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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0329 RD4 1953-1954

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      16mmシネ撮影中のディーツ博士


1953年
 日本にアクアラング(スクーバ)が紹介された経路は、軍事目的、駐留していた米軍ルートなども考えられるが、それらは、印刷物としての資料は残っていない。伝聞だけである。
 1953年 5月 東京水産大学小湊実習場に 米国の海洋学者ロバート・ディーツが、これは、新聞社なども招いて、実習場の大型生け簀に潜って見せたのが正式記録になっている。
 その時に、参加した水産大学漁業科の神田献二先生が撮影した写真が手元にある。その時、自分の恩師である宇野寛先生も参加されている。この時、若手研究者であった宇野先生、神田先生が、ディーツ博士から実技指導をうけたかどうか、定かではないが言葉によるレクチャーだけだったと想像している。
 その時、ディーツ博士は、小湊鯛の浦に潜って水中撮影もしている。その時の写真をみると、16ミリシネカメラと、その後、僕らが作ったような、しっかりした水中ハウジングを手にしていることから、当時のアメリカでも、ダイバーとして著名な人だったのだと想像できる。
※ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz、1914年9月14日 - 1995年5月19日)はアメリカ合衆国の地球物理学者、海洋学者。ハリー・ハモンド・ヘスとともに、海洋底拡大説の提唱者の1人として知られる。天皇海山群の命名者としても有名である。
1941年にイリノイ大学で学位を取得し、海洋地質学者 フランシス・パーカー・シェパード に師事した。1953年、フルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部においても研究を行った。このときに天皇海山群の海山に歴代天皇の名をつける。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・シンクレア・ディーツ


1954年の事故
1954年夏「日本初の学生対象のスクーバダイビング講習」が東京水産大学安房小湊実習場で行われ、そこで、日本初のスクーバダイビング事故が起こってしまう。
以下は、兄事する先輩白井祥平氏の「サンゴ礁探検」1975 あかね書房 を参考にしている。
 1950年ごろ、東京水産大学(現海洋大学)では、漁業学科と増殖学科の三年次に潜水実習(任意選択)が行われていた。実習の対象の潜水機は、マスク式(旭式)で、これは、小型の手押しポンプで送気して、水深5~8mまで潜る実習だった。この潜水機は、伊豆半島では、磯根のテングサ採取、伊豆七島では追い込み網、北洋ではサケマス独航船が網やロープをスクリューに絡ませたときに外す用途に使われていた。実習の内容など正確にはしらないが、自分たちも1957年にスクーバの前に、マスク式も体験させてもらった経験から推察すると、半日、一日程度、それも遊び半分の実習で、冗談で、「ポンプをとめてしまうぞ」と脅したりして、息抜きのような実習だった。小湊実習場では、突出した磯根の先端にコンクリートで8畳敷き程度の台地を作り、ここにポンプを置いて潜水していた。ここを潜水台と呼んでいて、事故が起こった1954年にもこの潜水台で実習が行われていた。
 
 1953年にディーツ博士がアクアラングを紹介し、それを見た当時小湊実習場の場長だった僕の恩師になる宇野寛先生、同じ年頃の、漁業科館山実習場の神田献二先生らがこれを購入することを希望し、2台とコンプレッサーを購入した。この購入と小湊での潜水実習にかかわったのは、魚類学の海老名教授、そして、猪野峻先生(後に潜水科学協会会長、海中公園センター理事長など)であった。
 1954年の潜水実習は、参加希望者13名、タンクは2セットだから、13名を2班に分けて行われた。それにしても、6-7名に2台である。
 実習は、まずマスク式が行われ、耳抜き、水慣れなどしてからスクーバに移行する。マスク式プラススクーバの体験、といったプログラムで、マスク式の延長線上で、スクーバがあっただのだろうと推察する。
 スクーバで、マスク式で潜ったおなじようなコースを水深8mまで潜った。誰でも、スクーバで一番最初に潜った体験、見た光景に感動する。それまで素潜りで、潜っていた経験があったとしても、スクーバはまた別の感動がある。
 白井さんたちは、二回目は、もっと深くまで潜りたいと相談する。この時潜水台の上で撮った記念写真を白井さんにいただいたが、学生と一緒に写っているのは、猪野先生で、宇野先生はここにいない。
 そして、もっと深くまで潜るために、そのコースラインにロープを張る、設定することになり、水泳の達者だった旭さんと伊東さんがまず潜ることになった。
 二人で一本のロープを引くのだから、完全にバディである。深いといっても、潜水台から海底の斜面を下っていき、適当なところから戻ってくれば良いだけ、直線往復である。2本を7人、1本を3回の潜水で分ければ30気圧前後が約束された空気量、とすれば5分程度で戻ってくるはず。しかし、みんなが心配し始めるほどの時間が過ぎる。そのうちに一人が水面に浮いてきて手を振っている。予想していたよりも沖であったという。そして、その一人も沈んでしまう。先生がロープをもって飛び込む。学生の誰かは、急をしらせに、宿舎の方にもどる。
 舟を出して、一人(多分、手を振っていた一人)は、引き揚げて人工呼吸を開始したが蘇生しなかった。もう一名は、潜水夫を入れて捜索、引き揚げたが、無論、死亡後の引き上げである。
 この事故の詳細について、1957年には同じ潜水実習を受けた僕ら学生に知らされていない。噂的に知っているだけだった。
 
