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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0123 ダイビングの歴史 103 JOTEC (1)

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               箱根小涌園プールでバディフリージング

 ダイビングの世界は、何かというと「安全潜水」という言葉が出てくる。ダイビングが安全であるという言葉ではなくて、「安全に潜水しましょうね」と言う意味だとおもう。安全に潜水するためには、事故が発生した場合、真剣に検討し分析して、どうしてその事故が起こったのかを究明し、同じパターンでの事故を起こさないようにすることが、なによりも優先させるべきことであろう。
 1960年代から1970年代前半、僕はかかわっていた日本潜水会、全日本潜水連盟で、事故の当事者は、詳細な事故報告書を作成して提出することが、義務の一つだと提言し、そのようになるよう努力した。ダイビング人口も少なかったので、死亡事故の概ねは事故報告書を書いてもらうことができた。できることならば、それを雑誌などにも公開することも提言したが、これは、受け入れられなかった。
 山岳、登山は、ダイビングと同様自然を対象とする活動であるが、重要と思われる事故の多くについて公表され、議論も交わされている。登山の危険度は、ダイビングよりも高く、もしも、自分が登山家であったならば、生きている可能性は低かったとおもう。しかも、不可抗力と思われる事態も少なくない。ダイビングの事故は、登山の事故に比べれば、起こる可能性は低く、そしてケアレスなミスによるものが多い。事故報告がつくられ、公開されれば、さらに事故は少なくなると思われるのだが、事故当時者による報告書が作られることは、1980年以降、現在の形のダイビング業界が成立してから、ほとんど見られなくなっている。
 といっても、僕は、現在、現状のダイビング業界に包含されているのであるから、その根幹について反対するものではない。
 事故例について、中田誠さんが、多数、発表していて、参考にしているが、商品スポーツという視点からの業界批判であり、自己責任を否定している。商品スポーツという見地から、賠償責任を追及する訴訟においては、自己責任の否定は当然であるが、訴訟、裁判のすべては、遺族対賠償責任者との争いであり、命を失ってしまった死者とは、関わりはない。自己責任を否定しても、命はもどらないのだから、自分の命は自分の責任で保持しなくてはならない。
 なお、関係者による事故報告書が作成されなくなった理由は、事故報告は、過失を認めて反省する部分が多くなるから、賠償責任を追及する法廷での争いでそれを書いた関係者が不利になる、あるいは妨げになる可能性が高いからでもあった。
 自分がダイビングについて書こうとするとき、あるいは自分のダイビングにおいて、1960年代に書いてもらった事故報告はずいぶんと参考になっている。ここで、全てを公開することは、やはり、出来ないが。自分がかかわった事故についての報告ならば書くことができる。
 話がだいぶ横にそれてしまった。テーマは学生のダイビングである。商品スポーツとしての学生クラブのダイビングも存在するが、商品ではない学生ダイビングとの境界は微妙であり、学生の活動と商品スポーツとの関わりには、幾つかのパターンが考えられる。少しだけ、前に書いているけれど、重要な課題であり、後述することにする。
 
 ここで、書こうとしているのは、自分が関わった事故の報告であり、事故の反省が分析され流通していなかったために事故が繰り返されたこと、あるいは、その逆に事故の記憶が参考になって、事故の被害が軽減されたこと、また、これからの事故発生が防げる可能性について述べる。答えは実にシンプルで、自分ならば、そんな馬鹿なことはしないと考えてはいけない、それの思い上がりが事故に直結する。また、自分は真摯に注意していても、自分の周囲のスタッフ、あるいは組織、責任体制には注意は行き届かず、事故が発生する。  
 話をもどして、ここでは、1968年、50年ほど前、関東学生潜水連盟が結成された頃のことを書いている。
 参考までにそのころ自分が何をしていたか、自分の年表をここに示す。事故と、事故当時者が、その時置かれていた状況、環境とは、密接にかかわる。年表、すなわち、自分が置かれていた立場、環境である。
 1959 東亜潜水機入社 10月
 1961 自社のレギュレーター TOA SCUBA 設計製作
 1962 読売ランド水中バレー竜宮城がオープン、呼吸器の設計製作と、潜水技術指導、初代の舞台監督に就任(東亜潜水機に在籍していて、パートタイマーであるが)
  須賀潮美誕生
 1963 8月9日 館山湾で舘石さんと90m潜水
 1965 フィルモ35mmシネハウジング製作 海の若大将撮影に使った。
   撮影そのものにはかかわらなかった、
 1966 2月 全日空羽田沖墜落:現場水中撮影
  7月 アクアラング潜水 浅見国治と共著 出版
 1967 フィルモ DR70 16mmシネ ハウジング製作 販売
  上記フィルモで 摩周湖水中撮影 日本テレビ番組で放映
  12月 日本潜水会誕生
 1969 東亜潜水機退社 スガ・マリン・メカニック創立
 1972 水中写真の撮影 小池康之と共著
       全日本潜水連盟結成

