1974年 7月
船の科学館ができる。 写真を見ると船の科学館以外には何も建物がない。科学未来館はもちろんないし、何もないお台場は一望の原っぱだ。埋め立ての跡だから、夏になると蠅が発生する。「蠅の科学館」だなどと悪口を言われた。
しかし、大きな流れるプールは都心にある唯一のプールだ。夏になると、海水浴場となり、芋洗い状態に混雑した。
1985年、プールの盛況ぶりを示したポスターである。
説明不要、トウキョウの海水浴場だった。
この流れるプールで、浮力体、スノーケリングジャケットを着けた水面遊泳の講習会を企画したのは2004年だった。
プールができてから30年後になる。
ちょうどそのころ、救命胴衣を着けたスノーケリングが提案され、これによって、フィン・マスク・スノーケルを着けた溺水はなくなり、海水浴客にもフィン・マスク・スノーケル+スノーケリングジャケットを普及することにより、海水浴の溺死も激減し、スノーケリングからスキンダイビングへ、スキンダイビングからスクーバへの導入ルートが開ける見通しだった。
2004年ごろ、船の科学館、シーサイドプールは、一時ほどの混雑はなくなったが、それでも夏休み時期の一日の入場者は2000から3000人、1000人だと空いている状態だった。空いている状態で、ちょうどのんびり泳げる良い海水浴場だった。
スノーケリング教室は、プールが終了する前の17時から暗くなる19時頃までとして、夏休みの期間中は毎日、母校の東京水産大学から船の科学館に就職した藤井さんと、後一人、名前失念中(次の年に止めて、八重山に行ってしまった。)の女の子二人とプールスタッフをコーチにして、実施した。一ヶ月の受講者は1000人を上回る予定(企画)だったが、100を上回る程度で終わってしまった。
スノーケリング教室は次の年も行われたが三年目はなかった。
それにしても、船の科学館と僕の東京湾での活動そして潜水器具の歴史展示と、切っても切れない。お台場の潜水調査、東京港水中生物研究会の事務局も船の科学館に置かせてもらい、煩雑な許可申請は、スノーケリング教室のコーチをお願いしていた藤井さんにやってもらっていた。
さて、浮力胴衣を着けたスノーケリングだが、子供たちは、一刻も早く、胴衣を脱いで自由に泳ぎたい。そして、これは考えれば当然なのだが、胴衣を脱いだ子がスキンダイビングにすすみ、スクーバにすすむ。
2004年8月の緑
今、僕と一緒に潜っているみどりちゃんは、スノーケリング教室第一日から、胴衣をぬいでいた。2004年、8歳のみどりちゃん、そして今23歳のスクーバダイバーであるみどりちゃんだ。
スノーケリング教室のダイビング視点からの成功例は彼女一人だ。
今年 2019年5月4日の みどり
となると、現在日本各地に設立して、スノーケリングを広めようとしているスノーケリング協会のなすべきことは、できるだけ速く、できれば最初の一日目からジャケットを脱がすことなのだろうか?
ダイビングと安全のパラドックスである。安全を目指すならば、ジャケットを脱がせない、すなわちダイビングをやらせないように指導することなのだ。
言うまでもなく、僕は、ジャケットを脱がず、生涯を通して安全なスノーケリングを楽しんで欲しいと思っている。
ジャケットを脱ぎ、積極果敢にダイビングにチャレンジする危ない子は、100人に一人だから、大事にして、事故を起こさないように育てて行かなくてはならない。それでも、事故は起こるから、スノーケリングで留めておくべきか?
船の科学館は、東北大震災のあと、耐震の基準に満たないとして、休館になってしまっている。オリンピックが終わったら、建て直して復活するというが、どの程度の規模になるか、ダイビングとの関わりはどうなるか。プールが復活しないことだけは確かだ。
お台場でトライアスロンが行われるが、僕は、使われていない船の科学館、シーサイドプールをつぶして、150ー200mの超長水路、トライアスロンプールを作れば良かったのに、と思っている。
潜水艇「はくよう」日本海洋産業という民間会社の潜水艇、使える実用になる潜水艇である。1990年代は珊瑚採取の漁船として活躍していた。
僕はこの「はくよう」が好きだった。300mぐらいまで潜れる手軽な潜水艇。艤装に現在のテクノロジーを駆使して、大陸棚の調査、探検、観光ができれば、とても良いのだけれど。たとえば、宝石珊瑚を訪ねて、宿毛の海に潜水艇で潜るツアーとか。
現在は、日本海洋産業も 「はくよう」もない。「潜水」「海」から人間はどんどん引き上げ、陸に上がり、ゴミが海洋にあふれ、環境悪化を憂う声だけが大きく聞こえてくる。海に夢はなく、ゴミと放射能をどうするかの環境問題だけが注目を浴びる。