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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0203 ダイビングの歴史 107 学生連盟

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ようやく、関東学生潜水連盟に話をもどす。 話を戻すので記述は、少しダブル。
 1968年
  関東学生潜水連盟は、法政アクア3期の銭元健二君が初代の委員長、第二代の委員長が、水産大学潜水部 13代の和久井俊夫君、書記が同じく13代の佐倉彰君だった。1968年結成時の参加大学は、法政、東京水産(海洋)中央大学、獨協大学、(東京商船)となっている。その獨協とは、なぜか、その発足時も、そして今までも、親しくなる機会が無かった。
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      手前 和久井君

 関東学生潜水連盟の発足した1968年の12月、学連の行事として行われた講演会で講演をしたりはしたが、学連としては、社会人の団体とは必要以上の強いコンタクトは持たない方針だったように思われる。それはそれで、一つの見識だし、立派なことだから、強く干渉するようなことはしなかった。
 1968 年、商船大学が死亡事故を起こす。当時日本潜水会は、事故を起こすとその詳細を報告書にして、世に発表することを要求していた。商船大学は、日本潜水会の主要メンバーであった、鈴木博(日本スキューバ)が関わっていて、遺体捜索にも関わっていたこともあり、この商船大学の事故も、報告書があり、そのあらましをブログに収録している。事故の歴史を書くうえで、そして、当時の学生のダイビングの様相を知る上でも、貴重な資料である。そして、伝聞によれば、この事故で東京商船大学潜水同好会は廃部になっていると聞いたが、その次の年、1969年10月に東京商船大学のプールで第一回の競技会が開催されたと、法政アクアの記念誌に記述があり、学連の50周年記念誌では、東京商船大学と早稲田大学水中クラブが、1969年に加盟したとある。
 学連の50周年記念誌では、1970年に学習院大学と立正大学が加盟し、第一回の学生潜水連盟の競技会が開催されたとある。
 関東では、大学のダイビング部活動が始まると学連に加盟することで、その存在が認可されるような風潮であった。
 混線しているが、1970年時点での加盟校は、法政、東京水産、独協、中央大学、早稲田大学 学習院大学,立正大学で、(商船大学)である。
  とにかく、東京商船大学ダイビング同好会は、このあたりで消滅している。その理由は、明確ではないが、やはり、死亡事故が原因だったのだと思う。
  1967年、日本潜水会が設立されたときのもっとも重要な主張は、そのころ全盛だったスピアフィッシングをやめて、水中撮影と、水中スポーツ競技の振興に全力をあげる、ということだったが、この主張は学生潜水連盟も同じだった。
 
 水中スポーツの項でも述べるが、競技会では若い関東学生潜水連盟が強く、特に法政が強かった。関東学生潜水連盟が主催する競技会も1968年の第一回より毎年開催されて、2018年まで、50年続いた。
 
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 もう一つ、東海大学の海洋探検部に触れておかなくてはならない。
 東海大学 海洋探検部、通称「カイタン」の創立は、1962か、1963だと思う。東亜潜水機に居た僕のところへカイタンを作った、初代が訪ねてきて長話しをした。古いことなので、名前を失念しているが、学生にしては、ずいぶんとしっかりした人と思った。すでに卒業されていた、OBだったかもしれない。
 それから後、たしか1968年か、1969年、僕が東亜潜水機を退職する2年前だから、1968年だろう、深田サルベージ(当時、日本最大のサルベージ会社)が、大学新卒をダイバーとして採用し、スクーバによる「深海潜水研究班」というのを作り、僕は1963年に100m潜水の実績があったので、その講師(コーチ)になって、教え、海に同行して、水深40mに潜っていた。そのメンバーは、潜水部の後輩の清水信夫君(後に海洋研究開発機構に出向して、シートピアでの現場責任者になる)横尾嘉明君、(やはり、海洋研究開発機構に出向して、シートピのアクアノートになり、水深30mでの居住実験メンバーになり、さらにその後、独立して 海洋計画という会社を作り、海洋研究開発機構の潜水講習を引き受けていて、最近まで、僕もお世話になっている)この二人は東京水産大学卒、僕の後輩だ。ただし、横尾君は潜水部ではなくて、空手部であり、この深海潜水研究班でダイビングを覚えた。後の二人が東海大学でカイタンの卒業生、そのうちの一人が岩城君だが、彼に聞いた、なぜカイタンが関東学生潜水連盟に入らなかったのか?と。「軟弱だったから」という答えが返ってきた。日本潜水会の悪しき?ハードなトレーニングの伝統を受け継いだ関東学生潜水連盟を軟弱だったという。カイタンは、死のしごきで勇名を馳せた。カイタンは、入部しても途中で、2年でやめてしまう、途中退部者が多かった。一年、二年とがんばって、3年になり、しごかれる側からしごく側に回るとやめてしまうのだ。なぜだろう。スガ・マリン・メカニックに入社した井上君もカイタン途中退部、河童隊のあの中川もカイタン途中退部だ。意外なことに、ゼロの五月女社長がカイタンを最後までやりとげている。最後の頃のカイタン卒業者の一員といえるだろう。
 そのカイタンの終末は謎だ。
 伊豆海洋公園は、東海大学の訓練センターになっていた。カイタンのホームも当然海洋公園だ。海洋公園のエントリーポイント、波が高い時には、隣の入り江からにエントリーする。日蓮上人をまな板岩と呼ぶ、岩の上で切り殺そうと送り出した、ので送り出しの入り江と呼んでいる。なお、日蓮上人は、首を落とそうとしたときに、一天にわかに掻き曇って、振り上げた刀に落雷し、天罰だと処刑がとりやめになった。そのことを縁起として祭ったのが、連着寺である。
 その送り出し入り江でカイタンはドラム缶で海底居住実験をやろうとした。そして、おそらく酸欠だろう、死亡事故が起こる。そして、それが直接原因でカイタンは、消失した、ということをそのころ僕は聞いた。
 NHKのカメラマン河野は、その事故の時に、学生に話を聞いたという。僕も海洋公園の友竹にその話を聞いたが、自分の目では確認していない。
 ところが、カイタンのおそらく最後のころのメンバーだった、ゼロの五月女さんに聞くと、「そんな話、あったかなあ。」中川も知らないと言う。仮にも死亡事故である。そのころのメンバーがよく知らないなんてことがあるだろうか?今、確認したくても、友竹も益田さんもいない。河野に聞いてみようと思っている。
 もしも、死亡事故があったのならば、商船大学の報告のように詳細でなくても良いから、概略は残しておく必要があると思う。せっかくの伝統があり、活躍している OBも多く、事故にしてもチャレンジの結果である。



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