スガ・マリンメカニック 3
作ったハウジングの種類は数えていない。記録もしていない。もちろん制作台数の記録も、残っていない。
今から考えると本当にルーズであり、もったいないとも思う。しかし、その時、その時期は生きることに、生き残ることに全力投球で、とうてい記録などできなかった。
それを言えば、今だって生き残りに全力投球だから、ただただ、ルーズだっただけだが、それでも、残っている写真とか、書いたもの、記録を掘り出してこれを書いている。
これも、出版予定のリサーチ・ダイビング では、二行か三行に縮めてしまうけれど、ブログは記録である。1970年代に今と同じくらいに書いていれば苦労はないのだけれど。だから、今、とりあえず役に立たなくても書いておく。
「水中写真の撮影」という単行本を、当時、水産大学の助手だった小池康之さんと共著でかいた。小池さんは先日、恩師の宇野先生がいただいたと同じ勲章をフランスから授与されている。小池さんはフランスでアワビの養殖の研究、指導をされていて、地中海でのアワビは、すべて小池先生の功績だ。その「水中写真の撮影」の出版が1972年で、これを見ると、島野さんと一緒に作ったハウジングのほとんどすべてが紹介されている。
振り返って、1969年がスガ・マリンメカニックの事実上のはじまりだから、両三年のうちに、よくもこれだけのことを仕上げたものだと、自分で自分に感心してしまう。
とにかく、ブロニカが、ハウジングつくりの始めであり、また一区切りの終わりでもあった。う。
そのブロニカだ。創業者がゼンザブロウという人で、趣味でハウジングをつくってビジネスに伸ばしていったとかで、ゼンザ・ブロニカが正式名称だ。ブローニーフィルムで6×6版、一コマの大きさが6cm×6センチ、12枚撮り、レンズは標準で70ミリ、広角で50ミリになる。一眼レフであるが、二眼レフのように、レフファインダーを上からのぞき込む。ボディが立方体なので、ハウジングが作りやすい。水密にするオーリングは、原則として、円筒形の内径シールだから、立方体であれば、円筒の経を小さくすることができる。
ハウジングを作るメーカー、メーカーと言えるほどのものではなかったが、ハウジングを作る人は、競ってブロニカのハウジングを作った。スガ・マリン・メカニック、sea & sea、タテイシブロニカマリン、そして恒木マリン、菅原さんの潜水研究所もブロニカのハウジングを作った。そのころ、まだ、フィッシュアイは、まだ、出てこない。現社長の大村さんは、まだ青山学院の大学生だったはずだ。
中で先進、一番進歩したのは、僕のスガ・マリン・メカニックだったと思う。ブロニカの6X6サイズのレンズの画角は、現在の広角レンズにくらべて、ずいぶんと狭くて、広角の50mm でも、70度だった。それでも、そのままだと、平面のポートで、水中からの入射が屈折するので四隅、周辺部はぼけてしまう。これを補正するために、球面のポートを採用した。今ではこれも当然のことになっているが、計算ではなく(計算ができないから)実験と試行錯誤の繰り返して、独自のドームポートを作り上げた。R!!6型、16回のモデルチェンジで、最終完成に到達した。
そして、スチルのカメラハウジング作り、販売に意欲を失ったのは、カメラ本体、ブロニカがS2型からETR型へのモデルチェンジだった。中に入れるカメラの型が変わってしまえば、ストックしているハウジングは、すべて、新品としては売れなくなってしまうし、モデルチェンジを繰り返されては、やっていられない。それでも、ブロニカは、モデルチェンジがほとんどなく、16型まで、やることができた。
もう一つ、忘れられないカメラ・ハウジングは、アサヒペンタックス の17mm対角線 画角180度レンズを使ったハウジングだ。いまでこそ、画角、170度なんていうのがスタンダードになっているが、1970年ごろには、画角90度が水中でも最も広角で、それでも補正が必要だった。
