今年も7月14日に東京を飛び立ち、広島県呉から、広島大学の練習船豊潮丸に、早稲田大学中尾研究室、広島大学平山先生のグループが行う、航海、サンプリング実習に同行することができた。 毎年、これが僕にとってのこの航海の最後だと言っては、また出かけていく。同行してくれた久保君に「何時が最後なのやら?」と笑われているが、都会では半ば病人だが、海にでると活力を取り戻して、戻ってくる。
でも、このあたりで、ちょっと総括しておこう。
2007年 第一回(僕として)航海
この航海への同行を始めたのは、2007年、この豊潮丸4世が新造船で就航した最初の年だ。僕は72歳だった。
この年の僕のサポートは、鶴町君で、車にタンクを積んで、東京から呉まで、二人交代で運転し、走っていった。東京を午後にでて、夜通し走って、翌日の午前中に呉に到着した。 2007年の目的地は、奄美大島だった。豊潮丸は、400トン(総トン数は200)で、一週間の航海で、日本の南半分のほとんどをカバーしている。台湾まで行かれるそうだが、一応、奄美大島が通常航海の南限になる。
奄美大島では、大島海峡、瀬戸内の諸鈍、安脚場で潜ったが、この時代の流儀は、本船(豊潮丸)からエンジン(船外機)付きの、ゴムボートにタンク、潜水器財と人間、僕たちダイバーを積んで発進する。中尾先生は、この航海(潜水)になれていて、採集の場所の見当を知っている。その場所は、いわゆるレクリェーションダイビングのダイビングポイントとは、少し違う。
採集場所にくると、ゴムボートからタンクを下ろし、水面で身に着け潜水を開始するとゴムボートは戻って行ってしまう。広島大学のチームがスキンダイビングで海藻の採集をしているのと、かけ持ちしているのだ。
時間がくると、浮いて待っているか、岸に這い上がっている僕たちをピックアップしてくれる。
この年は奄美から戻り道、屋久島で潜水して帰港した。ほぼ一週間の航海である。
2008年、第2回航海は、6月 対馬と五島、つまり今年2019年と同じだ。対馬、厳原では、「アビス」というダイビングショップの平江さんにお世話になった。ダイビングサービスのお世話になるときには、ショップの使うボートそしてガイドで、通常のレジャーダイビングとあんまり変わらない。
この年から、中尾教室の学生、前嶋君 勝俣君が参加する。この二人は全くの初心者で、チームがバラバラになってしまったり、ポイントによっては、潜降索が用意されていなかったりして、怖い思いをした。
五島では、ナイスバディというお店のお世話になった。2019年、今年も、そのお店のお世話になった。オーナーは今田さんで、普通の漁家をショップにしていて、それがおもしろかった。
この年は、三カ所全部、ダイビングサービスのお世話になった。
呉に戻り、ヤマトミュージアムを見て、16時に呉をでて、車を走らせ、明け方の4時に東京、早稲田大学に着いた。
2009年 7月9日~ 第3回(僕が同行しはじめてから)
広島大学 堀教授 平山真 助教授とその学生たち
早稲田大学 中尾先生 前嶋君 勝俣君
それに
北海道大学 酒井教授 松永さんPHD
ダイビングのスタイルを僕の方式に変えた。
僕は、サーフェスコンタクトと呼んでいるのだが、水面に浮かべた何かと、ダイバーを必ず、何らかの方法で連携させて潜る。
そして、そのアンカーから巻き尺 50ー100mを延ばす。このラインの上で、ラインの見える位置で採集する。ラインから離れて泳いで行っても、後戻りすれば、ラインは簡単に見つかるし、ラインをたどってゴムボートに戻れる。この方法は今と同じだが、今はゴムボートを並べて保持して走る。2008年は曳航である。
このときも、鶴町と一緒で、曳航するゴムボートには鶴町が乗っている。残念なことに、鶴町は2010年の1月に亡くなってしまった。今でも、鶴町さえいれば、と思うことが度々である。奥さんの雅子さんが僕をたすけてはくれているが。
種子島、鹿児島県 馬毛島、下甑島 串木野沖 天草 長崎を回る。
広島大学の海藻採集はスノーケリングで、その面倒も少し見させてもらった。
長崎では、市内を端から端へと歩き回る、僕にとっては、恐怖の大遠足を行った。
2010年 7月 これで4回目の航海
学生は喜納君が参加。 アシスタントとは高橋稔さんだった。
伊予灘の小水無瀬島に潜水、ここは良いポイントだった。
愛媛県長浜港で、夜、生きたアオイガイ(タコブネ)を掬った。
佐多岬の瀬戸内海側と回り込んだ小梶谷鼻を潜る。
宿毛に入港して、旧知のダイビングサービス森田君のお世話になる。
沖の島に潜水
土佐清水港入港
高知港 高知遠足
2011年 7月 6日から これで5回目の航海
町田君が参加して 学生は喜納君と町田君、町田君はCカードとったばかり、
屋久島で潜水 榎田君のダイビングサービスでお世話になる。
台風のために硫黄島に行けないで、指宿遠足