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        1957年の実習時の小湊実習場

 この事故の翌年1955年には潜水実習は行われず、次の1956年に再開、1957年に潜水部を一緒に創立する、竹下徹さん橋本康生さんらが受講する。この時にはタンクも6本に増えているが、竹下さんらは、命綱を身体に着けて、鵜飼の鵜状態で潜水した。僕は事故の翌年の1955年に東京水産大学に入学し、その夏の館山水泳実習でアクアラングに出会う。1954年の事故実習でも責任者の一人になっている、魚類額の海老名謙一教授が、自らスクーバのタンクを背負って、館山の大桟橋で潜って見せた。僕らは、桟橋の上から、先生の出す気泡を眺めたのだが、その時すでに、僕はユージニー・クラークさんの著書「銛を持つ淑女」などで、ダイビングに惹かれていて、この気泡を眺めながら、これを、一生の仕事にしたいと思い定めた。
 そして、1957年、大学三年次に僕は潜水実習を受けるわけだが、その時には実習の態勢、プログラムなどはほぼ、現在のものに近くなっている。タンクの数も漁業科の館山と共用で10本ぐらいになっていたし、プログラムは、まず債一日目の午前中が潜水台からのマスク式潜水、その午後から、次の日一杯はスキンダイビングの練習、三日目からタンクを付けるが、実習場宿舎の下の桟橋から潜水台に向けて海底にロープラインを引き、これに沿ってバディで潜る。実習のすべて、水面には櫓漕ぎの木舟が浮いて、気泡を追って監視している。
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      サジッタを漕ぐ竹下先輩


 ※この小舟は、愛称を「サジッタ」と呼ばれていて、僕らのマスコットだった。サジッタとは大型の肉食プランクトンで、矢のような形をしているので、和名は矢虫である。櫓漕ぎの小舟は、矢というよりもダルマに近いのだが、櫓を漕ぐのは立っているので、気泡を追うのに適している。座って漕ぐカヤックでは気泡は追いにくい。なぜか、大学実習場の同じような小舟はサジッタと呼ばれている。
 マスククリアーなどを練習し、次は、このラインをマスクなしで泳ぐ、そして、最後は桟橋の下水深1,2mぐらいのところで、海底のウニを避けながら水中脱着、ウニの上に腰を下ろしたら大変だ。これができて卒業となる。のべ一週間、しっかりしたものだった。
 また、その中の半日、医科歯科大学の梨本先生が来て潜水医学の講義をされた。
 1954年の事故にもどって、原因は何なのだろう。すでに述べたように、バディでロープを引いて、磯根を降りて行き、戻ってくるだけ、事故を起こした学生は泳ぎが上手、想像できない、起こりえない事故だった。以来、ダイビング事故の多くは想定外の状況でおこる。想像では、空気塞栓だろうなどと言われた。経験の少ないダイバーの事故で、原因がわからないとき、まず空気塞栓が想像されることが多く、その大部分はあたっているだろう。しかし、解剖などされていないから、確定ではない。
 後述するように、僕は潜水実習の教官であった宇野先生の教室に入り、卒業論文を書く。そして、先生は、1954年の事故の責任を問われる訴訟中だった。詳しい話は聞かせてもらえなかったが、小舟が上に居なかった、居させなかったことが争点になっていると話してくれた。確かに、一人が助けを求めて浮上してきたのだから、小舟が上に居れば、最悪でも一人は救助できて、もう一人も多分、命はとりとめた可能性が大きい。
 僕は、そのころのサジッタを漕ぐのが好きだったし、57年の講習では舟が上に居るのが常態だったから、なぜ、舟を使わなかったかが疑問だった。しかし、これは事故の後の反省から、僕らのプログラムができたわけだし、1954年は、潜水台からのマスク式潜水の延長であり、マスク式では小舟は使わなかったから、そのままで、マスク式の乗りで行ってしまったのだろう。
 空気塞栓について、もうひとつ。その時、空気塞栓についての知識がまだ十分でなかったのではないかという疑いがある。当時のマスク式、ヘルメット式の教本には、空気塞栓の記述がない。ヘルメット式、マスク式のような口鼻が解放されている呼吸では浮上中に息を止めていることができにくい。普通に呼吸していれば、浮いてくれば息を自然に吐き出している。また、もしかしての事故も潜水病でくくられていたかもしれない。
 1957年の僕らの講習では、まず、いろはのいで息を止めるなと教えられたが、1954年には、どうだっただろうか。
 とにかく、1954年と1957年の間に長足の進歩があった。事故にも負けず、訴訟中にもかかわらず、機材を増やし、プログラムを研究して修正した先生等に感心、感謝する。
 さて、その訴訟だが、舟が上にあるとないと、あったからと言って必ずしも助かったとはいえない。「疑わしきは罰せず」で無罪になったよと、宇野先生は言っていたが、これが舟が居ないという理由で、有罪になったとしたら、ビーチエントリーで事故が起これば、すべて有罪になってしまう。ビーチエントリーで潜れるということが、スクーバの大きなメリットであり特色であるわけだから、これは一つの分水嶺だったともいえる。 
 
 そして今、1954年の事故を忘れないように、と遺族が作らせた石碑が、海洋大学の博物館に、展示はされないで、どこかに保存されている。小湊実習場は、実習場が千葉大学に移管され、僕らは館山に移るまで、ホームグラウンドだったから、数えきれないほど行ったが、この石碑がどこにあったのか知らない。この石碑を前にして、1954年の事故について説明したり、説明されたりしたことがない。事故は忘れ去ってはいけない。そのために遺族が石碑を作ったのであろうが。
 日本のスクーバダイビングの歴史は、この事故から幕があいた。

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