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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0402 リサーチ・ダイビング(6)

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そのころのドライスーツ(コンスタントヴォリューム)胸の前に垂れ下がっているのが水返し マスク部分は被って頭部分と一緒に密閉される。ソフトラバーのヘルメット式のようなものだ。

 大学時代の調査潜水(2)

 人工魚礁調査(1)
 三越屋上ですごした夏も終わり、秋も中ごろ、人工魚礁の調査潜水が宇野教室に持ち込まれた。
 この本で、人工魚礁については、詳しくのべているが、人工魚礁は1935年ごろから、コンクリート製がぼつぼつ作られ注目されていたが、戦争で中断、そして戦後になり、食料としての魚類生産拡大の切り札のひとつとして、各地に沈設されはじめた。
 日本潜水科学協会の主要メンバーには東海区水産研究所もあり、各地の水産試験場もマスク式潜水などでの調査は行っていたのだが、まだアクアラングによる調査例は少なく、アクアラングによる調査の先端を走っていた宇野教室に調査の話が持ち込まれたものであった。
 人工魚礁は、後に自分のライフワークの一つになるわけだから、当然、僕はやりたかった。しかし、僕と原田は夏に採集したサザエの日周成長線を数えるのに忙しく、とても人工魚礁はやれない。後に日本アクアラングの社長になる上島君が、宇野教室に来て、やることになった。しかし、上島さんは、まだ、ダイビングについては、潜水実習を終えただけのキャリアであった。目標とする人工魚礁は神奈川県浦賀の鴨井漁港の地先、水深33mである。水深33mは、今でも昔でも深い水深だが、1958年では、33mに潜ったスクーバダイバーは数えるほどで、僕もまだ、30mは未経験だった。
 定置網の調査を始めていた一級上の恵里さんは、水深80mに潜って窒素酔いの経験があると豪語していたが、彼は、漁業科である。
 宇野教室でこのテーマをやろうとすれば、僕が潜る他ない。僕は潜りたい。
 
 季節は晩秋 スーツがなければ、潜れない。
 その頃のウエットスーツだが、今と同じ独立気泡ネオプレーンのものはない。これができるのは、1960年である。映画「沈黙の世界」で、クストー等が使ったような、単なるスポンジのスーツは、水産大学にもあって、一年先輩の竹下さん、橋本さんはそれを使って小湊でサザエの調査をした。しかし、そのスーツは、僕と原田が、ためしに使って見て、接着剤が老化していたらしく、バラバラにしてしまった。
 潜水服としては、、ウエットスーツの前にドライスーツは、あった。いわゆる潜水服とはドライスーツのことなのだ。ヘルメット式、マスク式の潜水服は、ドライスーツである。しかし、これは、ごわごわと固く、泳ぐスクーバには使いにくい。使えない。
 スクーバ用のドライスーツとしては、これもクストーのグループが作った、コンスタントヴォリューム型と呼ばれるものがあった。
 密閉されたドライスーツは、内圧外圧(水圧)の不均衡によって、スーツの内側が陰圧になり、身体が吸いだされ、絞られるスクィーズが起こってしまい、深く潜れない。10m以上、深く潜るためには、スーツ、潜水服の中に空気を送り込んで、内圧外圧を均等にする必要がある。ヘルメット式の場合には、ヘルメットと潜水服は接合されていて、服の中にも空気が送り込まれるようになっているから、スーツスクィーズは起こらない。クストーの工夫は、ヘルメット式と同じように、服の中にも空気を送り込んで、圧を均等にする。わかりやすく言うと、潜水服とマスクを接合して密閉状態にして、その中にダイバーの呼気を吐き出して均等にする。それが、コンスタントボリューム型と呼ばれるもので、スーツの頭の部分にも、足の部分にも排気弁が付いていて、内側全体が外の水圧と釣り合うようになっている。(※現在のドライスーツは、レギュレーターの高圧弁を通してインフレ―ターで空気を送り込んでいるが、これは、直接に服の中に空気を吐き出す。)
 つまりダイバーは、ドライスーツの中に密閉されている状態である。
 このドライスーツは、後に大学を卒業してから、就職した東亜潜水機で、クストーの複製(多分無断)を作っていたものであるが、こちらの(潜水科学協会)仲間内には、菅原久一さんが持っていた一着しかなかったので、それを借りて使っていた。
 僕がこれを使った経験は二回、一回は大学のプールで、ぺガスという水中スクーターのテストをした時、もう一回は木更津の実習場で海苔の養殖網の水中撮影をした時で、二回とも水深は1.5mほどだった。
 このドライスーツを着て、生まれてはじめて30mの水深に潜ろうというのだ。今考えれば無謀である。自殺行為と言われるかも知れない。しかし、そのころ(今でもだが)海はフロンティアである。人跡未踏である。勇み立ちこそすれ、不可能とは思わない。
 
 僕らはまだ車は持っていない。教室にも車はない。
 充填したタンクを木枠に荷造りして、鴨井の漁協まで送る。充填済みのタンクは爆発物だから、それなりの方法で、運送会社に依頼しなければなりない。
 潜って写真の撮影もしなければならない。手作りのハウジングは持っていたが、これは、ようやく小湊の水深5mあたりまでが限界、30メートルでは使えない。押しつぶされて水没する。
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  理研(理化学研究所)が作ったカメラ。中にはスプリングで巻き上げる35ミリカメラ、トプコンが入っていた。

 カメラは理化学研究所に借りに行った。20万とか40万とかするカメラである。そのころの大学卒の初任給は1万5千円、15万ではない一万五千円。だから、20万は月給の一年分に相当する。面白いのは、それ以後、自分がハウジングを作って売るようになった時も、価格は20-40万、今でも20-40万、貨幣価値は、まったく違っているがなぜか同じ。
 宇野教室にとって一大プロジェクトになった。潜るのは僕でも、論文を書くのは上島さんで、宇野先生、上島さん、僕の三人で出発する。


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