大学時代の調査潜水(3)
人工魚礁調査(2)
鴨井港から漁船を出してもらう。人工魚礁の位置を魚探で探る。記録紙の上を上下にせわしなく針が動いて、海底の影を作り出して行きく。1,5m角のコンクリートブロックが二段、最高部で三段に積まれていることがわかる。
錨が人工魚礁の中に入ってしまうと引き上げることができなくなってしまう。少し外して、人工魚礁の脇に落ちるようにする。
ドライスーツは、胸の部分が薄いゴム地で筒のようになっていて、この筒から服の中に入り込み、足と手を入れ、頭を被ってから、この筒を畳んでよじるようにしてギリギリとゴム紐で結んで水密を保つ。この筒の部分を「水返し」と呼ぶのだが、これが胸の部分に盛り上がっている。
ドライスーツに入って、マスクのガラスを一番後でクリップのような金具で締め付けると完全に密閉される。このマスクは視野がせまく、特に下方への視界は、胸の水返しで妨げられるので、その水返しが見えるだけだ。閉所恐怖症ならば耐えられない。ドライスーツの中に突き出しているマウスピースを咥えて、これは普通のスクーバと同じように呼吸できるが、吐く息を鼻から出してやれば、その空気は服の中に溜まり、服の外の水圧と服の中の圧が均衡し、スクィーズを起こさない。服の中の余剰の空気は、フラッターバルブと呼ぶ、ゴム製のバルブから外に出されて、服が膨れ上がることはない。コンスタントヴォリュームを保つわけだ。
正常に恐れるということが大事とは、今の信条だが、20歳の僕は恐れを知らないことを、誇りに思っている。それでもなお、恐ろしくないと言えば嘘になる。30mは、初めての体験でだ。30mは浅くない。ドライスーツに閉じ込められる。動きは不自由で、これも慣れてはいない。
斜めになっているアンカーロープを手繰って行くのだが、このドライスーツは下の視界が悪い。見えるのは前方だけだ。眼が慣れないので暗黒の世界への潜降である。
ようやくロープの終点、アンカーにたどり着き、周囲を見回すが魚礁は見えない。探さなくてはならない。
これは、予想していたことで、捜索用のロープを持っている。一端をアンカーに結び、一端を手に持って、進んでいく。ロープの長さは20m。だんだん目が暗いのになれて来て、透視度は10mほどだった。足元から1mほどもある大きなヒラメが飛び跳ねた。このシーンは60年経った今でも鮮烈に覚えている。
20m進んでも魚礁は無い。サークルサーチと言って、円を描くように捜索する。ということは知識として知っていたが、練習はしていない。とにかく、左側に円を描くように泳いでみる。しかし、そろそろ戻らなくてはいけない時間になった。ロープを手繰って戻る。
その頃のアクアラング、スクーバには残圧計はない。そして時計も無い。時計を水密ケースに入れて持って行くのだが、僕らにはそれも無い。リザーブバルブと呼んで、残圧が20キロになったら、空気の出を制限する装置があるのだが、僕らの教室は貧乏で、それも付いていない。空気が渋く、つまり呼吸抵抗が大きくなったら浮上する。それと、大体の時間経過で浮上してくるようにする。伊豆大島で、20キロの充填圧での潜水を何回か繰り返しているから、空気が無くなる感覚は磨かれている。はずである。だから、戻る時間が来たことの察知は間違っていなかった。
アンカーまで戻って、アンカーロープをたどって浮上を始める。少し行くと、眼下に魚礁が固まって見えた。一番高いところで三段のようだ。魚もメバル、クロソイののようなものが見える。潜って行くときに、下方視界が悪いために、腹の下の部分が見えなかった。空気がそろそろ渋くなってきて、浮上しなければいけない。
しかし、ようやく送ったタンク、借りてきた高価なカメラ、一枚でも撮らなければすべてが空しくなってしまう。降下して魚礁に降り立ってカメラで撮影した。その時魚礁の上に膝を突いたらしく、ちくっと痛かった。このドライスーツは、動きやすくするために、薄いコム地だった。すぐに浮上しようと足を蹴った。薄い袋のようなドライスーツの足の部分に水が入ってダブダブになって動きが鈍い。焦ってなんとかアンカーロープをつかんだ。ロープを手繰り始めた時、空気が尽きた。
