大学の4年間でその後の自分のリサーチ・ダイビングで重要になる事のほとんどすべてを体験した。そしてその時期は、日本のスクーバダイビングの黎明でもあったので、詳しく述べた。
そのすべてを恩師 故宇野寛東京水産大学名誉教授の指導をいただいた。
1954年の二名事故死の責任を問われて裁判中にもかかわらず、1956年には講習を復活させ、さらに、ぼくのような「冒険児になりたい」などと唱えて高校時代を送り、その気質のぬけない弟子を教室に入れ指導した。最後は見放して、潜水をさせなくなったが、ともあれ、先生は、日本のダイビングのパイオニアだった。
一連の出来事の中で、僕の一生のダイビングにつきまとうテーマとなったのは、二つ。一つは、1954年、日本最初のスクーバダイビング事故の事で、もしも頭上の海面に櫓漕ぎの小舟、サジッタが居れば死ななかった。
このことは、後の裁判でも問題にされ、最終的には「うたがわしきは罰せず」になったのだが、もしもこのときにこれが有罪になっていたら、日本のスクーバダイビングは、ビーチエントリー禁止になってしまう。そのことは、ずっと、今でも頭に引っかかっている。
僕なりの解決は、リサーチ・ダイビングを仕事として行う場合には、ボートダイビングで行う。レクリェーションダイビングでは状況に応じて使い分けるが、経費の点で、ボートは使いにくい。
なお、東京水産大学の潜水実習は、小湊に実習場があった時代は、1957年の講習と同じように、サジッタを頭上に浮かべて行っていたが、館山に移ってからは、サジッタがエンジン付きの大きなボートになったこと、地形が小湊のような波静かな入り江ではなくなったこともあり、実習のほとんどの科目がビーチエントリーになった。
ともあれ、僕は舟、もしくはゴムボートがが使える状況であれば、使うことにしていて、不思議と、上に舟がある時に、事件がおこり、助かっている。
もう一つは、命綱で、1954年の事故を受けて、1956年の実習再開の時は、講習を受ける学生に命綱をつけた。僕はそれには大反対で、何とか綱をなくして自由になりたい。なぜならば、スクーバとは、拘束されない自由に泳ぐ、セルフコンテインドこそが他の潜水機とは区別される特色だと思っていたたからであった。
幸い?僕らの代からは、命綱はなくなり、その代わりに、海底に引くラインが使われ、卒業論文もラインサーチ(ライントランセクト)での調査でおこなった。
しかし、切羽詰まると船上の監督者は助けを命綱にもとめる。人工魚礁調査で、上島さんが命綱をつけ、流れが出て来たので、それを自分で解いてしまったことを述べた。流れがあっても、後年の水中レポートシリーズでは、有線通話ケーブルを離さず、そのために事故から逃れたこともある。命綱を使う場合も打ち合わせと練習が必要である。
スクーバダイビングとは、自由=危険、安全=拘束の相克の谷間にある活動であり、それが以後の自分のダイビングライフの芯になるのだが、卒業の時点ではまだ気づいてはいない。