台風15号、房総半島を襲った台風として、その被害は未曾有のものだろう。 台風は東京の真上を通り過ぎていったが、東京は交通機関への影響をのぞいては、殆ど被害はなかった。 僕の生活には何の影響もなかった。 台風の右半径が直撃し、50-60mの風が吹き、被害の多かった南房総館山は、自分のダイビング活動の故郷であり、現在のホームグラウンドである。すなわち、1963年に100m実験潜水をしたのは館山湾であり、今は、月一で波左間に通っている。母校である水産大学、海洋大学の基地もある。 台風は8日の夜半から9日の早朝に通過して、僕たちは、その4日後になる、13日に恒例の人工魚礁調査潜水に行く予定であった。 災害があるととにかく現場に行かなくては、何かできることをしなければ、と言う本能のようなものが日本人にはある。ボランティア活動はその表れの一つであり、自分にもあるので、高齢となった今、行けば邪魔にしかならないのに、行かなければと焦る。 13日は、どうしよう。 僕がホームにするようになったのも、きっかけの一つになったのか、自分のファミリーが、自分よりも波左間に密着しているので、情報にはことかかない。鶴町は、電話の通じない波佐間と、どうやってか電話連絡をしているし、中川(河童隊)は、出かけていって現況を見て、知らせてくれた。交通は、信号が壊れているところもあるが、ほぼ通常通り、2時間半で、到着できたという。波左間のオーナーの荒川さんは、13日には、僕たちが来る予定があるので、何とかそれまでには、ダイビングできるようにしたいと言ってくれていて、疲れてはいるようだったが、めげてはいない。そうだろう。彼は不死身のダイバーなのだ。不死身と思うと事故が起こるので、不死身という言葉を使ってはいけないし、思ってもいけないのだけれど、ほぼ不死身である。 なにが何でも、行こう。こんな状況だから、メンバーは行かないかもしれないが、その場合には、自分の車を転がしても行こう。 とにかく、僕が行き、潜ることが、個人的ではあるが、励ますことになる。励ますのは、抽象的だから、何か具体的なものを一つもって行こう。 幸いなことに、人工魚礁研究会、日本水中科学協会のメンバー、中心の山本、増井、小俣、早崎、は、参加を表明し、それに中川、国方が加わり、鶴町雅子は潜水ではなく様子見、後かたづけ、にくる。 災害の時、とにかく集まって盛り上げて行くのも、基本なのだ。
こんなときにダイビングなんて、不謹慎と言う人が、もしかして居るかもしれない。みんなボランティアをしているのに、遊びのようなダイビングなんて、と言うかもしれないが、波左間は、そのダイビングで生きている。暮らしているのだ。そして、災害の要諦は復興、通常に戻すことなのだ。できるだけ早く、ダイビング営業を再開してもらいたい。 館山には、伊戸、西川名、板田、波左間、4軒のダイビングサービスがあり、それぞれユニークなスタイルがあり、自分はその全部に義理がある。今現在、波左間だけに通う理由は、自分のダイビングのスタイルと人工魚礁という目標、そして、自分の安全に密な関係がある。悔しいけれど、84歳は、ほぼ身体障害者である。状況のわかったサポート、チームワークがなければ、自分の安全が保てない。波左間の荒川さんに依存しているのだ。たとえば西川名の石川君は、大学の潜水部の後輩で、心情的には弟のようなものだが、今の僕が行ったら、僕の面倒を見なければならないので、営業妨害になる。自分がインストラクターとして通用していた2010年までは、西川名に通っていた。 朝9寺、現地着 習合が10寺なので、波左間の前に、西川名に見舞いに立ち寄った。驚いたことに、まだ停電なのにお客が来て、通常の営業をしていた。よかった、よかった。伊戸は路を海岸まで降りて行かなくてはならない。時間が無いので遠慮した 坂田のシークロップは、だれも姿が見なかったので遠慮した。あとでフェイスブックでみたら、屋根の修理が完了したことが報告されていた。坂田の成田は親友で、その娘の早弥がやっている。若いから大丈夫だろう。 ダイビングサービスは、どちらかと言えば強者である。弱者の年寄りも気候の良い館山には多い。自分が隠退して住みたいと思う場所だった。そして、一人で住んで、屋根をとばされたら、どうだろう。車で走っていくと屋根に広げたブルーシートが多く目に留まる。保険に入っているだろうか、保険が利くだろうかと心配になる。そして、自分で、屋根に乗って、ブルーシートが広げられれば良いけど、無理して転がり落ちたらたいへん。人的被害になる。
