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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0406 リサーチ・ダイビング(9)

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   自作、手作りのフルフェースマスクを着けて100mへ
           1963年



東亜潜水機 100m潜水(90mで戻ってきたけど)


 卒業前の数ヶ月、1月、2月。3月は、卒業論文で終始してしまう。幸い論文の研究発表は好評で、水産学会で発表することになり、学会での発表も、いくつかの賛辞をいただいた。好評だったのは、発表の内容とともに、作成したスライドがわかりやすく良くできていたこと(まだPPなど遙か先です)などで、潜水と映像撮影、調査と、将来戦う武器を身につけて卒業できたわけだが、論文に没頭して試験勉強ができず、公務員試験を通らず、就職の見通しが立たなくなり、研究者になろうと留学も考えたが、折悪しく、実家も倒産、東亜潜水機という、主としてヘルメット潜水機関連の機材を製作販売する会社に拾ってもらった。
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      僕が入社した当時の東亜潜水機(南千住にある)

 その東亜潜水機で、スクーバ器材の開発と販売を担当するのだが、チャレンジ、冒険、探検という悪い虫が動き始める。
 潜水機メーカーに籍を置いてのチャレンジは、潜水機の改善、改良より他にはない。東亜にはマスク式潜水機というレパートリーがない。スクーバのレギュレーターにホースで中圧の空気を送り込む送気式潜水にフーカーというのがある。フーカーとマスク式を合体させるハイブリッドを作ろうと考えた。それは正解なのだが、その潜水機を使ってのテスト潜水として100mを目指した。無謀という他ないが、僕の場合、100mへのチャレンジがまずありきで、100m潜水の理由づけとして、デマンドバルブ付き全面マスクの試作とテストを考え出した。その頃、親しくしていた舘石昭さんを誘って、毎日新聞社の後援で、系列のTBSの番組を制作する体制で千葉県、館山湾で、実行した。もちろん紆余曲折はあった。特筆することは、その頃東亜潜水機に嘱託としておいでになった清水登さんに総指揮をお願いしたことだ。清水さんは、旧帝国海軍で潜水の神様と言われた方で、あの伏龍特攻潜水機の開発者でもあった。
 
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        伏龍を作った清水登さん
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      5本重ねたスクーバを背負う舘石さん
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      千葉県の漁業監視船 ふさかぜ を使わせてもらった。

 自分は、手作りした不完全なマスクにフーカーを取り付けホースで潜水したが、舘石さんはそんなものを使ったら死ぬということで、タンクを5本束ねた通常のスクーバで潜水した。
 もう一つ、テレビ番組の制作のためには、音声、100mの底からの声によるレポートが必須と番組のディレクター竹山さんに言われ,有線通話の開発を行った。もともと、ヘルメット式潜水機は、ヘルメットの内側にマイクレシーバーを付けて通話ができるのだが、マスク式や、もちろんマウスピースで呼吸するスクーバでは、通話機は無かった。通話機は見事に成功して、90mの底から、舘石さんが失神して墜落したことを水面に報告して番組の芯になった。そして、後にテレビ朝日のニュースステーションなどで、成功した水中レポートの基になった。
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     ふさかぜ 船上 二人で潜水するが再圧タンクは一個
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     有線通話で交信する、通話機設計者の片田さん
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       これから潜降!

 窒素酔いは、人間という生体に現れる反応だから、個人差、体調、呼吸気体の状況(多少、質)周囲の状況などで千差万別であるが、水深30mぐらいから発現し、40mを超えれば,ほぼ確実に体感する。状況によっては、快感に近い場合もあり、酒酔いと同じように、くせになることもある。この潜水では、空気の質、不足があって、非常に不快であり、耐え難くて浮上する事態もあった。おそろしいのは、意識が途切れる、失神であり、失神すると落下していき、ホースなどで引っ張られれば、意識がもどり、また引き揚げてもらうこともできるが、スクーバでの墜落は非常に危険である。
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      93mの海底で、舘石さんが撮影した僕の顔

 この潜水では、命綱を付けており。テレビ番組のタイトルも「命綱を降ろせ」であり、命綱とホースで命が保証されているように考えて実行していたが、予期していなかった事態が起こり、危機一髪だった。それは、僕のホースだった。ホースが長くなるので、従来の潜水用ゴムホースでは、太くて嵩張る。ビニール製の細いホースを使った。このホースは耐圧は十分だったのだが、熱に弱く、夏の暑い日差しとコンプレッサーの圧縮熱でやわらかくなり、膨れ上がった。膨れて、ホース金具から外れたり、破裂すれば、僕の命はなかった。コンプレッサーだけでは空気が不足するので、高圧親ボンベからの送気も用意していた。ボンベからの空気を足したのでその気化熱でホースが冷やされて、破裂しないで済んだ。
 この潜水での機材開発の基本的な考えは、ハイブリッドで、マスク式と、デマンドバルブフーカーのハイブリッドだったが、スクーバとのハイブリッド、送気ホースと一緒に背中にタンクを背負う、ホースとタンク、二系統からの送気を考えれば、これは危機一髪ではなかった。それを考え着かなかった理由は、レギュレーターが、ダブルホースだったからで、現在のようにシングルホースでオクトパスを着けていれば、容易に考え着いただろう。
 その後、現在ではデマンドバルブを付けた全面マスク式が作業ダイバーの潜水機の主流になっている。日本でそれを考えて最初に実施したのは、僕で、1963年のことだった。技術者として多少は誇りに思っても良いかもしれない。しかし、僕は、このコンセプト、この潜水機を完成させることなく、1969年に東亜を退社してしまう。社長の三沢さんも専務の佐野さんも引き留めてくれた。あんなとんでもないわがままをさせてもらったのに、とんでもなく申し訳ないことだった。辞めた理由は、もっとダイビングをやりたかった。機材の開発と制作販売の片手間に潜るのでは足りなくなってしまった。ダイビングの指導の団体、全日本潜水連盟を創ったことが直接の引き金だった。
   
 実現しなかったが、次はヘリウムを使って120mに潜る計画だった。 
 ヘリウムは高価なので、水中へ電動コンプレッサーを持ち込み循環させる計画だった。
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 このコンセプトは、後にプッシュ・プル方式と呼ばれて、シートピアはこの方式を使った。特許を取っておけばよかった。が、実施していたら、多分、命はなかっただろう。
 

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