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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0124 ダイビングの歴史 104 JOTEC(2)

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 スナックとの間のガラス窓 背中に付けているのはフーカーでタンクを背負わずに潜ることができる、指導員はフーカーで潜った、


 1970年の日本は、大阪で万国博覧会が開催されて浮かれていたが、1971年はその反動か一転して不景気モードになり、銀行はお金を貸さなくなった。二井社長は、自分が持っていた土地を担保にして、プール敷地の地所を買い。それを担保にして建物、プールを建てるという計画だったが、当てにしていた銀行が融資してくれない。建設途中で資金が尽きて、建設業者が立て替えてようやく完成した。

 設計段階では、入っていた監視用のテレビカメラも省略された。
 日本で初の本格的ダイビングプールは、まだ時代が早かったのか、事業計画が甘かったのか、その両方だったのだろう。
 発足と同時に資金繰りが苦しくなった。給料がもらえないのだ。
 みんなで手分けして駅でビラ配りなどもして、100人近くの講習生を集めた。頑張ったと思うが、100人の会費で、水深10mのダイビングプールが維持できるはずがない。がとにかく講習が始まった。
 多分、社長になった二井さんは、自分が全財産を投じたのだから、僕らも全てをジョテックにかけて、働いてくれるものだと思ったのだろう。ジョテックの仕事範囲に、僕のやっていリサーチの仕事も、日本スクーバの鈴木のダイビングショップも、ウエットスーツの製造販売も、島野のカメラハウジングの製作もすべて一元化してジョテックの中に入り、その本拠としてダイビングプールのある、そして、喫茶ルームもある建物を本社とするという構想だったのだろう。しかし、ダイバーという種族は、そうゆう風には働かない。僕は、講習とツアーだけ、島野と鈴木はアドバイザーであり、このジョテックを根城にして、自分のビジネスの展開はするが、ジョテックの社員としては働かない。
 講習とツアーの担当として、グライダーを作った潜水部13期の高橋実と吉川忠をスカウトした。まだ、4年次であり、在学中だが、その頃、大学は学園紛争で、ほとんど授業がなかった。
 その頃の大学紛争のテーマ、理由はよくわからない。よくわからないけど、いくつかの理由のうちの一つは、産学協同に反対するというのがあった。産業界と協同しては、学園の自由が阻害される。産業に支配されるということに反対なのだ。いまや、産学連携は、大学の旗印の一つだ。振り返れば、ばかばかしいことで、紛争で授業が行われなかった。
 バカバカしいけれど、良き時代だったのかもしれない。そのような時代背景の中で、関東学生潜水連盟は誕生する。社会人のダイビング指導団体と一線を画した理由の一つだったのだろうと思う。とにかく授業のない高橋と吉川は、日本潜水会の指導員になり、ジョテックでの講習のインストラクターとなった。アルバイトというより、とにかく一緒にやろう。そんな感じだった。
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 僕は、誰の見張りもなく、お客さんだけがプールに入って泳ぐことなどは、考えもしなかった。大学時代からの僕のダイビングキャリアで、危なかったのは、たいてい一人になったときだった。しかし、経営の苦しいジョテックでは、一人のお客も欲しい。給料などは、あってもないような状態になった。上手な人、常連だったならば、良いのではないか、と考えて当然、僕は教習所の責任者だったから、僕の目の届くところ、自分の指揮下では、お客を一人にすることはなかった。しかし、自分のスタッフ、自分が一人でプールに入ることはあった。そして、自分には自分のまた別のダイビングの仕事がある。常駐しているわけではなく、留守の方が多かった。
 インストラクターの一人、高橋実は、息を止めていられる時間が長かった。3分は止めていられる。今はフリーダイビングでの競技があるから、6分だとか、5分だとか普通になっているが、その頃、1970年の3分は長かった。潜っていって、5mのプールの底に息を止めて腹ばいになる。1分でも見ているだけならば長く感じる。1分が2分になり、3分になると、もうそこに誰かが潜って息を止めていることなど、忘れている。忘れたころに、おもむろに身体を起こして、浮き上がってくる。
 やっている本人も得意になっている部分が当然あっただろう。サーカスを見せているような、感じでもあった。
 その日は、吉川忠が講習を担当していた。
 何人かの講習生にスクーバを着けさせて水深10mに潜っていた。水深10mのプールの底からは5mのプールは見えない。喫茶室の覗き窓からは、10mの部分は見えるが、5mの底は見えない。吉川たちは、練習を終了して浮上する途中5mのプール底で、うつぶせになって動かないダイバーを見つけた。直ちに引き揚げて救急蘇生法を施したが蘇生しなかった。
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 その頃、僕は千葉県の鎌ヶ谷に住んでいた。川崎とは、ずいぶん離れている。知らせを受けてすぐに走った。
 警察に行くと、二井社長が肩をおとして椅子に座っていた。「今は吉川君が事情を聴かれているところ、さっき私も聞かれたけれど特になにも・・・・」やがて、吉川が取調室から出てきた。事情をきかれただけだったという。僕は現場にいなかったので、何も聴かれることはなかった。
 亡くなった若者は、ダイビングプールの近くのアパートに住んでいた。外付けの鉄の階段を上がった2階の一室、せまい1DKに棺が置かれ、潜り仲間が集まり、壁に寄りかかって座っている。棺の前で、女の子が泣き伏している。聴けば、このグループは、江東区の大野さんのグループだとか、大野さんは親しく知っている人で、その場であいさつされた。しかし、僕は、大野さんのグループがジョテックに来ていることをそれまで知らない。知らされていない。多分、ぼくのところに訪ねて来たのだろうが、僕は常駐していない。そして報告がなかった。報告があったとして、この練習を止めただろうか。高橋がやるのを止めないのだから、止めなかったと思う。逆に、知らないでいたことが、自分の責任が軽減したように感じていたかもしれない。なお、大野さんは、OKアクアラングの土山さんが売り出した、OKガンの製作者だであり、本人もスピアハンターだった。だから、息こらえの練習をすることは、当然である。
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 目に入った魚は何でも突いていた。持ち上げているのはオオセ、日本潜水会は、1967年から魚突きは、やめて居た。



