櫓を漕ぐ竹下徹先輩、一年上 今もお元気
サジッタとは、海に住む大型の肉食プランクトンである。 (https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/o7u1kr0000001asr.pdf ) ※上記 面白いので読んでください。
ジョテックは閉鎖になった。後始末をつけなければならない。 まず、せっかく来てくれた。集まってくれた受講生、長く、一緒にダイビングをしたい。それについては、ダイビングクラブをつくることにした。みんなで相談して名前を決めた。「レッドフィン・ダイビングクラブとした。大学を卒業する高橋君に引き続きめんどうをみてもらうことにした。高橋君には、スガ・マリンメカニックのリサーチ業務もてつだってもらうことにした。 吉川忠君は、キヌガワに入社してもらうようお願いした。吉川君は、僕らと一緒にレッドフィンをやれなかったことに不満があったかもしれないが、安定性ということでは、比べ物にならなく、キヌガワがいい。もしも、今まで、キヌガワにいてくれたら、たぶん重役になっていたと思うが退社してしまった。 あれやこれやで、忙しく、特に日本潜水会が発展的に解散して全日本潜水連盟になるのだが,これが大変、
そして、その全日本潜水連盟での沖縄海洋博行事の開催、食べるためには、カメラハウジングも売らなくてはならない。ハウジングは、スガ・マリンメカニックを構成する、島野製作所が作り、販売はスガ・マリンメカニックである。島野さんも食べなくてはならないので、スガ・マリンメカニックが売らなければ、他所にもっていってしまう。 忙しくしていることで、ジョテックが無くなってしまったあとの心の隙間を埋めていたのだが、やはり、ジョテックを継がなかったことが、こたえていた。 越路吹雪の歌「誰もいない海」が流行っていた。「今はもう、誰もいない海」 東京水産大学潜水部は? 第13代は、潜水部の事実上の監督だったのだが、そして、監督になりたかったのだが、潜水部などかまってはいられなかった。第14代は、ブランク、そして第15代、なぜか、忙しい中でぽっかりと穴が開いたような日、その日のことを今もよく覚えている。 千葉県、鎌ケ谷に住んでいたのだが、わりと大きな敷地を庭にしていて、庭をなんとなくながめていた。その時、頭の中で鳴っていたのが「今はもう、誰もいない海」電話がかかってきた。15代 潜水部の小湊合宿のコーチをしてくれないか、という依頼だった。僕の空虚な部分にぴったりとはまり込んだ。少しだけど時間の余裕も出てきている。引き受けた。「お金はいくらかかりますか?」僕にギャラを払うつもりなのだ。他人行儀というか、時代が変わったというか、僕の現役時代、先輩と一緒にいて、飲食、足代、すべて先輩持ちだった。その代わり、先輩のいうことは、まちがっていても正しい。しばらく考えて、交通費だけ持ってくれれば、ギャランティは不要と答えた。この子たちの監督をやったとして、いくらかかるのだろうと、こちらは持ち出せる費用を考えていた。 潜水部の合宿に限らず、僕は小湊でのダイビングでは、必ずサジッタを使う。サジッタは木製の小さな、それでも、6人は乗れる櫓漕ぎの小舟だ。そのころ、大学の臨海施設では、、例えば、下田の教育大学でも、水産大学でも、商船大学でも必ずこういう学生の遊び友達でもある櫓漕ぎの小舟があり、どこでも、その名前はサジッタだった。今の東京海洋大学の館山ステーションにも小舟があり、今では船外機付きだが、名前はサジッタだったはず。
船外機付きも良いけれど、それとは別に、やはり櫓漕ぎの小舟、サジッタが学生の友達としてほしい。船外機付きでは、実習場の技官が乗らなければ動かせない。学生が気軽に漕ぎ出すことはできない。シーカヤックはあるけれど、シーカヤックとサジッタでは、全く違う。その違いについては、後で述べるけれど、想像もつくと思う。 たしか、館山の隣、冨浦にある商船大学の臨海施設では、櫓漕の小舟が今もおいてあるはず。ただし、木製ではなくてFRPだ、ということだけど。 サジッタとは、大型のプランクトンで、矢のような形をしているので矢虫ともいう。櫓漕ぎの小舟は決して矢のように走るわけではないが、なかなか良いネーミングなので、各大学でまねをしてどこでも小舟はサジッタになったものだ。 小湊実習場のサジッタは古く、僕の学生時代に遊んでもらい、さかのぼって、何時からあるのか知らない。僕は、僕らは、この櫓漕ぎの小舟が好きで、時間があれば、櫓を漕いで遊んだ。実習場の対岸の小湊誕生時までも漕いで渡ったことがある。 櫓漕ぎの舟は、立って櫓を漕ぐから、ダイバーの出す泡を見ながら、追って漕ぐのにいい。
1953年、この小湊実習場に、アクアラングが紹介され、そしてそのすぐ次の年1954年、潜水実習中に二人の学生が事故で亡くなった。日本で初めてのアクアラング事故だ。その事故の時、サジッタが泡を追っていたら死亡事故にはならなかった。 これは、本当のことがどうかわからないが、恩師 宇野先生が、この事故の責任を問われて訴えられ、裁判になっていた。その裁判で問題になったことの一つが、上に小舟が居なかったことなのだと、先生が言っていた。結局、そのことで、有罪にはならなかった。「疑わしきは罰せずだよ」と先生は言っておられた。 しかし、この日本初のスクーバダイビング事故がたいへんな問題を内在させていたのだ。裁判は、判例が大きな意味がある。スクーバ事故で、もしも小舟が上にいたいことが瑕疵になるという判決が降りていたならば、ビーチエントリーは認められなくなる。そしてまた、その後いくつか、数えられないほどのスクーバダイビング事故が、上に小舟がいたら救助されていたにちがいない。 スクーバ、セルフコンティンドの根源の問題である。 この1954年の事故から、僕は、そこに小舟、サジッタの類が使える状態であったならば、必ずそれを使うことにした。使える状態にある、ということが、大変なのだが、今の海洋大学の館山ステーションには櫓漕ぎのサジッタはない。サジッタは、学生が手軽には使えない船外機付きのボートになっている。 とにかく、僕は櫓漕ぎのサジッタが実習場にあった時代、必ずサジッタを自分が漕いで、学生に随伴した。やってみるとわかるけど、シーカヤックでもゴムボートでも、ダイバーの泡は追えない。立って漕ぐ櫓漕ぎでなければいけないのだ。立って扱うことができる船外機ならばいいが、船外機のスクリューは、ダイバーを傷つけるおそれがある。 小湊での合宿。第一日目、集合した日の午後だ。まずスキンダイビングで身体ならしをする。僕がコーチする潜水部の小湊での合宿は、宿舎の真ん前の入り江ではなくて、磯の間の水路を通って、隣の磯、ここは、宿舎の前よりも波が静かで、水深も2m前後で海底は平たんだ。 、