1950年代の東京水産大学小湊実験場
真ん中の円形の建物が、一階は水族館、2階が僕らの実験実習室、左手が僕らの宿舎、右手の建物が先生たちの実験室。
中央に海に降りる,階段がある。
現在は千葉大学に移管されている。海に降りる階段は、昔のままだ。
小湊での合宿。第一日目、集合した日の午後だ。まずスキンダイビングで身体ならしをする。。 練習メニューは、まず、息こらえから始まる。そのころ、ダイビングの上手下手、危ないか大丈夫かを見分けるために、息をどのくらい長く止めて居られるかを一つの判断基準としていた。今でも悪くはないと思うけど、もちろん、やり方が問題だが。1958年、東京水産大学の潜水実習に参加できる基準をまず、息こらえ1分20秒としていた。 さきに述べたが、13代は、平均して2分以上、何人かは3分に達していた。みんな、息こらえの練習をしたものだ。大学3年のころ僕は井の頭線沿線に住んでいた。井の頭線は、駅と駅の間隔が狭い。発車してから、次の駅まで息をとめる。駅に停車している間に呼吸を整えて、次の駅まで息を止める。 ヘルメット式の時代から、ダイバーは、もしもの場合には息を止めている時間が長ければ長いだけ、生き延びるチャンスが大きいと思うから、息こらえの練習を欠かさなかった。 僕がコーチする潜水部の小湊での合宿、息こらえの練習など、スキンダイビングの練習は、宿舎の真ん前の入り江ではなくて、磯の間の水路を通って、隣の磯、ここは、宿舎の前よりも波が静かで、水深も2m前後で海底は平たんだ。宿舎の前は遠浅で、水深が2mほどになると、海藻が繁茂する良い磯場になっていて、ウエイトを落としたりすると、探すのに手間がかかる。 右手隣の入り江の真ん中あたりに錨をいれてサジッタをとめる。水深は2m、必ず二人一組、互いに向かい合うようにして、潜って、海底の海藻か石につかまって息こらえをする。上がってくるのがみんな早い。40秒もしないうちに頭をだしてくる。僕の頭中に、1分20秒が最低基準という固定観念がある。僕は怒鳴ったりはしない。船縁にみんなを集めて、「どうしたの、僕らの潜水実習参加基準は1分20秒、前の代は、みんな2分を超えたよ。潜水部だからね。一般の海洋実習の学生とはちがうのだ。」とそんな意味のことを言った。 みんな潜ったが、今度は、1分を超えた。そして、一人が、自分のバディが上がってこないという。すぐにみんな、誰ともなく潜って引き揚げてきた。身体は棒のように硬直して、顔は土気色、チアノーゼだ。もちろん、息はしていない。 「死んだ」と僕は思った。自分が死にそうになったことはあるけれど、こんな経験はない。何も考えず、よく、呼吸の有無をかくにんするとかなんとか講習では教えるけど、そんなこともしない。とにかく、とっさに、口をつけて顎をあげて息を吹き込んだ。 2回か3回吹き込んだ時、「うーっつ」とわめくようにして、身体を伸ばして、暴れ始めた。僕は引き揚げ、二人がかりで持ち上げて、サジッタに乗せた。ほほを叩いて、意識をもどそうとした。胸をかきむしるようにして苦しがる。二人係で押さえつけて、バディチェックで人数を確認してから、僕は櫓を漕いで、桟橋にむかった。
もしも、これがサジッタではなくて、その頃にはまだなかったが、シーカヤックだったら、どうだろうか。暴れる身体を確保することができただろうか。シーカヤックではなくて、一枚のボードだったらどうだろう、そして、そのボードもなかったとしたら。 大学の合宿だから人数もまとまっていた。もし、ディだけ二人だけだったらどうだろうか。暴れられたら支えられない。学生の頃、赤十字の安全救助法の講習を受けた。暴れたり、しがみつかれたりしたら、こっちの命が危ない。しがみつかれた手を、体を沈ませて空振りさせて、後ろに回って羽交い絞めにする練習などもした。 桟橋に着き、誰かが救急車を呼び、みんなで、風呂場でウエットスーツを脱がして、毛布にくるんだ。その頃には、意識もしっかりして、起き上がろうとする。もしも、水を飲んでいたら、肺に水を吸い込んでいたら、呼吸機能が減って、二次的な死の可能性があるということ、本で読んで知っていた。とにかく、元気になっても、動かしてはいけない。 救急車は、隣町の鴨川の亀田病院から来た。亀田病院は今では、減圧症の治療で名高く、鈴木先生がいたりするが、当時もそのあたりでは大病院ではあったが、救急車には、亀田医院長が直々で乗ってきた。そして、話すには、これまで何度となく溺水で救急車で運んだが、助かったという記憶がない。ほとんどが、死亡を確認するだけの仕事だった。助ってうれしいということだった。 