわらず、船酔いをする。


5-2 釜石湾口防潮堤
 水深60m、リアス式海岸で深い釜石湾の湾口防潮堤の工事を引き受け、ヘリウム酸素混合ガスによる潜水を行う。
5-3 地底湖
 岩手県竜泉洞に潜り、巨大地底湖を探した。NHKの特集番組の撮影であった。巨大地底湖は見つからなかったが、水深73mまで潜り、ドキュメンタリーとしては、史上最高に近い視聴率をあげた。
5-4 立ち泳ぎ
 娘の須賀潮美が、大学のダイビングクラブに入った。クラブの同級生が、レスキューのための泳力トレーニングで、心臓麻痺を起こして死亡する。それまでの体育会系のスクーバ講習では危ないと考え直す転機となった。


第6章 事故

6-1 ニュースステーションの撮影
 須賀潮美を水中レポーターとしたテレビ朝日のニュースステーション、水中の自然シリーズがヒットした。
6-2 ケーブル・ダイビング・システムの発想
 水中レポートは、音声を水面に上げるために有線通話をしている。この有線、ケーブルのおかげで、何度か危機をすり抜けることができた。有線ケーブルを使った、安全管理システムの構想が生まれた。
6-3 ケガニの調査
 海底に何台かのビデオカメラを置いて、継続的に観察するシステムを作り、売り物にしていた。このビデオカメラで北海道噴火湾のケガニを調査をした。
6-4 若者の死
ケガニ調査で、カメラの回収に一人で当たっていた脇水輝之が、減圧停止中に呼吸停止し、死亡した。原因は不明であったが、二人で、バディで潜っていれば死なないですんだはずだ。そして、試作のケーブル・ダイビング・システムは、船上に置いたままだった。これを使っていれば若者は死なないで済んだはずだ。
6-5 結末
 遺族との対話、賠償について、全力を上げ、許してもらい、親戚同様の付き合いをするようになった。
6-6 法的な責任
 海上保安部、労働基準監督署の取調べ、責任追及を解決しなければならない。
6-7 死因は
 死因は不明、健康上の理由があったと思われるが、本人でなければ、本当のことはわからない。ただ、スガ・マリン・サーカスなどと、思い上がっていたことも一因だと強く反省した。


第7章 安全のための道具
7-1 ケーブル・ダイビング・システム
 ケーブル・ダイビング・システムを使わせていれば脇水は死なないで済んだ。ケーブル・ダイビング・システムの普及に一生をかけようと思い込み、全財産を、そして、人脈からの資金提供もうけてつぎ込んだ。
 7-2 水中通話装置
 ケーブル・ダイビング・システムは水中通話装置である。通話機で一番確実な方式は、有線通話機であり、このケーブルを命綱にするシステムであるが、やはり、スクーバダイバーは、ケーブルに繋がれることを嫌う。
 7-3 漂流
 漂流もスクーバダイビングの事故の大きな要因である。漂流を防ぐ道具も、いくつか開発され、売り出されるが、1万円以上のものは売れない。ケーブル・ダイビング・システムは20万であった。


 第8章 60歳の100m潜水
 8-1 地中海
 27歳の時に100mにチャレンジし、90mであきらめた。60歳で再度のチャレンジを試みた。100mダイビングと平行して、ダイビングのすべてを紹介するテレビ番組を製作することになり、アクアラングの故郷である地中海に向かった。クストーと会う約束も取れていたのだが、健康が優れないということで、キャンセルになってしまった。
 憧れであったモナコの海洋博物館の紹介、ニースにあるアクアラングを誕生させた会社、スピロテクニックに行き、1943年に作られた、アクアラングのプロトタイプの実物を見る。
 