竹島 大水無瀬島、小水無瀬島
石川総一郎さんにアシスタントをお願いしている。
ゴムボートとラインの潜水は安定している。ゴムボートも曳航ではなく、横付けで走る。
奄美大島
僕が1956年に一ヶ月滞在してはじめてスクーバダイビングを経験した、瀬戸内町の久根津のダイビングサービス、こほろの太田さんのお世話になる。
学生は喜納君、町田君で、サポートは石川惣一郎さんにお願いする。
2007年にも潜った安伽場で潜水するが、太田さんのボートとガイドで潜水すると、ガイド無しの2007年とは全く別の場所になる。
徳之島では、ガイド無し、ゴムボートの潜水
トカラ中之島は、港内での潜水
2013年 7月4日~ これで7回目の航海
瀬戸内海周航
学生は町田君
愛媛県 ひょうたん島 流れが速く、チームがバラバラになる。バディは崩していない。流れをさかのぼることができず、岸に上がる。
風の子島
瀬戸内海というと静かなイメージがあるが、流れが速くて危険な海だ。
淡路島 由良
良いポイントだったが、僕は水面でのボンベ着に失敗する。腕が回らなくなっているのだ。
備後瀬戸 佐柳島(さなぎ島)ここも流れが速く(1。5ノットくらい)、ゴムボートに戻るのが危ないので、岸に上がる。
マスクマウントでの撮影記録で、それぞれの動きがわかった。
北大のチームまで責任を負って見なくてはいけないのか、その隙に早稲田の僕たちのチームが事故を起こしたら、どうなのだ。
瀬戸内海は一番大変だったが、得た経験もたくさんあった。
2014年 7月5日~ これで8回目の航海
日本海 隠岐の島
学生は、町田君、石橋君
山口県長門市の青海島 見島
境港で反転 嶋根半島で潜水
中尾先生はダイビング歴30年近い、ベテランであり、豊潮丸の潜水も20回を越えている。現場での動き、採集ポイントの選定は中尾先生がおこなう。僕の役割は、ゴムボート、巻き尺ラインなどこの潜水のシステムを作り、学生の潜水を指導する。僕が関わるまでの潜水は、ゴムボートからエントリーしたら、ボートは戻ってしまい、浮いたならば本船から双眼鏡で見ていて、迎えにくる。流されて当然の潜水だから、自由度は大きいが危険も大きい。僕のスタイルはゴムボートからの半径が100m程度だから自由度はないが、一般のレクリェーションダイビングよりも安全度は高い。
2014年の日本海航海、航路、サロンあって、現在位置と航路がわかる。
日本海「
風呂です。
コンプレッサー
2015年 7月24日~これで9回目の潜水
80歳になる。
学生は町田君 石橋君 相馬里奈さん(女性)早稲田のダイビングクラブ出身だから、完成されたレジャーダイバーといえる。
僕のアシスタントは鈴木敏久君
このころまで、日本水中科学協会のプライマリーコースがあったので、みんなそれを受けている。サイエンティストのダイビングには、これが一番、良いコースだったのだが、プライマリーを続けられなくなってしまっている。
奄美大島まで行く予定だったが台風の接近で行かれない。
長浜港に入港し 小水無瀬島で潜る。この島は中尾先生のお気に入りだ。
周防大島
豊後水道をでて、宇和島沖、日振島潜水 宇和島港入港
宇和島由良岬潜水、
宿毛ではパシフィッマリンの森田君のお世話になる。森田君は旧知、足摺沖の浮き魚礁、黒潮牧場の調査で、無理な潜水をお願いしたこともある。
沖の島に潜る。採集場所として、その後毎年のように通うことになる。
土佐清水入港 土佐清水港内で潜水。港の出口あたりの岩礁が、良いポイントである。
ブログにこんなことを書いている。
「これで僕の80歳の夏が行ってしまう。次の夏が僕にはあるのだろうか、もう一度この旅に来られるのだろうか。海の上にいると、もちろん身体は疲れるが、次第に絶好調になってくる。そしてまた、東京にも度って半病人になるのか?
学生たちには、これから何度も何度も、人生の夏がある。」
「大学と言うところは、研究とともに教育の場なのだ。その教育、海の教育に、広島大学の練習船、豊潮丸は、ずいぶんと大きな役割を果たしている。広島大学だけではなく、いくつもの大学が、僕たちのように載せてもらって、年間のスケジュールがフルに消化されている。」
2015年にこんなことを書いた。
2016年 7月16日~ これで10回目の航海
僕は81歳になった。
関門海峡を抜けて 壱岐の芦辺南 で潜る。
学生は、町田、相馬里奈、 中尾先生 須賀 鈴木(ライフガード)
北大が酒井先生と学生1名 7名分の器財をゴムボートに積む。
壱岐、郷ノ浦 恐怖の遠足 そして夜はバーベキュー
上五島 宇久島沖潜水
下五島 多々良島沖 潜水
福江入港
南下して牛深に向かう
牛深 下須島沖 潜水
枕崎沖 番所鼻沖 潜水
山川港入港 猫がいて仲良しになる。
2017年、中尾教室の潜水はお休み
2018年 豊潮丸エンジン故障のため、航海取りやめ
そして2019年 今年だ。