背景白い ヒメホウキムシ
ここまで船の科学館が、事務局を引き受けてくれていたのだが。何かの理由で、僕らのような、得体の知れないグループのグランドサービスを船の科学館が引き受けているのは不適切という意見がどこからか出てきたらしく、できないと言うことになった。ただし、羊蹄丸のポンツーンはこれまで通りに、使わせてあげるし、できることはしてくれる。
おりしも、2010年僕らは特定非営利法人の日本水中科学協会を立ち上げていた。日本水中科学協会が船の科学館に代わってお世話をすることになった。
風呂田先生たちも日本水中科学協会に加入していただけないかと打診したが、東邦大学の東京湾生態系研究センターという組織を作っているので、日本水中科学協会とは協力するが、加入することはできない。ということになり、申請など、これまで船の科学館が代行してくれていた事務局機能は、日本水中科学協会が、研究は東邦大学と日本水中科学協会メンバーの両者が協力して行うと言うことになった。
そして、2011年3月 東北大震災が起こる。
なぜか、大震災を機縁にして、研究調査は月例でおこなうことになった。第70回 2011年3月27日からのことである。
2012年、3月、お台場に人工浅場という名称の人工礁が枕設されることになった。
浅場とは、岸の岩礁に続いて、その延長のような磯を意味する。
そして、そのころから、漁港の堤防囲いの内側に、人工魚礁構築物を入れて、その海域を稚魚が育っていくような有効利用をしようという計画ができあがりつつあった。その漁港内に入れる小さな魚礁も人工浅場である。つまり、水深3m未満の浅いところにおく魚礁が人工浅場である。ぼくらは、めんどうだから、一括して人工魚礁と呼んでしまっているが、設置する場所によって呼び名が変わるのだ。
なぜ、こんな人工魚礁をお台場に設置するのか。かつて、このあたり、江戸前は、魚もおおく、牡蠣もとれ、周辺部岸近くは干潟、芦原で豊かな海だった。都市化、工業地帯化で、その豊かさは消えた。ゴミ捨ての「夢の島」など人工島は、今も拡張している。人工島の岸には、浅場をつくらなければならない。港湾局には、東京港を魚の住む、江戸前の海を復活させ、維持する義務、仕事がある。
月例の潜水で調査して報告を港湾局に上げよう。
ここで、僕らの潜る、お台場の海、について説明しよう。図を見てみよう。図1;海図・図2案内図、そして図3グーグルマップ。
お台場は東京の中心、高層ビルの真ん中にあり、海の終点、あとひと泳ぎすれば、隅田川だ。 変則的な方形で、右半分は四角形とみる。四角形の右隅が僕らの調査定点である。
夏になると表層の水温は27ー28度、場合によっては30度になる。お台場は、基本的に波がなく、流れは、潮の満ち干による水の移動だけで、強い流はない。熱い水は表層を動かない。対流は起こらない。都市の水は、排水が混じるので、富栄養でありプランクトンが多量に発生している。プランクトンは酸素を消費するので、動かない水、新しい水の参入がない底層は、無酸素状態になり嫌気性菌が繁殖し硫化水素が発生する。硫化水素は、猛毒であるといわれるが、底層の水は、表層の温度の高い水を移動させなければ、表層にはあがってこない。
お台場のヘドロの上には、硫化水素を同化している硫黄細菌が発生、繁殖してカサブタのようになっている。最近東京には、下水網が整備され、ドブ川が見られなくなったが、ドブ川の底ではこの硫黄細菌がよく見られた。お台場の海底、底層、夏期はドブのようなものなのだ。
1950ー1970年代、中心のヘドロ部分だけみて、お台場はドブだと言われた。
お台場の中心部はヘドロだが、その周辺、岸近く、僕らが潜水する部分は浅場であり、湧水もあり、きれいだ。右側の辺は、人工砂浜であり、都民の海水浴場にしようと、港区はがんばっており、毎年、期間限定であり、条件付きだが、今年はお台場プラージュというタイトルで水遊びに開放された。プラージュとは、よくわからないが、パリのセーヌ川でもおなじような行事が行われていて、そのタイトルだとか。
