ダイビングの歴史 73
海の世界 1974ー8月
海中公園特集のような号である。
海中公園とは何?
僕らが通う、館山の波左間は、波左間海中公園である。伊豆には伊豆海洋公園がある。串本には海中居住展望塔がある。房総の勝浦にもある。沖縄の名護にもある。兵庫県の竹野にもスノーケリングセンターがある。
波左間と伊豆は、自分で命名したもので、法律規則で定められた講演ではない。
この海の世界8月号にあるように、国の法律で定められた公園が全国で、いくつだろう。全国海中公園ガイドで数えたら、40カ所あった。
今ごろのダイバーにとって国が定めた海中公園て何?と聞いても、波左間や伊豆は別として、何だろう、そんなものもあったかしらん。という程度だ。ダイバー誌にも、マリンダイビングにも、海中公園の話は、このごろ載っているのを見たことがない。
海中公園ガイド 日本水中科学協会では、今年のシンポジウムで、海中公園のことを話題として取り上げ、長らく、消滅するまで海中公園センターの中心でおられた藤原秀一さんにお話をうかがう予定だ。大きな問題なので、ワークショップで2回ほど議論してから、シンポジウムへと考えている。
では、海中公園とは何で、どんな風にしてできてきたのか。
「海中公園をダイバーに解放したい。」猪野峻 先生
海中公園がどうやってできて、どういうことだったのか、この記事でわかる。
そう、海中公園はダイバーのために作られたものではなかったのだ。では、何のため、誰のため、ここに書かれているが、まとめれば、日本国民の為に、美しい海の中を残しておこう。まあ、ダイバーも日本国民ではあるけれど、前号の菅原久一さんが(スクーバダイバーの第一世代を代表する人、僕は第二世代)魚突き、スピアフィッシングフィールドを作ろうなどといっているくらいで、漁業者との争いを繰り返していたのだから、猪野先生の書かれるように「マナーをみにつけて」ということになる。アクアラングダイビングの海中公園への導入が悲願、だった。
今、海中公園が立ち上がれば?と思っても、海中公園になりそうなところは、すべて、民間、業界ベースでダイビングサービスができあがっている。ということは、やはり、「なりゆき」で、これで良いのだということになるのかもしれないが、
海中公園の旅
そのころの主な海中公園の解説である。
海中公園の一方で、
漁業法規とレジャーダイバー 須賀次郎
漁業調整規則、漁業法 水産資源保護法について解説している。
今でもここでした議論、特に共同漁業権についての議論は有効だ。漁業者が死んだりして、いなくなった海に、共同漁業権が設定されているのだ。水産庁沿岸漁業課の丹羽さんと対談している。
例によって日本潜水会のマスターダイバー講習
講習課目など、そのころ、自分の主導していたダイビングが、どんな風だったのか 5キロのウエイトをもって10分間立ち泳ぎとか、スノーケルを着けずに50mプール5周(BC.はまだない)そして、事故分析のレポートとか。
今 船の科学館の屋外に展示されている 「うずしお」の事故、