 1975 沖縄海洋博 公式行事として全日本潜水連盟でダイバーフェスティバル実行
 1976 スポーツダイビング入門 竜崎秀夫と共著
      大磯で人工魚礁オリンピック 調査を担当する。
 この全力疾走の最中での東京水産大学潜水部との付き合いがあり、指導であった。
 
 ジョテックの建設
 スガ・マリン・メカニックは、メカニックという名称にあるように、ダイビングに関わる諸々の道具、メカを作ることを主な目標にしたもので。その中心はやはり、カメラハウジングであった。

 しかし、それだけでは食べて行かれない。また、独立した目的は、ダイビングを自由にやりたい、ダイビングを実際にやる、潜るということであれば、何でもやりたい。そして、そのために必要な道具は自分で作るというコンセプトであった。
 また、ダイビング技術の指導を指導する組織の全国統一をしたいということも目標であった。
 スガ・マリン・メカニックは、自分と、カメラハウジングなどを作る島野製作所、そして、当時は、ダイビングショップとウエットスーツの製作をしていた日本スキューバ(現在はダイビング工事会社と、そして、ドライスーツで成功しているゼロの母胎である。)三者の協力で設立した。成功の暁には分裂必至、いや、だからこそ、最初から分裂した形で協力を続けて行こうとした会社であった。、その意味では葛藤はあったが、最後まで、島野が亡くなるまで協力は貫いたから、この時代を生き抜く上では、成功したと言える。
 そんなスガ・マリン・メカニックグループに、日本初のダイビングトレーニングプール、ダイビング教習所の話が持ち込まれた。
 川崎、新丸子にある大きな家電小売り店のオーナー、二井さんが、ダイビングの練習専用プールを作り、教習所のようなものを作りたいと相談に見えた。それまで、全然付き合いのなかった方で、ご自分がダイビングをする訳ではなかった。泳ぐこともしなかった。それがなぜこんなことをはじめようとしたのかわからない。多分、自分がやることは、すべて成功させるノウハウを持っていると、信じている人だったのだと思う。事実、家電販売では成功を収めていて、ダイビングなどに関わらなければ、ヤマダ電機ほどの会社になったかもしれない。そして、元気でおられるならば、今も、日本のどこかで、そこそこの小売り業を成功させているに違いない。
 成功されておいでならば、これを見て、お便りをいただけるかもしれない。
 その二井さんの相談に、僕は直ちに、ほとんど何も考えずに乗り気になり、かねてから理想にしていたダイビングプール構想を話した。
 大きさは縦15m、横10m、水深は10mと5mの二段階で、壁面には大きなのぞき窓を作り、窓の外側からプールの中で練習するダイバーの姿が見える喫茶室を造る。潜っている人と、ボディランゲージで話をすることもできる。
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※流れるプールは作らなかった。
  話はんとん拍子に進み、二井さんの会社がプールを経営し、僕たちは講習やツアーなどを請け負うことになった。1970年5月、日本海洋技術開発株式会社、(Japan Ocean Technical Exploitation Co,Ltd) 略称 JOTEC ジョテックを設立し、プール建設を開始した。


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