話が少し前後してしまうが、1996年、お台場のクリーンアップを始めたとき(僕らの潜水調査は1995年の記録もあるが、クリーンアップは1996年から)お台場のゴミの状況はどうだったのだろうか。
クリーンアップをする位置は、僕らが前から潜ってた場所で、お台場北駐車場の前、ちょうどコーナーになっていて、流れの収斂する、ゴミのあつまりやすいと想定した場所である。
にもかかわrず、クリーンアップの成果は芳しくない。濁っていて、見えないと言うか多数のダイバーが入るので、水をかき回し、ただでさえ濁っているところを視界ゼロにしてしまう。
それでも、以後僕らの調査の時にもゴミを拾うし、クリーンアップも2019年、20年以上やれば、ゴミはとりつくして、ほとんどない。それでも、数日前に捨てられたようなゴミとか、下水と一緒に流れてきたゴム製品など、かなりの成果はあるのだが、でも、大型のゴミは殆ど見られなくなった。
しかし、その大型ゴミが、魚やカニの隠れ場、魚礁になっているのだ。
大型のゴミが海底に落ちると、たちまち、付着生物、お台場ではユウレイボヤ、カタユウレイボヤと呼ばれる、筒型の半透明なホヤである。
ユウレイボヤの付いた大型のゴミは、まさしく小さい魚礁である。メバルの2ー3cm級の稚魚が集まっている。大型のバケツのようなゴミは、チチュウカイミドリガニの隠れ場になっていた。
これら大型のゴミを一掃したら、魚やカニの住処がなくなるのではないか?
しかし、ゴミはゴミであり、一掃(クリーンアップ)されなくては、ならない。
幸い、お台場の、北駐車場からお台場史跡に至る通路の岸は、崩れた石垣のような転石が磯場を作っている。
お台場の石垣の岸には、貯木場であった頃の舟着き場、桟橋の名残と思われる杭の並びが海底に沈んでいて、それが、魚礁の役割を果たしている。
1996年1997年頃は、転石の浅場の先海底、水深2mあたりは、一面のムラサキイガイが、一面に覆い尽くしていた。それが、現在はマガキが覆っている。元来このあたり、江戸前は牡蠣の産地であったのだが、それが、外来種のムラサキイガイに場所をとられて、それがまた、失地回復でマガキが取り戻したのだろうか。いま、2014年以降、外来種のチチュウカイミドリガニが、消えて、在来種のイシガニにが殖えているように。
魚礁については、2012年にまた述べるが、とりあえず1996ー97年頃のお台場の海底状況について、のべた。
左手が羊蹄丸
2002年8月、新しい展開で、僕らは船の科学館に潜るようになった。
船の科学館の前の海は、ふ頭になっていて、帆船の海王丸が泊まったり、水産庁の観測船が泊まったりしていた。船の科学館の展示として、初代難局観測船「宗谷」そして、その対岸には青函連絡船「羊蹄丸」が、係留されていて、その羊蹄丸の船尾付近に、船の科学館の海洋実習基地ポンツーンがあった。船の科学館では、ここに青少年(子供たち)を集めて、海洋観測やシーカヤックの体験実習を行っていた。
ここで潜れば?ということになり、潜ることになった。
誰かが捕まえてきた、カニを見ている。
ここは、水の濁り、赤潮来襲、大腸菌数などは、お台場とあまり変わらないだろうが、ヘドロは、お台場よりはやや浅く、お台場よりは少し沖側であり、なぜか、その中心には、魚を集める投石がしてあるのだ。
お台場ではメバルの成魚はみることができないが、ここにいる。生き物環境としては、羊蹄丸の留めてある「青海北ふ頭公園」の方が良い。
それだけに、お台場が極限地として興味深いのだが。
羊蹄丸に潜ることになってから、正式名称を東京港水中生物研究会として、船の科学館に事務局を置くことになった。船の科学館の研究員で、水産大学の後輩でもある藤井さんが事務局の一切を引き受けてくれるようになった。
これらの手配、お世話の一切を引き受けてくれたのが船の科学館の小堀信昭学芸部長である。小堀さんは潜水の歴史についての展示も担当していて、それについてもお世話になっている。僕の古い大型カメラも、そのつてで、船の科学館に寄贈している。
2003年の4月(第13回)からは隔月になり、お台場と船の科学館を交互に潜った。
2004年の3月(第22回)からは、隔月ではあるが、午前中はお台場に潜り、午後は羊蹄丸となり、2005年は「海と渚美化推進機構」の助成をうけた。
この時代が東京港水中生物研究会の一番幸せな時期であったと言える。
そして、2011年3月 東北大震災が起こる。