人工浅場は、僕らの磯、浅場を拡張するように設置された。図、参照。
設置された人工浅場は、棚が2段のもの(高さ1m)と3段のもの( 2 m)である、高いものは、上を船舶が通ると危険なので、竹竿、赤旗がたててある。
3月に枕設して、4月には早くもメバルの稚魚が群れていた。このような人工魚礁の設置を待ちかねていたようだった。
そして、僕ら、東京港水中生物研究会にとっても悲劇が襲う。
船の科学館が東北大震災の振動で耐震性に問題が発生して、休館になってしまったのだ。職員の大部分も解雇になり、ポンツーンも維持できなくなるので、使えなくなる。羊蹄丸脇は潜れなくなってしまった。
双発の飛行機が片肺になったような気分だった。あまり離れていないのに、二つの異なった環境で午前、午後に分けて潜れることが、大きな効果を上げていたのに、また、後述するが、僕らはこのポンツーンでいくつかの実験をしようとしていた。
それが失われてしまった。
時間の経過とともに、お台場の人工浅場は、自重によって次第に泥の中に沈み込んでいく。
そして、お台場に青潮が襲来する。
東京湾は第二次大戦後、岸辺の干潟を埋めて工業地帯を作るため、海底を掘って土砂を穫ったその深い掘り後の穴は、水の出入りがない。
すでに述べたように、夏期東京湾ほ赤潮が発生する。深い穴の中の海底は、お台場と同様に、水面と海底の温度差のため対流が起こらず、無酸素状態になる。穴の中も波浪、潮流による水の入れ替えがおこらないために、完全な無酸素状態が続く。お台場の中心部ヘドロ域と同じ状態になるのだ。
先に述べた、硫化水素発生が、より大規模になっているわけだ。
夏の終わりから秋にかけて、風が吹き、表層の水が移動すると、掘り後の穴の中の無酸素水が浮き上がってくる。硫化水素が水面に上がると酸化されて、海面が乳白色、乳青色になる。これが青潮である。青潮も風に流されて移動し、お台場にもくることがある。
毎年多少の青潮は発生するのだが、大規模にならないと湾の奥のお台場までは来ない。
経験的に5ー6年に一度ぐらい、大規模な青潮がくる。
12年9月、東京内湾が大規模な青潮になり、お台場にまで襲来し、魚の類、カニなどの甲殻類はすべて消えた。死滅したのか、逃げたのかはわからないが、すぐ10月に青潮が去ると、魚が戻ってきたことから、逃げたのだろうと想定する。
図らずも青潮の中に潜るという経験をすることができた。
青く澄んでいるわけではないが、赤潮のような濁りはない。少し硫化水素の匂い、どぶ泥のような匂いがする。岩に付着しているカメノテが必死になっているように触手を動かしている。生きているもの、動いているものはそれだけだった。身体が臭くなったが、僕ら人体には害はなかった。
逃げることができない二枚貝、ホンビノスは、苦しがって砂の中から出てくる。僕らが潜ったのは9月30日だが、ちょうど青潮が来て、ホンビノスが死にかけ、あるいは死んで、砂から出てきている時だった。砂地一面が死にかけのホンビノスだ。ここに、こんなにたくさんのホンビノスが潜っていたのかと驚かされる数だった。死屍累々とは、このことなのかとおもうほどだった。
しかし、なぜか死んだホンビノスは大型の成貝だけだったらしく、稚貝は生き残り、稚貝が成長して、2014年には元通りの量に復活したようだ。
10月に僕らが潜ったのは28日、青潮は去り、水はきれいに、透視度は2mぐらいになった。2mといえば、お台場では最高の透視度だが、驚いたことに、メバルや、シマイサキの稚魚が戻ってきて、浅場魚礁の中に群れていた。
魚礁は、次第に沈んでいくのだがある線まで行くと止まり、安定する。お台場の人工浅場も三段のものは、下の一段が埋まって、2段になって安定した。
冬になって、魚は居なくなったが、来年が楽しみと思っていたら、3月には撤去されてしまった。1年だけの研究テストだったのだ。
研究の成果を基に次の展開ということもない。何だったのだろう。僕らが毎月撮った映像だけが成果?だったかもしれない。