潜水病だとか空気塞栓、肺の破裂など頭に浮かばない。とにかく空気を求めてロープをたどる。ロープは長い。肺が空気を求めて痙攣する。息を吸い込もうとする。密閉されているから、吸い込むことはできない。あとから考えればこのことが幸いして水を吸い込まなかった。肺に水を吸い込んでいれば、直ちに入院でした。死んだかもしれない。
手にしていたカメラ、これがかなり重かった。捨てれば、早く上がれる。しかし、40万、死んでもカメラは離せない。
とにかく水面にたどり着いたのだが、ガラスを外さなければ息ができない。ガラスを外せば沈没する。20歳、抜群の運動能力だから自力で船に這いあがれた。ガラスを外した上島さんは、顔はチアノーゼで土気色だったという。先生はパニック状態で怒鳴っていたが、何を言われたか覚えていない。1954年に二人死んでいて、こんどは船の上で一人殺す。どうなるかわからないが大変なことです。前の時はともかく、これで、先生の将来は無いかもしれない。僕が死んだ場合母親はどうしただろうか。先生と学校を訴えただろうか。訴えなかったと思う。今とはちがう。息子が迷惑をかけたと謝りに行く時代であった。水に入ってからのことは、すべて自分の責任なのだ。
この場合、バディがいたら、バディを殺していたかもしれない。自分だから助かった。自分だけだから助かったと思った。
その後、人工魚礁の調査はもう少し浅い水深15mぐらいの場所、横浜三渓園沖で沖で実施されたのだが、もはや宇野先生は僕を潜らせようとはしなかった。上島さんが潜り、僕は上回りになる。
今度は、上島さんにロープを結び付けて、潜らせた。アンカーとロープが絡むといけないので、アンカーは揚げている。
何回目かの潜水の時、時間が来ても、上島さんがもどってこない。
「須賀君、ロープを手繰りなさい」
ロープの先に、上島さんが付いていない。居ないのだ。先生は顔面蒼白、本当に蒼白になった。船頭に頼んで、潜降を開始した地点に船を回してもらって、水面を探す。離れたところに浮いているのを見つけた。
「どうした」先生はどなるように聞きます。「流れが速くなってきて、ロープが引っ張られるので、外しました。」そういうことなのだ。ロープを結んでも、人間は鵜と違うから、手でほどいて外してしまう。
潜水科学協会の機関誌 ドルフィンに宇野先生が人工魚礁について寄稿したが、僕が命がけで撮った写真、クロソイが使われていた。頭がかげになって見えない、通常ならば、NGカット、それでも写ったのはこの一枚だけで、もしも死んでいれば、これがこの世で僕が見た、シャッターを押した最後の光景になった。
①無理をしてでもやり遂げようとする性格、責任感が若者を殺す。
②海士なみのスキンダイビング能力が命を救った。しかし、自信過剰が一番危険。
③アンカーロープがあったから、たどって船に戻ることができた。ロープが無かったら浮上できなかった。
④幸運の第一回目だった。
以下は蛇足 カットする部分
その後10年ほどして、1967年、日本潜水会という指導組織を作って、教える立場になり、このアクシデントのことを話して、おなじようなエア切れを経験したことがある人は?と聞いた。およそ半数が手を挙げた。中には小便を垂れ流したとか、水を吸い込んで、救急車で運ばれたとか様々だった。そういう時代だったのだ。
そして、今でもエア切れは、ダイバーにとって致命的になる。
今ではタンクの充填圧は200キロだが、1980年代までは150キロ、1960年代の国産のスチール容器は120キロだった。120キロというと、今ならばそろそろ、ターンプレッシャー帰る気持ちになる。ターンするのは、おおむね80キロで、エキジットした時が50キロを目指す。昔は50キロでスタートすることも普通だった。午前の潜水で50キロ残したら、午後は50キロでスタートだ。自家用の車は持っていない。レンタルタンクは存在しないから、みんな自分のタンクを買う、クラブで、車を持っている人が充填の世話をしてくれたり運搬してくれたりする。車(貨物車でいい)を持っていることが、ダイビングクラブの中心メンバーになる要件だった。そして、やがてクラブがダイビングショップになっていく。
その代わりに、減圧症には、なかなかなれなかった。一日にタンク一本では、減圧症にはなれない。減圧症になれるのはプロ、潜ることを収入源にしている人だった。まれに、どうしてなったのかわからない減圧症もあり、相談を受けたが、そのうちに治るという答えしかだせなかった。