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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0911 なぜお台場、(1)

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               1996年 イッカククモガニ
 
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 さて、お台場にどうして、なぜ潜るのか、なにを調べようとするのか、書かなくては.長くなりすぎるから、ブログにしよう。それも5回連続ぐらいになるだろう。  まず、ここに書くのは、自分の個人的な理由、であって、僕たちのお台場に潜るメンバーそれぞれに理由がある。 大きく括れる部分としては、東京湾の水環境 これは、10月3日のワークショップのテーマだが、その大きなくくり(目的)の中でも、それぞれによって目標は違っている。また、それぞれの違うテーマ、つまり自分の目標を持たないと長く続けてはいられない。 これから、日本水中科学協会10周年記念で、完成できるかどうかわからないが、「リサーチ・ダイビング」という本を出そうと思っているのだが、そのリサーチ・ダイビングの基幹は、自分のテーマを持っていること。 おそらく、レジャーダイビングのみなさんも、それぞれ、自分のテーマを持っているはずだ。そのテーマが、調べる、記録することであれば、それはリサーチ・ダイビングである。というのが「リサーチ・ダイビング」の書き出しになるはずだが。  本題に戻って、お台場に潜水する理由、その①は、それが東京湾だから、である。大阪の人ならば、大阪湾だろうし、水俣の海の人もいる。地中海は、モンド・ソンメルソだったか、「我らの海」と言う意味だ。イタリー語? 我らの海、と地中海民族は言う。僕にとって、僕らにとって東京湾が「我らの海」なのだ。 お台場は、僕にとって、「我らの海」のヘソになる。  1985年から話を始めよう。1985年の秋、マチャアキ海を行く、を作ったプロデューサー、の田島昭さんが、テレ朝のニュース・ステーションに、日本の海を潜って巡る企画をだした。田島さんは、テレ朝出身なのだ。その中で僕は、東京湾に潜る企画を出した。 その前年、1984年に、僕らは水中レポートの、フルフェースマスクと通話装置を完成していて、1985年2月には、ケラマから中継をやった。これは日本テレビの番組で、日本の民放初の水中からの中継だった。  東京湾に潜る企画が通って、その時はまだ、須賀潮美は登場しない。日本テレビ就職したいとは、考えていたらしいが、ダイバーとして採用してくれる途はないので、あきらめて、就活していた。  東京湾の研究者と言えば、今も昔も、風呂田利夫先生だ。当時はまだ、東邦大学の講師だったのだが、同時に、NAUIの理事長もやっていて、よく知っていた。彼に水中レポートをお願いした。 潜った東京湾のポイントは、富津のバカ貝取り 船橋の巻き網漁業、人工島 羽田沖、残念なことにお台場は、入っていない。 企画案は、テレ朝の加藤雅穀 「東京湾で魚を追う」を書いている方だった。この本好きなのだが。 これが、秋の話で、翌 1986年、知床の氷の下からの水中レポートで須賀潮美がブレイクするのだが、それはそれとして、同じ頃、親しくしていた中村征夫が「全東京湾」というノンフィクションで全国区になる。
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 その「全東京湾」のグラビアで、お台場のイッカククモガニの写真がでる。お台場の海底、一面のイッカククモガニだ。そして、風呂田先生は、イッカククモガニの研究を進めているともこの本で知った。 イッカククモガニは、外来種である。外来種は環境の変化、悪化に強い。強いから海を渡ってこられたのだ。
 なぜ、僕らのニュース・ステーションでお台場をやらなかったのだ。この企画は風呂田さんの企画ではなくて、加藤さんの企画だったから仕方がない。 企画は自分たち、ダイバーが作らなければだめだ。 よく考えれば、僕は、お台場でマハゼの産卵孔の調査もしている。マハゼとイッカククモガニで企画できたのに。 僕らの東京湾は、それでも良い視聴率をとり、風呂田先生の水中レポートそして、スタジオ出演もよかったので、次の流氷につながったのだから、失敗では無かったのだが、なぜ、お台場にもぐらなかったのだ。お台場に潜らなければ、という思いが心に残った。
 なお、このイッカククモガニ、今のお台場でほとんど見ることができない。お台場は、種の変遷が激しいのだ。

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