1970年代と言うのは、スクーバダイビングにとっても、海洋開発にとっても、峠だった。自分自身もその中で生きていた。
沖縄海洋博があった75年は、その峠の一番高い部分といえる。 「海の世界」で80年までなんとか、行くつもりだったが、75年、5月に「ダイビング・ワールドが創刊する。ダイビングワールドは1976年に僕が連載を書いていたりして、そして、75年、76年のダイビングワールドは、とても良かったので、ここからしばらく、ダイビングワールドに乗り換える。 海の世界から、ダイビング・ワールドに移るにあたって、こんな風に雑誌をそのままコピー、貼り付けているというの、「あり」だろうか?、著作権法というのもある。著作権者に訴えられれば?。しかし、このまま、紙屑ですててしまうのも、もったいない。自分も、ダイビングの歴史を書くために、読み直しができ、資料として、使うためにも、ブログでアップしておくと便利、そしてこれは、自分だけの資料でなく、ダイバーみんなの資料になる。海洋博のことも、シートピアのことも、ダイビングの歴史として、今のダイバーに知っていてもらいたいし、昔の記憶がある人は、懐かしがってくれる。でも、無断借用(自分の書いたものは別として)であることはまちがいない。 思い切って、このスタイルはやめた。
とすると、どうしても、きりの良いところまで、やっておきたい気持ちになる。それに、自分の書いている部分は、どうしても、この形で残しておきたい。 ところで、著作権侵害をだれが訴えるのだろうか。
自分の祖父が書いたものを、無断、引用していると、孫が訴えたり、また、若い日に、競技で活躍したことを、無断で拡散したことが、不愉快とか、若い頃の写真は不愉快とか、あるいは、出版した出版社。訴えられたら、その分は削除して、おめにかかって、昔話でもして、それも、ブログにしよう。
その上で、訴訟になり、罰金刑が来たら、罰金支払いの、クラウドファウンディングでもするか、と、開きなおった。
ダイビングの歴史、この部分、点けたり消したりしていたのは、この迷いのため。もう開き直ったので、ここ、しばらくの分は続ける。
いずれにせよ、もう、先は、長くない。 このブログが天の一角にあり続ければ、残るように、後に残る人にお願いしておくけれど、今から、50年後、100年後に歴史を書く人の役にたつことだろう。
本当は、ダイビング歴史協会とか作って、資料を整理して、せっせとクラウド化すると良いのだけれど。
残念なことに、ダイビング・ワールド、75年は、5月創刊と、11月しかない。隔月だったから、7月と9月がないわけだが、とにかく
5月創刊号 ※なお、この写真引用は、PCでも携帯端末でも拡大して読める。 また、これは、前にも一回出して、削除している。削除した理由は、前記のような理由で逡巡したからである。
黒川君は潜水部の近しい後輩だし、田中龍彦は、親友、大竹憲一は、谷中のあたりに住んでいて、高校時代から、東亜潜水機の僕のところに遊びに来ていて、特別な思いがある。そして、「海の世界」で活躍していた。その一番若い大竹が亡くなってしまっていたことを、この前聞いた。 海底ハウスについては、何回か紹介しているし、この写真もそのときに使ったが、沼津内浦湾の海底ハウス、今は別の位置に廃棄されて、魚礁になっているが、このグラビアが、一番よくわかる。
まだ、大瀬崎が有名になる前のことだ。
ダイバー以外の素人に海を、海底を見せる試みとしては、空前絶後だったけれど。その素人が、ダイビング事故、空気塞栓で亡くなってしまった。やはり、この方向は、海中居住展望塔しかないのだろう。
この海底ハウス もしも、がたくさんある。
もしも、事故が起こらないで、続いていたらどうなっただろう。
海底ハウスに長く居たら、今だったら、長い半飽和時間の窒素をため込んで、減圧症になる人が出ただろう。ましてや、ここで潜って東京に戻るには、御殿場という高所を越えていく。この「今だったら」というところが肝要、昔だったから、減圧症にかからなかったのか?
このグラビアを撮影した大竹君は、この海底ハウスに2泊したとか。
そして、当時のダイビング識者が何人もこのハウスを応援している。知らなかったのだ。窒素をため込むなんて。それにしても、昔の人(僕もだけど)は減圧症になりにくかった?そんなこと、ないですよね。
でも、人形町の菓子屋の若旦那が、水深10mを越していないのに減圧症のような症状になった。どうしてだろうと質問された。わからなかったので、そのうちに治るでしょうと答えておいたら、治った。しかし、それを機会にダイビングは止めたはず。
ところで、僕は、この海底ハウスに行ったことがない。そのうちに、と思っているうちに、無くなってしまった。田中さんとは、別に、仲は悪くなかった、というか、お目にかかった記憶がない。一度、電話で話した。田中さんは、ダイバーの人出しもやっていて、その一人が回り回って、スガ・マリン・メカニックの現場にきて、そのとき話した。「これを機会にぜひ来てください」というような話を交わした。でも、仕事ではないから不要不急、そのうちに、と思っていたら、事故になってしまった。
それにしても、この海底ハウス、1970年代のビッグな、海中のトピックスだった。後で、振り返ってみると、シートピアよりも、とは言えないまでも,同等の。
廃棄処分で、海底に眠っている海底ハウス、今、大西君たちが話題として取り上げているけれど、海底遺跡として未来に残るのではないだろうか。
クローズサーキットとセミクローズの試用
当時、ダイバーだったら、使ってみたくなる。
使ってみたら、命が無かったかもしれない。
たしか、ここに紹介されたどれかは、事故多発だったはず。