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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0331 RD5 大学時代の調査潜水(1)

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    1956年のウエット スーツ クストーが沈黙の世界で使っていた。


大学時代の調査潜水(1)

 サザエの棘(卒業論文)
 1958年、大学四年次になり、宇野寛先生のところで、卒業論文を書く。テーマはサザエの棘。サザエには、棘があるのと無いのがあり、波の荒いところのサザエは棘があり、波のないところでは、棘が無い。
 調査の場所は、伊豆大島の波浮港で、ここは巾着港と呼ばれていて、港と外洋の通路の部分、首の部分が細く長い巾着の形をしている。外側は外洋の波が打ち寄せていて、磯には棘のあるサザエがいる。首の部分の磯には棘のないサザエがいるのだが、その首の部分の海底にラインを引き、ラインにそってサザエを採集して、棘の有無、状態を調べればどこかに、ここからが棘あり、ここから内側が棘なしという境界があるはず。 
 大島にはまだ、タンクに空気を充填するコンプレッサーがない。まだ、全国、どこにも空気充填所などはなく、小さなコンプレッサーを持って行く時代だった。携帯用のコンプレッサーは、一本充填するのに2時間から3時間かかる。それはやめて、大きなボンベ、親ボンベを持って行って、親から子に移充填することにした。これならば、瞬時に充填することができる。ただし、空気の量に限りがある。
 宇野先生、そして、バディの原田進、3人ででかけ、夏季休暇の7月に15日間、現地調査を行うこととした。先生は、最初の3日間だけ指導して、方法が決まったら帰る。
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   トウシキでサザエ採集中の宇野先生

 サジッタという名前は付いていないが、おなじような大きさの木製、櫓漕ぎの舟が水産試験場にあり、これを借り、これで漕ぎ出して行って、ラインを張る。このライン調査がこの本(リサーチ・ダイビングの)の一つのテーマなのだが、ライン調査(ライントランセクト)は、日本では僕たちが嚆矢であった。スクーバを使う調査というのが、まだ、はじまったばかりなのだ。
 1957年、前の年に受けた潜水実習でも安全確保のためにラインを引いた。ラインには、検縄(けんなわ)という測量用のラインを使った。目盛りのついているラインなのだが、これに、さらに5m間隔でタグを付ける。この100mのケン縄を張って,その起点と終点の位置を測定して、海図に書き込む。そして、サザエを採集したら、その位置を目盛りで確認してサザエに記入する。サザエの殻の内側は白い部分に鉛筆で書き込むことができた。
 今ならば、ラインの起点、終点の位置はGPSで簡単に決めることができるのだが、GPSができるのは、まだまだ遠い未来である。六分儀を使って、陸上の建物とか目印を三つ選んで、六分儀で自分の位置とその目印地点との間を仮想の直線で結び、三つの目印との角度を測り、それを海図(地図)の上で三点分度器と呼ばれる定規で記入すると位置がでる。
 先生がいるうちに、まずこの地域全体のサザエの状況を調べる。波浮の近くに、トウシキと呼ぶ、今では有名なダイビングポイントで、岩礁が波を遮る、天然のプールのような澪筋がある。自分もその後何十回とこのトウシキに通い、撮影の天然スタジオのように使うのだが、この時が最初だった。
 いまでは、伊豆大島には、おそらく餌になる海藻類の変化だろうと言われている原因でサザエがほとんど居なくなってしまったが、当時は棘のあるサザエがたくさんいた。
 次にラインを引いて、波浮港の長い首の部分には棘のないサザエが居ることを確認した。
 これで、宇野先生が帰るのだが、そのころには親ボンベの空気はほとんど使い果たし、残圧は20キロほどしかない。それは、本当に深いところで使うこととして、ほとんどを素潜り、スキンダイビングで行うことになった。
 今、またスキンダイビングによるライン調査が脚光を浴びようとしているが、これの元祖になったわけだ。
 大きい5年もののサザエから、小さい、ピンポン玉くらいの大きさから、親指の爪くらいの大きさまで、ラインの両幅1mを徹底的に探して、殻の内側に、採集した位置を鉛筆で記入する。
 調査地点がだんだん深くなっていって、最終的に、僕は18m-20mぐらいまで潜れるようになった。職業的な海士さんは別として、そのころは、僕以上に深くスキンダイビングで潜れる者はいないと胸を張るようになった。
 貝の類は、一日の成長の量が、樹木の年輪のような成長線で見ることができ、サザエはそれがはっきりとしている。日周線を365本数えれば、サザエの1年前の姿がわかる。
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      サザエの日周線

 そして見つけた。成長線で2年目までは棘があり、以後棘がない個体、最初は棘があったが、後からなくなった個体、これは、サザエの棘の出来地帯とできない地帯を往復したものだ。そのあたりに境界線があるはずである。
 そこまでで、僕らのフィールド調査は終わって、後は戻ってからのデータ処理になる。これが大変だったが。


 潜水科学協会
 1957年、僕らが潜水実習を受けた年、日本潜水科学協会が発足した。今の僕らは日本水中科学協会で、水中と潜水で紛らわしいが、潜水科学協会の後を継ごうという思いもあってわざと紛らわしくしている。
 潜水科学協会は、日本のスクーバダイビングを、正しく発展させようという意図で、猪野俊先生、宇野寛先生、神田献二先生、医科歯科大学の梨本先生、旭潜水(マスク式潜水のメーカー)の佐藤賢俊さんらが中心になって作ったもので、残念なことに、途中でレジャーダイビングだけの団体に姿を変えてしまい、科学潜水を司る組織が無くなってしまう。その後を継ごうと僕らが日本水中科学協会を作ったものなのだが、その日本潜水科学協会に、僕は、1957年の創立時に学生会員の第一号として入会する。
 次に企画している「ダイビングの歴史」ではこの日本潜水科学協会について詳しく書こうとしているが、今、この協会のことを知っているひとは、あまりいないだろう。
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     三越屋上に置いたプール

 その潜水科学協会が、スクーバダイビング普及のために、日本橋三越の屋上に水深3m、円筒状のアクリル水槽プールを持ち込んでデモンストレーションをやる。何をやるかと言えば水中脱着。3mの水底に座って、スクーバ機材を全部脱ぎ、一旦浮上し、また潜っていって、その機材を全部着るという講習会でやるエキササイズをやって見せる。
 1957年の僕らの講習会は、事故が起こった1954年のころのものとは一変していこの水中脱着が技術の最終確認としてやるようになっていた。このデモストレーターは、僕しかいない、と売り込んで、学生会員第一号なので、やらせてくれて、それに間に合うように大島から帰ってきたようなわけだった。
 ここで、毎日3回、水中脱着をやって見せて、もう、目を瞑っていてもできるようになった。


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