13日の波左間リサーチ・ダイビングの撮影結果として、メンバーの増井武さんが映像を発表した。 僕の調査撮影手法は、イメージラインを引くように魚礁の中に入り込んでいく定点撮影で、これだけでは、魚礁の全容をとらえることはできない。そこで、大型カメラを駆使して、小笠原、西表などで撮影している増井さんには、広い絵、巨大な水中構築物である人工魚礁を一枚の絵で、全景を一望できるような、そして、それに魚群がからむ、位置関係をおさめるようにお願いしていた。 透視度の良いとき、大型6m礁、ドリームの全景を撮って魅せてくれていたが、魚群が絡み、魚と魚礁、それにダイバーの位置関係がパースペクティブにとらえた絵は撮れてなかった。これは、魚が居なかった、からなのだろうが、今回はうまくとらえている。 僕の撮影調査結果と比べてみると、視点の違いによる全体像の違いがわかる。増井さんの視点が人工魚礁撮影の王道であって、僕が2003年にだした人工魚礁写真集「豊かな海」もこの線を追っている。 では、なぜ、今の僕ができないかというと、もはや、流れに抗して中層に浮いて、静止して撮影する体力もなく、危険だから、魚礁の内部の定点、定線を毎月繰り返し撮影して、魚が、居る、居ない、居ないならば、居ない撮影をする手法にしているからなのだ。 増井さんのとった動画からの静止画で見ていこう。 まず、透視度なのだが、僕は濁っていて、8ー10m、ライトで濁りの粒子がハレーションを起こしてしまう、と書いている。それは、魚礁の中に入り込んだ印象、視線なのだ。広い全景視線では、水は青く澄んではいないが、10ー20mは見えている。でも、15mはなれて、浮いているダイバーは、影のようにしか見えていない。 透視度とは、その時、その視線で受け止めた、ダイバーの像の明確度なのだ。つまり、人間、ダイバーの感覚のいい加減な表現ということだ。 撮った映像からの結果論的表現かもしれない。 動画と静止画でも、印象がちがう。動画のほうがきれいにみえる。 なお、動画は、増井武さんのところに掲載されている。
13日の波左間リサーチ・ダイビングの撮影結果として、メンバーの増井武さんが映像を発表した。 僕の調査撮影手法は、イメージラインを引くように魚礁の中に入り込んでいく定点撮影で、これだけでは、魚礁の全容をとらえることはできない。そこで、大型カメラを駆使して、小笠原、西表などで撮影している増井さんには、広い絵、巨大な水中構築物である人工魚礁を一枚の絵で、全景を一望できるような、そして、それに魚群がからむ、位置関係をおさめるようにお願いしていた。 透視度の良いとき、大型6m礁、ドリームの全景を撮って魅せてくれていたが、魚群が絡み、魚と魚礁、それにダイバーの位置関係がパースペクティブにとらえた絵は撮れてなかった。これは、魚が居なかった、からなのだろうが、今回はうまくとらえている。 僕の撮影調査結果と比べてみると、視点の違いによる全体像の違いがわかる。増井さんの視点が人工魚礁撮影の王道であって、僕が2003年にだした人工魚礁写真集「豊かな海」もこの線を追っている。 では、なぜ、今の僕ができないかというと、もはや、流れに抗して中層に浮いて、静止して撮影する体力もなく、危険だから、魚礁の内部の定点、定線を毎月繰り返し撮影して、魚が、居る、居ない、居ないならば、居ない撮影をする手法にしているからなのだ。 増井さんのとった動画からの静止画で見ていこう。 まず、透視度なのだが、僕は濁っていて、8ー10m、ライトで濁りの粒子がハレーションを起こしてしまう、と書いている。それは、魚礁の中に入り込んだ印象、視線なのだ。広い全景視線では、水は青く澄んではいないが、10ー20mは見えている。でも、15mはなれて、浮いているダイバーは、影のようにしか見えていない。 透視度とは、その時、その視線で受け止めた、ダイバーの像の明確度なのだ。つまり、人間、ダイバーの感覚のいい加減な表現ということだ。 撮った映像からの結果論的表現かもしれない。 動画と静止画でも、印象がちがう。動画のほうがきれいにみえる。 なお、動画は、増井武さんのところに掲載されている。