1965年、海の若大将を撮影した35mmアリフレックス
スガ・マリン・メカニック2
作ったハウジングは、ゼンザ・ブロニカを入れた。
人工魚礁のことを書こうとしたのだが、ハウジングと書いただけで、作ったハウジングに脱線してしまう。コロナの自粛中にリサーチ・ダイビングの原稿仕上げてしまいたいのだが、脱線してしまうと、行くところまで行かないと止まらない。
以下は全部「リサーチ・ダイビング}ではカットのつもり。
前回に触れたのだが、東亜時代、最初に作った1965年、海の若大将の35mmフィルムのアリフレックス。よくもこんなものを作ったと思う。僕は作らせた側で、作ったのは島野徳明さんだ。、
島野さん、僕よりも年上だから、さん付けで呼んでいた。最初に島野さんとであったのは、潜水科学協会の集まりの時だったが、向こうから話しかけてきた。次は、東亜潜水機に訪ねてきた。そのころ、日野自動車でライセンス製作していた、小さなルノーに乗ってきた。当時、川崎の東芝に勤務していたのだが、それはアルバイトのようなもので、機械加工の小さな工場もやっている。レギュレーターの部品、切削加工をしたいという。
さらに横道にそれて、そのころの日本国産レギュレーターについて、触れておこう。クストーの作ったアクアラングは、フランスのスピロテクニクが作っている。クストーは、スピロの技術者であるエミールガニアンに頼んで、試作のレギュレーターを作った。クストーが作ったわけではない。こう言うのがほしいと要求しただけなのだ。もの作りの技術者は、世の中で何が必要なのか、何がほしがられているのか、中には、一人ですべてができる天才もいるが、だいたいが、チームプレーでものはできる。その流れで、アクアラングの製作はスピロ。そのスピロを訪ねていった時の話まで脱線するともとに戻れなくなる。島野さんの話をしているのだ。
スピロは日本の帝国酸素、現在はテイサンと同系列だ。いや、帝国酸素はフランスの会社なのだ。しかし、スピロのレギュレーターを輸入していたのは、日本の貿易商社バルコム交易で、そのルートで日本にスピロのレギュレーターが入ってきていた。まだ、USダイバーは、日本に入ってきていない。
さらにもう一つ、スピロがだしている一段減圧、ダブルホースの「ミストラル」があり、日本の自衛隊はこのミストラルを採用していた。シンプルで故障が無く、故障しても空気が止まることはない。一番好きなレギュレーターだったが、日本の高圧則は、レギュレーターは二段減圧であることと、定めてしまっているので、民間では使えなかった。軍艦の上は治外法権だから、使えたのだが。
日本では、川崎航空がタンクとレギュレーターを作って売っていた。タンクは本格的なアルミタンクで、オレンジ色にきれいに塗装されていた。レギュレータの内部は見ていないが、このころのレギュレーターは、すべてスピロの真似だったから、同じようなものだっただろう。伊東精機という会社もレギュレーターを作っていた。この実物を見たことがない。潜水科学協会の機関誌「どるふぃん」に広告が載っていた。
もうひとつ、菅原久一さんの潜水科学研究所が出していた、無印がある。学生時代、僕はスピロの純正とこの無印を使っていた。使ってみての差は、ほとんど感じられなかった。
右側 スピロテクニックの純正レギュレーターと消火器タンク
互い違いになっている
右端のタンクが川崎航空のアルミタンク(船の科学館の展示)
さて、僕は東亜に入社して、僕の前に東亜でスクーバをやっていたのは、菅原久一さんだと知った。いろいろな事情はあったのだろうが、菅原さんと東亜潜水機の間は、断絶状態だった。断絶状態だったが、東亜潜水機が売っているレギュレーターは、菅原さんと同じ無印で、田無の中のさんという方がつくっていた。
,どうも、伊藤精機のレギュレーターもこの人が作っていたらしい。中野さんは、そのころまだ世にでたばかりのスバル360に乗って、東亜潜水機に3台とか4台のできあがったレギュレーターを持ってくる。ほぼ注文生産なのだ。
注文しても、いそがしいらしく、持ってこられないことがあった。田無に催促にいった。工場と言えるようなものはない。才能のある人で、他にも何か、アイデア商品のようなものをつくっている。それでも工作機械など何もないのだ。机とバイス(万力)だけ、あとはスパナーの類と、ドライバーだけだ。
東亜潜水機に入社する前、大学はでたが職のない僕は古石場(なんといま、直ぐ近くで、図書館のとなりあたり)の日本建設機械という大げさな名前の町工場で工員さんを3ヶ月くらいやった。この会社は駐留軍が飛行場とかの建設のために使って、用済みでで捨ててあった建設機械、ブルとーザやクレーンを掘り出してきて、バラバラに分解して、ガソリンで洗い、損耗している部品は、別に作って、組立上げると新品同様につかえるようになる。すなわちスクラップ再生をやっていた。
組み立てる時にマニュアルというものを見る。その機種のマニュアルをコピーして青焼きにしたもので、これで、部品を組み立てる順番をみる。ボルト一本、ナット一個でも、欠落していれば、事故になる。
これで、機械というものは壊れても、バラバラに分解して、壊れている部分を作り直し、新品と交換すれば、元通りに動くようになる。という極意?を得た。
ダイビングのレギュレーターなんて、本当に簡単、一個の弁にしかすぎない。自分で作ろう。
弁構造とは、ノズルとそれを抑える弁、と弁を押しつけるスプリングだ。それにボディ、筐体、ゴムのダイヤフラム、あとは蛇腹管,マウスピース、東亜潜水機は、ゴムの加工もしているし、後は、下請け工場で旋盤切削で部品を作れば良い。簡単な製作図面ぐらいは、描ける。
で、TOA・SCUBAができあがった。参考にしたのは、basic scuba という本で、これが、建設機械工場でいうマニュアルになった。
で、アクアマスターのように浮き上がることが無かった。そして
分解しての清掃が便利
リザーブ圧力を可変することができた。
弁の部分のテフロンとか、いろいろ苦労もしたし、テスト中に空気が停止して危機一髪もあったけれど、とにかく1年弱で、レギュレーターを作り上げた。
その当時、ものをつくるためには、部品を作ってくれる下請け工場が近くになければできない。東亜潜水機の近くには、いくつかの工場があり、向島あたりが、多かった。優秀な下請けを持っていれば、いいものができる。大田区とか川崎も、もの作りの場であり、小さな下請け工場がたくさんあった。
島野さんは、僕の下請けとして立候補、売り込みに来たのだ。向島の切削工場をやめて、島野さんに切り替えた。島野さんは、川崎という地域でもの作りをする一つの天才であり、その上に、電気のことがよくわかっていた。本当になんでもできた。
その一つが「海の若大将」の大型ハウジングである。
次回はハウジングの話をしよう。
作ったハウジングは、ゼンザ・ブロニカを入れた。