診察するころには元気になって不通に話ができるようになっていたが、溺水の場合にはICUに入る規定になっているということで、一晩泊まり、僕は実習場にもどった。 合宿は、まだ始まっていない。どうしよう。続行か中止して解散か、その夜は、ミーティングを行った。 みんなには、自由に意見を言うようにさせた。批判的な意見を言う子もいたが、まずは無事でよかった。貴重な体験をしたという意見もあった。とにかく、合宿の続行は無理だった。僕が平静に指導ができるかどうかもわからない。鋼鉄の神経をもっているわけではないのだ。自分の神経は、ガラスのように壊れやすいという自覚がある。中止、解散として、翌日は、僕と、キャプテンの誰だったか,と亀田病院に迎えにいった。 僕の心配は、学校にように報告して、どのような結果になるかということであったが、何も事故が起こったわけではない。おぼれて救助して、病院に運送し、翌日退院だから不問ということになった。 事故を起こしたのは、栗原君で、話を聞いた。彼は、普通に2分以上息を止めていることができて、その年、第15代では潜る能力では、最右翼だということだった。ただ、この合宿にくるため、そしてその費用を捻出するために、冷蔵庫のアルバイトをしていて、睡眠不足状態だった。冷蔵庫というと、今では(行ってみたわけではないが)オートメ化されて大工場のようになっているが、当時は人力でほとんどの作業をやっていたので、重労働で名高いアルバイトだった。その代わりにギャラは良い。そのアルバイトをその日の朝までやって、そのまま汽車で小湊にやってきた。そして、午後一番の練習である。 そのような状況にあることを僕はしらなかった。コーチといっても、監督と言っても、それは意識の上でのことであり、実質、一人一人のことを何も知らないのだ。そんなことで責任を持てるわけのものではない。監督もコーチもできない。 そして、彼は自分の息こらえ能力、泳力には自信をもっていた。ブラックアウト(失神)するその時までは苦しくなったら浮上していたが、1分30秒と時間を切られて、まさか、自分がそんなに短い時間で浮上していたとは思わなかった。そして、腕にした時計を眺めていた。一分を超える時までは、文字盤が見えていた。そして、知らないうちに意識が消えていて、それから先何があったのか覚えていない。ただ、助けられて、舟に揚げられてからは、苦しく、痛かった。 そうなのだ。意識を失う時、その時のことは覚えていないのだ。人が眠りに落ち瞬間を自覚できないのとおなじであろう。
僕らの時代の舟着場
今、
海の中は昔とほとんど変わらない。
そして、今後のことだが、目標時間を設定した練習はするべきではない。その時の自分の限界を知ることはとても難しい。自分のその時の限界を超えてしまう。 そして、さらに、2mというのは深すぎる、背の立つ水深で行うべきだろう。 今のフリーダイビングのスタティック競技は、そんな形で組み立てられている。しかし、そうなるまでは、ずいぶんと様々なことがあり、もしかしたら、何人かは亡くなって今の形になったのだろう。 僕はジョテックで死亡事故を見ているのに、同じような練習をさせて、ブラックアウトさせている。前の事故から何も学んでいないのか?バディを厳守させたから、助かったのだから、経験を生かしたといえないこともないが、 今、僕は、辰巳の国際水泳場で、スキンダイビング練習会をしているが、居るのだ。一人できて、梯子につかまって息こらえ練習をしている人が、そして、それは大抵の場合、フリーダイビングを志しているひとだ。申し込みの注意に、一人では絶対に息こらえ練習をしないように、そして、水平25mを折り返さないようにと明記してあるが、だめなのだ、目についたら注意しているが、恐ろしい。僕が不運であれば、だれかがブラックアウトを起こすだろう。水深5mは十分に深い。と言って、レッスンだとして、号令をかけて目標設定をしたら、これもまた恐ろしい。 意識を失った栗原君のお父さんは、陸上自衛隊の幹部の方で、北海道に居られたのだが、息子が迷惑をかけたと丁重な詫びをおくってくれた。しかし、亡くなっていれば、どうだっただろう。 水産大学から海洋大学になり、50周年、60周年を迎え、OB会もでき、記念パーティも行われた。栗原君のその後は、やはり自衛官かもしれない。会って古い話をしたいが、50周年にも60周年にも顔をだしていない。 そして、50周年記念誌、60周年記念誌に15代の記述がない。やはり、あのブラックアウトが利いているのだろうか。ただ、この代の松野くんは、富山県黒部の漁協の組合長になっていて、上京したさいに、訪ねてきてくれた。