海の世界 1973年-2
こんなことをしていて何になるのだろうか、こんなこと、とは、ダイビングに関連した雑誌、ダイビング誌の古い記事を順に書写、カットしてブログに張り付けて、解説というか、コメントを付していく作業である。ダイビングの歴史とタイトルを付けているが、ダイビングの歴史の企画の中では、より重要と思われるいくつもの小史、事故、指導団体盛衰、沿岸漁業とダイビング、等々が、停滞している。生物学的に限りのある自分の時間を無駄にしているように思われて、どうしよう?しかし、始めたことだから続けよう。そんな状況だった。
しかし、ここにきて、これはこれでやり遂げなくてはと強く思い始めた。1970年代のダイビングと今2010年代のダイビングは、まるで、コンセプトが違うのだ。その第一は安全についての姿勢だ。今は、まるで、安全のためにダイビングをしているような言われ方だ。そして、その実、安全とはかけ離れようと思われる感もある。その移り変わりがどこで、どのように起こったのかを追って行くことは、スクーバダイビングの歴史を追っていく上で重要。だとすれば、まわりくどくても、この道は王道、まちがってはいない。その視点から、とにかく、手元にあり、コピーしてある(かなり膨大であり、偏ってはいるが)突き詰めて行こう。
それは、停滞している小史の根底部分に反映するに違いない。
流氷の潜水 北海道 札幌の本間さんが書いている。写真でわかるように全員ウエットスーツである。
そのウエットスーツは、まず3。5mmのチョッキを着て、その上にズボンにチョッキのついた6。5mmのツナギを着て、さらにフード付の上着を着た。そしてフードと上着の継ぎ目には3。5mmの襟を付けて、頭部の水が身体に入らないようにして、手首足首葉、袖口が密着するように3。5mmの輪で締め付け、上着のウエストにもツナギの肩口、首、ウエストにも弁をつけて浸水をふせいだ。ほとんど水の入らない、セミドライのようなものだ。
レギュレーターも凍らないように高圧部にシリコングリースでシールした。
そのとき、ウトロのグランドホテルで本間さんに会った記憶がある。
水中重量挙げは、海でやっている。後には3mのプールになった。
ナゾと呪いに満ちた ナン・マタール遺跡
ナン・マタールと僕のかかわりも、自分なりに深いものがある。ナン・マタールの遺跡の前の海に潜ると呪いのために不幸が、最悪では死がもたらされる。
そして、ミクロネシア連邦の首島としてのポンペイと僕のトラック島、チュークとの関わりを考えると、個人的なことではあるが、感慨が深い。
僕のポナペとの関わりは、このブログ である。
なお、読んでくださる方も、ほぼ、居ないだろうと思われるが、貼りつけた写真を拡大して、読める、ということも、ダイビングの歴史の雑誌紹介を続けている大きな拠り所になっている。書写機のグレードが低いので、切り取りが不細工になっているが、やり直しはできないので、ご容赦。
1973年 8月
海のクリーン・アップ作戦、江ノ島・鎌倉、これは海水浴場をクリーンアップしたもので、全日本潜水連盟がやり、僕と、当時全日本潜水連盟の構成メンバーだったPADIの椎名と二人でやった。
海水浴場でやろうとしたら、土地のヤクザが着て、ショバ代をよこせといわれて、金儲けではない、あんたたちの場所をきれいに掃除するのだと説明したが、なかなかわかってもらえないで苦労した。最終的には解決して、海水浴場なのに、ゴミがずいぶん集まった。
とにかく、コメックスという会社はすごい。