イッカククモガニは、お台場の象徴種といって良いくらいだったが、2019年の今、よほど探さないと、見つからない。居ないといっても良いくらいだ。 なぜイッカククモガニが見られなくなったのか。 まず、何らかの理由で、その種が生きていられない状態になった。その理由はさまざま考えられるが、お台場の場合、無酸素がまず想像できる。わかりやすい。毎月、海洋観測を続けているが、お台場は、海底近く、水深3mは、夏期、7月、8月は酸素濃度がほぼゼロになる。ゼロになっても、マハゼなどは、生きているがそれでも、酸素濃度がある程度ある岸近くに避難してくる。 かにの類は、酸素不足に弱いのではないか、そして、移動の早さが魚ほどではないので、逃げ遅れる。あるいはどこかに逃げて、空き家状態になる。空き家に別の種がくると、そしてその種が短時間で大量に発生できる能力を持っていると、劇的な種の交代が起こる。
もう一つ、イッカククモガニ全盛の時代、やや大型のチチュウカイミドリガニも繁栄していた。チチュウカイという名の示すように、地中海あたりからやってきた外来種である。外来種は環境の悪化に強い。どこにでも行って繁栄し、もともとそこに住んでいた住人に取って代わる。そのチチュウカイがお台場あたりに殖え、日本国籍の在来種イシガニが駆逐された。イシガニはワタリガニの類で、ガザミを小型にしたもので、食べておいしい。なお、チチュウカイミドリガニもおいしいと言うが、食べたことがない。 外来種のほうが在来種よりも環境に強いので、交代するのだが、このところ2010年あたりから、チチュウカイがいなくなり、イシガニが目に付くようになった。イシガニの方が強いのか?イシガニが地中海に運ばれるとそこで繁殖して外来種となり、在来種のチチュウカイミドリガニを駆逐することになるかもしれない。 本題にもどって 1990年、一緒に撮影の仕事をしていた電通映画社のプロデューサーである神領さんから、21世紀を前にして、東京湾と東京の川を撮影しておきたいという提案というか、仕事が来て、その一環として、東京湾で、環境のために活動している人を集めて何かをしようという話があった。 僕の知っている範囲、限りに声をかけた。 風呂田先生、三番瀬埋め立て反対運動の中心である小埜尾さん、海をつくる会、そのころは、創立者であった塩井さん、横須賀で91年には市会議員となる一柳君、(彼の書いた、「誰も知らない東京湾」は、この種の本としてベストセラーだった。)それぞれが、自分の活動範囲を持っていて、それで手一杯、合同して何かができるとは思えなかったが、とにかく集まってもらって、東京湾海洋研究会というタイトルで活動を開始した。 もしも、電通がお金を出し続けたならば、それが続く限りは続いただろう。公共の予算とか、大きなスポンサーとかは、その予算が続く限りは続くのだ。予算が打ち切られたとき、終わる運命にある。 その時に、もしも、今の自分であったならば、お金がなくなっても、ゼロではないだろうから続けられたかもしれない。当時の自分は自分の経営する会社があり、しかも、その会社は大会社ではなく、個人会社であり、自分の腕力(働き)で、社員を養っているような会社であった。ニュース・ステーションの須賀潮美の水中レポートが当たっていたから内容は悪くはなかったが、東京湾海洋研究会に全力集中できるような状況ではなかった。 それぞれが、それぞれのポジションでがんばる、それを互いに支援するという友誼は残ったが、組織活動としては、横須賀の一柳さんが最後までがんばったが、続かなかった。 それでも、僕らは、せっかくだから、東京湾の各所を潜り歩いて探検しようという集まりをつくり、隊長を風呂田先生、副隊長を須賀潮美ということで、「東京湾潜水探検隊」という集まりを作った。 潜水探検隊として潜ったところは、富津岬、千葉港のビッグドッグというダイビングプールだった。お台場も潜って、1995年4月の撮影テープも残っている。
ちょうどそのころ、港区に「スポーツふれあい文化健康財団が発足して、次年度からここが主催団体になり、今に至っている。 スポーツふれあい文化健康財団が発足したのが1996年であり、ベイクリと一緒である。2016年にこの財団の20周年記念行事が行われ、僕たちも表彰を受けた。 僕の潜水活動の原点は、リサーチであり、風呂田先生を中心にした潜水探検隊が、お台場で事実上復活して、いきものの調査を開始した。 当時、コーチのような役割をしていた東大の海洋調査探検部も加わって、その第一回の調査を1996年12月23日 に行った。 クリーンアップは6月であるが、これは、海上保安部の海をきれいにする運動月間が6月であることで決まったのだが、6月は、赤潮の発生とか、お台場が最悪になるシーズンである。 秋にやればいいのに、ということで、12月になったのだ。これは、なんとなく、東京湾潜水探検隊だったが、副隊長である須賀潮美は来なかった。 記録をみると、1996年に始めて、1997年には、4月6日と5月18日の2回、1998年は3月8日と9月15日、12月13日の3回、1999年は4月24日の一回だけである。 2000年は、第8回の2月19日、第9回の9月10日と、2回だけ。2001年は、無くて、2002年この年が東京港水中生物研究会の正式な誕生年である。それまでは、「なんとなく東京湾潜水探検隊」だった。