波左間の被害は、風で窓ガラスが飛んだために、室内が水浸しになった。そして、機材倉庫の屋根が飛んでしまった。これは、たいへんな物入りだろう。 2隻あるボートの1隻が壊れてしまった。 風が陸からの吹き下ろしだったので、海上の被害が小さく、ジンベイの囲いプールは無事、定置網の被害も小さかった。 西川名でも、そして波左間でも、動力の電気が来ないので、タンクの充填ができない。営業復活には、それが、ネックだ。いま充填すみのタンクが終わったら、そして、電力が復帰しなければ、東京に充填に来なくてはならない。 さて、ダイビングだが、
左から中川、5年ぶりのダイビングだという国方、山本、早崎、増井は飛び込み済見、撮影しているのが須賀
ログ date 2019 0913 第27回 人工魚礁研究会 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット 超大型FP礁10個 ⑤天候 曇り 波高 0。5 m ⑦水温 26 ℃ ⑧透視度 8ー10mm 1ノットの流れ ⑨潜水開始 1138 潜水時間 23 分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深25。9 m ⑪潜水終了 1201 ⑫インターバル プラン ⑬チーム 須賀 山本徹 早崎 増井 小俣 中川、国方 ⑭バディ A 須賀 山本徹 B 早崎・小俣 C増井 中川 国方 ⑮残圧予定 50 摘要 カメラはOlympus TG4の上にAKASObraveを載せたセット そしてマスクマウントに SG4000をつけた。 BC.をタバタのリベレーターに変えた。陸上での背負い心地は最高だが、水中でのバランスになれていない。 ウエイトは腰に六キロ 軽くて、ロープを使わなくては潜れない。 流れは思ったよりも早くて、ロープまで泳ぐのが難儀だった。
失敗していた。タンクのコックが全開でなかった、水深20mで空気が足りなくなり、苦しくなった。 いつもは舟の上でタンクを背負うのに、BC.を変えたので、背負い心地テストで、タンクを背負って舟に乗った。舟の上では、呼吸して問題なかったが、バルブ全開の確認はしていなかった。20mを越えたら、空気の出が悪くなった。魚礁の上面に這い上がって、後続の増井さんを捕まえて、タンクのバルブを開いてもらった、 透視度は10mぐらいで、調査には問題ないが撮影は期待できない。マクロならば撮影に支障はないが、魚の数、様子の撮影だから、ワイド系だ。 そして、撮影結果だが、マスクマウントは○だった。Olympus TG4は、予想どおりにダメ。上にのせたAKASObraveは、濁りの粒子に光を当ててしまっているし、そのライトも中心をはずしてしまっている。
このブログは、マスクマウント中心で写真を使えた。二つ同時に撮影しておくと、どちらかが使える。マスクマウントも報告としては、臨場感があって悪くない。
これは、マスクマウントでのイサキの群れ、濁りを照らしていない。
オリンパスの上に乗せた、カメラ、濁りを照らしてしまっていて、しかもライトの中心をはずしてしまった。
30cm以上のイサキ成魚の群が、魚礁の中に入り込んでいたが、外に出て行った。 20cmサイズのイシダイが4ー五尾魚礁の中を旋回している。
メバルの群は下段、底近くにいた。大型に育っていて、50ー100の群。 下段の底でも、センター(へその部分の隙間)でもイセエビは見られなかった。
イサキの稚魚の群、4ー5gmサイズの群、3cmサイズの群、これは別群になっている。透視度がよければ写真になるのだが。
上段のうえに上がると、生魚のイサキの群が、魚礁を覆っている。透視度が悪いので、これも写真にならない。
荒川さんはいつでも、僕を見張ってくれている。オブザーブ状態だ。山本さんは、バディの位置に着けてくれている。見回せば居るという位置だ。甘えるしかない。自己責任が矜持であるスクーバダイバーにとって、甘えるのは苦痛だけど。 残圧70で浮上。流れが速くて、吹き流しになる。荒川さんが先に上がっていてカメラを取ってくれる。フィンを山本さんが外してくれる。 フィンを外せば、ウエットスーツでウエイトが6キロならば、梯子を上れる。 小俣、早崎バディが流されて、舟を動かして拾う。こんなことは初めてだ。ロープから離れたためだ。二人とも中性浮力に自信があるので、時に、ロープを離して、水平で浮上する。 今日の流れは速かった、この二人が流されるのだから、浮上時には2ノットあったか? タンクを節約しなければならないので、1本で終わりにした。 電気がきたので温水のシャワーがでた。 僕らが機材の片づけを終わる頃には、全体の片づけもほぼ終わっていて、きれいになっていた。 これで、コンプレッサーが動けば営業できる。 次に僕らがくる10月にはボートもなおっているだろう。 いつものことだけど、僕の体調不良もダイビング一回で治癒。 治らなくなったとき、僕のダイビングは終わる?