カメラマンが下手、才能がない(自分のこと)場合、カメラ(機材)の優劣が作品、撮ったものの優劣を決める。機械(メカニズム)をインターフェイスにした場合、出来栄えの90%は、機械が決める。すなわち、水中では、撮影の画角は基本的に広ければ広いほどいい。
この画角180度カメラの注文をしてきたのは、朝日新聞社のカメラマン、工藤五六さんだった。ただでさえ、画角90度でさえ周辺部がボケる、歪むのだから、180度なんて到底無理、と断ったが、なぜか工藤氏は大丈夫やってみよう。ダメでもお金がもらえるのならば、とチャレンジすることにした。工藤さんの分と、自分の分、これはテスト用だが、それともう一台、合計3台の試作をした。島野さんがひとつの天才だと思ったのはこの時だ。これまで、ハウジングの基本は円筒形だったのだが、あえて四角、角型を採用し、角型では内径シールができないので、圧着型として、エキセントリック(異径)の回転で締め付ける留め金を使った。
工藤五六さんの写真を見て 旭光学でも、これを売りたいということになり、20台ほど売れた。
、
しかしながら、結局、島野さんが作る数、利益を上げられるだけの台数をスガ・マリン・メカニックは売ることができなかった。ハウジングを作って売るよりも、潜って、ダイビングで調査仕事をしたりして稼いだ方が、資本が寝ない。スガ・マリン・メカニックは、島野さんも資本を出しているのだから、別れはしなかったが、島野さんも自分の販路で、ブロニカなどを売るようになり、一つの製造会社としての態勢は崩壊して行った。
その後、というか、それまでもだが、スガ・マリンメカニックは、人工魚礁など、水産関係の調査とカメラハウジングの販売、そしてレジャーダイビングのクラブを平行して行っていて、自分のやる調査の撮影機器を自作、工夫してやれることを売り物にしていた。たとえば、間歇撮影、今では付属した機構となって、どんなカメラにもついているが、その頃は、自分でタイマーを作らないとできなかった。今では、ぼくはタイマーなどとてもできないが、そのころは、作れた。
そして、時代は16ミリ、8ミリフイルムから、ビデオカメラの時代に移る。ビデオに移る時代から、僕のカメラの作り手は、ダイブウエイズに移行した。島野さんとも別れたわけではなく、作ってもらっていたので、製造の下請けは、2社になった。島野さんも僕、スガ・マリン・メカニック以外のもの作りもやっていた。無理をしない自然な流れで、それぞれが、若干の利益をあげる。
sea & seaの山口さんは、イエローサブという黄色いストロボを出して、これがヒットした。ストロボについては、後藤道夫の後藤アクアディックも「トスマリーン」という小さなストロボを東芝から出した。島野さんと僕は、「シーレヴィン:海の稲妻」という大型ストロボをだしたが、高価だったためかあまりうれなかった。
1980年からは、僕の仕事は水中撮影、ビデオカメラによる撮影が本業のようになり、それ用の大型ビデオカメラハウジングをダイブウエイズで次々と作った。しかし、そのビデオ撮影の始まりも、島野さんから出たものだった。日本テレビが大型の水中テレビカメラを作ったのだが、それを整備するところがない。それを島野さんが引き受けた。そのカメラで水中撮影をする人、ということで、僕のスガ・マリン・メカニックが引き受けた。
日本テレビのロケで、南洋のポナペに行くことになり、社員の河合君がカメラマンをやる予定になっていたのだが、出発の間際になって、彼のお母さんが亡くなってしまい、ピンチヒッターで僕が行くことになり、それがおもしろくて、社長業を放棄して、カメラマンがメインになってしまった。
以来、スガ・マリンメカニックは社長が潜水をやめさえすれば、伸びるのに、と何度も言われた。自分としては、何とも言えない。結果として、スガ・マリンメカニックは、伸びず、僕も潜水をやめないでいる。
ローリングストーンとは、よく言ったもので、人の一生、仕事なんて、転がる石のようなものだ。
コロナの結果もどうなるかわからない。人類全体で、なにかのタブーに触れたのかもしれない。
本来は機材メーカーなのだから
僕が使うカメラを作るだけでも手一杯だった。と思う。