摩周湖 1968年 日本で初め摩周湖で水中撮影した。かまえているのは16mmシネ、ベルハウエルDR70 歴史的なカメラだから知っている人は知っている。この時は、日本スキューバ潜水の鈴木博と一緒に潜った。
この時に後に親しくなった知床、網元の佐々木さん斜里モーターの佐野さんら斜里の人たちと知り合った。
この翌年 東亜潜水機を退職してスガ・マリンメカニックを設立、カメラハウジングの製作販売をはじめる。
スガ・マリン・メカニック発足
東亜潜水機の時代もカメラのハウジングを作った。学生時代、撮影が自分の得手だった。アルバイトで、新東宝の撮影、水中撮影の助手をやった。リサーチ・ダイビングもカメラが自分の武器だ。
加山雄三の海の若大将(1965年) 撮影の35mmシネカメラの巨大ハウジングも作った。そのころの16mmシネカメラのスタンダードだったベルハウエル70DRのハウジングも作って、東亜潜水機製造、大沢商会販売で売った。
そのDR70で、日本テレビの番組で、日本初、摩周湖の撮影をした。この撮影で北海道斜里の人たちとの人脈ができた。
東亜潜水機を辞めてもまだダイビングで生計は立てられない。日本潜水会から全日本潜水連盟というダイビング指導団体を作り、これに時間をとられてしまうことが東亜潜水機退職の引き金になったのだが、これが純粋ボランティアだった。純粋ボランティアだったことが日本国産ダイビング指導団体、痛恨の敗走になるのだが、これは置いておき、1970年の時点では全国統一団体になり、僕はそのプロデューサーであったが、収入にはならない。振り返って、本当に愚かだったが、とにかく、これは収入ではなく支出のほうだ。
東亜潜水機を辞めても大恩ある東亜潜水機と同じ商品、手がけていたマスク式フーカーとスクーバのハイブリッドを作ることはできない。これも後から考えれば子会社を作ってもらう途があったのではないかと反省するが、後の祭り。
カメラハウジング作りは、東亜潜水機で、僕が始めたビジネスであり、持って出ても良いだろうと考えた。海の若大将の35mmも、ベルハウエルの16mmも自分が製作図面を描き、旋盤を回し、ヤスリでこすって仕上げたものではない。こういうものを作ってくれと概略の絵を描き、改良点を指示監督して作ったものだ。その作り手が川崎に居た島野徳明で、新しいスガ・マリン・メカニックの発起人にもなってもらって、ハウジング作りを開始した。もう一人、中学時代の友達の友達で、ダイビングショップ(日本スキューバ)を始めた鈴木博も発起人になった。
カバーになる写真がなくて、これはトラック島の沈船だ。話題にしている空光丸は、大波で岸壁に打ち付けられてバラバラになってしまい、機関部だけが海底に鎮座していた。波の力の恐ろしさを思い知った。
空光丸 遺体捜索
ハウジング作りを始めたが売れるわけのものではない。そんなとき、1970年1月30日、太平洋岸に発生した爆弾低気圧が、日本海に発達した低気圧と連携して二つ玉低気圧となり記録的な被害になった。
福島県いわき市小名浜港に嵐を避けて入港していた
1万1千トンの貨物船(木材運搬船)空光丸.は、錨が抜けて岸壁に打ちつけられ、人々が見ている前で沈没し、14名が死亡した。その遺体捜索の仕事が舞い込んだ。
遭難して直ちに捜索も開始されたが、14名が行方不明、何人かが遺体で見つかったが、何人かが見つからない。船は堤防に叩きつけられたのだが、恐ろしいことに11000トンの船がバラバラに粉砕されて、積んでいた原木が流出して、港を埋めて荒れ狂った。これに挟まれて死んだ人もいて、1週間の捜索でまだ見つけられない遺体は堤防のテトラに挟まって居るのではないか。上からは見下ろして捜索したが水中はまだ見ていない。地元の潜水業者はテトラの中には入らない。そこで、僕らのところに来た。僕らといっても潜水するのは鈴木博と僕だけだ。フリーのダイバーをかき集め、日本スキューバのお客でも、セミプロを集めた。島野は、自分は潜らないが人集めと河搬コンプレッサーでの空気充填を担当した。
遺体捜索も、リサーチ・ダイビングである。
腰に命綱を巻き付け結んでテトラの隙間に一つ一つ潜り込んで行く。透明度は1m以下、まるで見えない手探りのところもある。波があれば引き込まれ押し出される。そして2月の福島、小名浜である。水温は6ー8度 まだそのころは5ミリのかぶりウエットスーツだった。死ぬほど寒い。日本スキューバ潜水の鈴木博は、この寒さで、降参して、ドライスーツの開発、販売を決意した。その頃、すでに、シーハントの尾崎君、波左間の荒川さんらが、水密チャックを輸入して、東亜潜水機が製作するGスーツと呼ぶドライスーツを作っていたのだが、それとは別に独自のものを作ろうとした。日本スキューバには、小川君というアイデアマンがいて、水密チャックを使用しないで、水返し(コンスタントボリューム型のところで説明)を薄いスポンジ生地で作り、最小限度に短くして、それを胸の部分でチャックで閉じる格納する。これならば、一人でも着られる。小川式、小川君は退社したので、O式ドライスーツができた。これが成功して、日本スキューバの柱の一つになり、やがて、そのドライスーツ部門が、今の「ゼロ」になる。「ゼロ」の会長は鈴木博の奥さんである。博は残念ながら亡くなった。
結局、テトラの中で遺体は(今はご遺体というが、1970年代は、遺体である)見つけらなかった。その後、港を埋めている材木の下などをロープを横に4人で引っ張るようにのばしながら、見ていくジャックスティと呼ぶ捜索方法をやった。これは、下手が入ると両端が水中で鉢合わせしたりしてめちゃくちゃになる。
ここでの、遺体捜索の中心は、スバルという引っかけ針を鉄の棒に付けて、海底を引き回す方法であり、地元の漁船が総出でこれをやっていた。そのスバルに引っかかって船縁まで上げたが落としてしまった。その場所に舟を止めているから直ぐに上げに来てくれ、と要請が入った。誰と行こうか、大方洋二君がそばにいたので行こうと声をかけた。大方君は、今やカメラマンとして有名人だが、当時は日本スキューバのクラブの中心的一員で駆り出されていたのだ。アルバイトで、良いギャラにもなったが。僕のそばにいたのが不運で、「行こう」というと、顔面蒼白になったが、断れない。
潜ってみたが、舟の直下には居ない。サークルサーチをする事になり、洋ちゃんに芯になってもらって、僕がサークルを描いたけれど居ない。スバルが枯れ枝をかき集め枯れ枝にシャツが巻き込まれて居たものと判明した。
結局ご遺体と出会うことがなく、調査は終わったが、ギャラはしっかりもらうことができて、半年ぐらい、息を継いだ。
※この部分は,出版予定の「リサーチ・ダイビング」では、大幅にカットしなければいけないだろう。おそらくは、全部カット? リサーチ・ダイビングに直接関わる比重が小さい。しかし、書いて、後から、カットする方向で書いていく。せっかく書いたのだから、情報にはなっているので、ブログには順に出していく。