1月15日、辰巳プールの練習会に行った時、集合しているテーブルに辰巳水泳場事務所の横山さんが来て、僕宛の封書があると持ってきてくれた。どういう経路で、僕宛のものが横山さんのところに行くことになったのかわからない。封書の宛名の部分に須賀の名前はない。封も切っていなかったから、おそらく、メールなどの別の往復があって、封書が送られてきたのだろう。
差出人は野尻紀美子さん、住所は山形県だ。全然心当たりがない。封を切ってみると、1968 年の雑誌「ブルーゾーン」の第2号が入っていた。
あっ、あの野尻さんだ。ブルーゾーン、日本初のダイビング専門誌を出した野尻純康さんだ。同封の手紙を読むとやはり、野尻さんの奥さんで、野尻さんは2004年 2月に急性の癌で急死された。66歳だったという。それまでは、タフに仕事をされていたとか。
僕がブログに「ブルーゾーン」のことを書き、三冊だけ出たこの雑誌の第2号を持っていないと書いたので、送ってくれたものだった。
奥さんはネットサーフィンをしていて、野尻という名前から、僕のブログに行き着いて、それを読まれたとのこと。
このことは、フリッパーレース、日本のスポーツダイビングの歴史を書くときにもう一度、やや詳しく書くつもりでいるが、とりあえず、奥さんへの返信のつもりで、このブログを書いている。野尻さんは、少しばかり、それでも1ー2年はやったのだろう、ダイビングをやって、ただそれだけで、ダイビングの雑誌を出そうと決意した。なぜ?亡くなったのが2004年66歳だから、逆算すると30歳の時だ。
そのころ1965年から、1975年の沖縄海洋博あたりまで、海、ぼくらが潜れる、潜っている海には夢があふれていた。海が好きな人たちは、それぞれの場所で、それぞれの視点(このごろ、この言葉ばかり使っているが)で、海に、海に潜ることに夢を追った。海底ハウスの田中さんもそうだし、今、書きかけている、日本初の屋内ダイビング専用プール、ジョテックを造った、そして失敗した二井さんもそうだ。もちろん、僕も後藤道夫も、一緒にスガ・マリン・メカニックをやった日本スキューバの鈴木博も、キヌガワを作った杉田さんも、だれもかれも、みんなだ。みんな海へと夢を求めて踏み込んだ。今、ダイビング業界を形成しているあの人も、この人も。
人類の発生、人類が今の姿になるのは、アフリカの浅い海だったというアクア説もある。その説が本当ならば(本当とは思えないけど)みんな海へ還ろうとしたわけだ。
「海へ」と目指した人たちは、10年ほど早くダイビングをはじめただけの、今考えるとほんのタッチの差にしかすぎないが先行した僕たち、10代からダイビングをはじめた、世の中まるで未経験の若者たちに相談を持ちかけた。僕も後藤道夫もクールにわかっている、つもりだったから、「おやめなさい」と忠告した。僕らの忠告を無視して成功した人たちもいる。失敗した人たちもいる。野尻君は失敗組だった。彼の能力が少なかったからではない。足場固めが出来ていないで突進した結果であり、それはそれで、すばらしいことだったと今は思う。
NAUIの田口君にも相談をもちかけていて、僕は「ブルーゾーン」の創刊号の原稿をずいぶんと書いて、第二号は、田口君がたくさん書いてる。僕は書いていない。だから、僕は第二号を持っていなかったのかな?
そして、第三号だ。野尻さんはスポンサーにロレックス時計を引っかけてきた。そして、僕たちが伊豆海洋公園でやっていたフリッパーレースと結びつけ、全国大会として、優勝チームには、金メッキのロレックスカップと、そして、各競技の優勝者に副賞としてロレックス時計を出してくれて、北は北海道から、南は九州まで、全国大会として、出場する選手たちの交通費まで出してくれることになった。全国大会といっても、交通宿泊費が出なければ誰も来られない。
優勝チームの監督は益田一さん(真ん中)
左側、2位は鈴木勇、鎌倉橋で「いさみ寿司」をやっていた。
右側は、大崎映晋さん。
ブルーゾーン第三号は、ロレックスカップ特集だった。これは、競技の記録として、貴重なものだし、懐かしい、その時の顔が並んでいる。なぜか、僕の顔はチラリとだけだ。
そして、ブルーゾーンは、三号で消える。
僕もあんまり酒が好きではないし、後藤道夫は下戸だ。それでも一夜、野尻の愚痴をきく酒を飲んだ。
お金さえあれば、という、ぼくらが聞いても、どうにもならない愚痴だった。
その後野尻君が、どういう風に生きたのか、知らなくていい。彼が、ブルーゾーンを作ったとき、精一杯チャレンジャーだったことはまちがいない。ぼくらはみんな、海へ!のチャレンジャーだった。その証として、「ブルーゾーン」はある。日本で初のダイビング専門誌であり、僕らのダイビング競技の頂点、ロレックス大会は、彼がいなかったら出来なかった。
それから、7年後1975年、沖縄海洋博で、ロレックスがスポンサーで国際規模のダイビング・スポーツフェスティバルが、開かれるが、ブルーゾーンはない。さらに、その後伊豆海洋公園でのロレックスカップ競技会が何回か続き、やがて、ロレックスカップは、海洋フリッパーレースのカップになったが、これは、一つの事故まがいがあり、そして、ロレックスは、水中スポーツを育てるという役割は、果たしたとして、スポンサーから降りた。そのことも競技の歴史で書くけれど、ロレックスカップ海洋フリッパーレースは、伝説となり、今は、競技ではなく、「海を泳ぐ会」として残っている。
今年で26回を迎えた全日本水中スポーツ室内選手権大会は、1969年のロレックスの大会以来で数えれば、49回になる。途中抜けている年もあるので、よくわからないが、来年は50周年になる。