 若者は、奄美大島の出身で、東京に出てきて職に就いたが、ダイビングの指導者になって故郷に戻ろうと練習していた。高橋が、プールの底に伏して息こらえの練習をしている姿を見て、同じ練習を始めたものだった。もしも、生きて奄美大島にもどって、ダイビングサービスを始めたら、奄美大島での草分けになったことだろう。
 今、スタティックアプネアがあり、そのルールから見れば、なんということを、と言われるだろう。しかし、ジャック・マイヨールが富戸で76m潜り記録を更新したのが、この年1970年だ。そして、マイヨールは、坐禅を組んで息こらえをしている。、まだアプネア競技は生まれていない。この練習を止めるべき理由はない。ただ、誰も見ていない。一人での練習が問題である。まだ、このことの責任をジョテックに追及する世の中ではない。息こらえの練習をしたのは、当人であり、だれもそれを命じたわけのものではない。
 
 二井社長は、若者の死に大きな衝撃を受け、自分がこんなプールを作ったために、事故が起こったと思い込んだ。繊細な人だったのだ。それに資金の逼迫が重なり、経営意欲を失った。僕が施設を買い取って事業を引き継ぐ話がもちあがった。当時、自分の持っている、親から譲り受けた不動産を処分してもまだ足りないけれど、みんなが支援してくれれば、なんとかならないこともない。考え抜いた。連れてきた、卒業寸前の二人のこともある。
ジョテックに専務として就任してきた、スイミングスクール経営の経験のある征矢さんというかたも、経営は見てくれるという。日本潜水会の本部にすれば、形が整うし、プールの使用者も増えるだろう。

 人生の、そして,日本潜水会の岐路だった。結論として、お金の不足額が大きすぎた。ダイバーの本能は、生還の余地をいつも残して行動する。2020年の今現在でも、これを書きながら、あの結論が正しかったのかどうかわからない。多分、残念ながら失敗したと思う。日本潜水会の本部にすれば、機材販売の大型ショップにはなれないだろう。これはまた、日本の指導団体の歴史のところで述べるが、ビジネスとして成功する体質をもっていないのだ。ビジネスとして成功しなければ、生き残れない? 生き残れたかもしれないと思ったりする。未練だ。。
 そして、1974年、新宿にDOスポーツプラザ、新宿に海ができたが、現在は残っていない。

 ジョテックは閉鎖され、土地と建物は売り払われ、日本で初の本格的ダイビングプールは埋められた。
 
 残念なことに、この時のこのプールの外観の写真が手元に残っていない。プールの水中の写真が何枚かある。ここに乗せた。、そして
 一葉のパンフレット、チラシが残っている。
 

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