 8-2 珊瑚とり、アランの潜水
 アランは、地中海、ニースから一飛びのコルシカ島で、水深120mまで潜り、深紅の宝石珊瑚を採集している。混合ガスを呼吸して、日常的に100mを超えて潜るアランのダイビングを見に行った。
 アランの潜水システムこそが100mに潜る実用的な方法だと思い、できれば、アランのようなダイビングをしたいと思った。しかし、100mダイビングはすでに別の形でスタートしていた。
 8-3 テクニカルダイビング
 100m潜水での減圧表の提供など、アドバイスをアメリカの混合ガス潜水の大家であるビル・ハミルトン博士にお世話していただいた。
 ハミルトン博士は、テクニカルダイビングの権威者でもある。
 テクニカルダイビングとは、まず、スクーバであること、そして混合ガスを使って60m以上に潜るので、リブリーザー(完全閉鎖式)を使うことが普通になる。
 計画し進行していた100m潜水は、テクニカルダイビングとは言えない。船から吊り降ろすステージに乗って完璧な安全管理の下で潜るシステム潜水であった。なんとか、システム潜水とテクニカルダイビングのハイブリッドをやろうとした。
8-4 心臓カテーテル
 60歳の潜水は、海との闘いであると同時に自分の身体、自分の健康との闘いであった。
いつの間にか高血圧症になっていた。40歳を過ぎて、高血圧症で潜水するのは自殺行為に近い。と言われる。
 海上自衛隊の潜水医学実験隊の大深度潜水施設を使用させてもらうための健康診断を受けた。診断の結果、大深度どころではない。そのあたりで潜るのも危ないと言い渡され、心臓カテーテル検査で、冠状動脈の異常をしらべなければ、潜水できないことになった。
8-5 南西の強風
 カテーテル検査では、異常がないことが分かったが、検査入院のために11月の適期を逃して、厳冬の2月に実行が延びた。冬の季節風は北西だから、伊豆の東海岸で潜水することにした。ところが連日、南西の強風が吹き、リハーサル潜水ができない。ようやくできたリハーサルで失敗し、安全第一の潜水を強いられることになった。自分としては、テクニカルダイビングに近い、冒険的な潜水をしたかった。
8-6 天気晴朗
 潜水当日は快晴、気持ちの良い潜水で103mまで潜った。浮上の時に少しだけ、右肩が痛んだ。軽い潜水病にかかったが、無事に潜水を終えた。
 ただ、この潜水で、貯金はすべて使い果たした。
 
8-7 ケーブル・ダイビング・システムの終焉
ケーブル・ダイビング・システムは、プロがお金はいくらかかっても、安全第一のシステムで行うシステム潜水の簡略版であった。その考案者である自分が、100m潜水では、できるだけ安全システムから離れて、自由にテクニカルで潜りたいと思ってしまった。
スクーバは、自由に水中を飛翔し、自分の責任で自分の安全を確保する。水面と繋がって自由を束縛されながら守ってもらう安全システムにたよるのはスクーバではないと思ってしまった。自分が信奉しなくなっては、終わりだ。ケーブルダイビングシステムは終焉を迎えた。


 第9章 豊かな海
 9-1 豊かな海つくり
 日本の海を豊かにするために営々と海底に礁を築く、人工魚礁の調査を50年かけてやってきた。人工魚礁の調査は、典型的なリサーチダイビングである。
 1998年から2002年まで、63歳から67歳まで、北海道から沖縄まで、全国の人工魚礁を撮影して旅をした。幸せな仕事だった。
 9-2 並型魚礁
 並型魚礁は人工魚礁の最小単位である。水中の自分の家のように思っている並型魚礁もある。
 9-3 人工礁
 人工礁は天然の磯と同じ大規模な人工魚礁である。水深70mから立ち上がる高さ35mの鉄塔の林立する高層魚礁などを潜る。
 9-4 黒潮牧場
 黒潮牧場は、高知県足摺りの沖合、黒潮の真っ只中の浮魚礁である。
 66歳、命を賭けて、黒潮に潜った。


 第10章 新しい波
 10-1 テクニカルダイビング
 60歳の100m潜水で果たせなかったテクニカルダイビングとは何か。
 10-2 インスピレーション
 21世紀の潜水器といわれた電子制御のリブリーザー(閉鎖循環式スクーバ)の一機種、インスピレーションを購入し、練習を開始した。
 10-3 リブリーザーからの撤退
やはり、70歳という年齢は、新しい潜水器に習熟することは無理だった。体験的には使えるが仕事に使えるレベルまで上達することは難しい。それに重さが35キロのインスピレーションを背負うのはフィジカル的にも無理だった。涙を飲んで撤退する。撤退しなければ死ぬ。
 10-4 フリーダイビング
 74歳で自殺した素もぐり潜水の巨人、ジャックマイヨール。
 日本でも、水深100mまで息を堪えて潜るフリーダイバーが現れた。
 ※ この項はスキンダイビングセーフティに 書いている。


 第11章 スクーバダイビングの危険
 ※ テキストじみているので、ここにはそぐわないかもしれない。
 11-1 スクーバダイビングの特質
 スクーバダイビングは、危険を追いつつ安全を追求する。50年、自分は危険をすり抜けて生き残ったが、幾人かの若いダイバーを見送った。
 スクーバの安全について、書かないわけには行かない。
 11-2 スポーツダイビングの安全確保
 遊びのダイビングをレジャーダイビング、レクリエーションダイビング、スポーツダイビングに分けて、それぞれの安全を考える。
 11-3 リサーチダイビングの安全確保
 目的、目標があるリサーチダイビングは、遊びとは、安全についての責任の有り場所が違う。
 
 11-4 バディシステム
 バディシステムはダイビングの安全の基本である。しかし、声もかけられず、見通しも効かない水中でバディシステムで行動することは至難である。
 11-5 エキスパートダイバー
 水中でスクーバダイバーが、自分で自分の命を確保して生き残るためには、上達する以外に道はない。

 

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