雑誌でダイビングの歴史を追っている。
何か意味があるのだろうか?古いダイビング雑誌をノートをとって読んでおくということ、回り道のようだけれど、ダイビングの歴史を書く上で、必要なことだと思っている。でも、まどろっこしい。
マリンダイビングの創刊が1969年1月号 ブルーゾーンが1968年の創刊、それよりはやく、「海の世界」があった。海の世界の創刊は昭和30年、1955年だ。ただし、海の世界は海と船の雑誌で、ダイビングはほとんど記事にしていなかった。
その後、次第に水中、潜水の記事も載るようになっていたのだが、それは、現在、手元にない。あるのは、1968年の2月号だ。これにしても、1969年のマリンダイビング創刊よりも前だし、ブルーゾーンの1968年7月創刊よりも前になる。50年前の話になると、書いたもの、印刷物がないと、記憶はすでに無くなっている。
その「海の世界」1968年2月号が大事にしまってあって、残っている理由は、これだ。
「千古のナゾ秘める地底湖にいどむ:越智研一郎」
岩手県・龍泉洞の潜水たんけんについに成功
これが、1982年に NHKの番組で僕がこの洞窟の水深73m間で潜り、最近になり、盟友の久保彰良さんがテクニカルダイビングで、一応は、終点を極めた.(まだナゾは保留されているが)龍泉洞潜水探検の始まりだったのだ。
越智研一郎、通称越智研は、昭和31年 愛媛大学4年生の時に、日本で初めてのケイビングクラブをつくる。鍾乳窟は地下水が作る。地下水の湖である。鍾乳洞、洞窟をその奥の奥、行き止まりまで行こうとするならば、潜水しなければ進めない。昭和37年1962年 にスクーバを手に入れ、独学で練習を始める。僕は、そのころ東亜潜水機に機材を買いにきた越智さんと会って親しくお話ししたことがある。小柄な人好きのする人だった。
その後、越智さんは、松野正司さんと知り合う。松野さんは、海上自衛隊から日本アクアラングに入り、独立して日本ダイビングスポーツという、今はダイビングの業界からは撤退されたが、レギュレーター、呼吸器メーカーとしては、優れた技術を持つ会社を設立した。そして、越智さんと松野さんは、ビーバーというダイビング集団をつくる。そのビーバー集団(ダイビングクラブ)の仕事の一つであった船底クリーニング作業で、後に越智さんは命を落とすのだが、ビーバー集団を中心とする龍泉洞学術探検が1967年に行われる。
地底湖の断面図を見る。右端から左へ潜っていく。D洞の壁をくぐり抜けて第五ホールに入る。
「くぐり抜けて水深計を見ると、なんと52m。海でも経験したことのない深さだ。ウエットスーツが煎餅のように薄くなり、冷たさが身にしみる。
体の下はぐんと深い渕。100mを越えそうな奈落が真っ黒く落ち込んでいる。奥へ奥へとロープを引っ張って懸命に泳いだ。松野君がぴたりとすぐ横を進む。キャップランプの光がたよりない。頭上にE洞の入り口を見つけた。浮上しかけた。岩の突起に体がひっかかって進みにくい。水が騒いだため、たちまち濁る。岩のくぼみにたまっている泥が舞い立ったのだ。あわてて、抱き合ったまま沈みなおした。
奥へ進もう。
X洞の地点へでて驚いた。水中にスパンと断層が抜けている。ビルの谷間といおうか。いや大きな年の駅前通りにいっぱい水をためたようだ。せめて15会建て以上のビルの群でないと、その大きさは想像できない。水底50mから見上げた大景観だ。
広間だ。大地底湖だ。」
この文章の大地底湖が始まりだった。その時、越智さんは、九死に一生にで浮上し、この文を書く。
大地底湖は、本当にあるのか?
前述のように、資金稼ぎの船底清掃作業で越智さんは命を落とす。そして、ビーバー集団は探検を続け、潜水を重ね、X洞を発見した。といって、確認の為に潜水する。上がってきての祝いのシャンペンを用意して、入っていったのだが、二人のうち一人が戻ってこない。次の日に遺体で発見された。その後が1982年の僕のNHK番組での潜水であり、久保君の現在続行中の調査に続く。
大地底湖はあるのか?
世界一美しいバンダ島の珊瑚礁へ 白井祥平
僕の水中探検の先輩である、白井祥平の1964年度のインドネシア探検の紹介である。先輩は、弱冠31歳でインドネシア政府、スカルノ大統領に働きかけて、未踏の海であったインドネシア潜水探検を企画し、実現してしまった。僕に一緒にと言われ、僕にもその義理はあったのだが、1963年に自分勝手な90m潜水をやり、その翌年、また長期の休みをとるなど、東亜潜水機のアクアラング部門の責任者としてできなかった。
それで、舘石さんを紹介したが、舘石さんとて、そんな探検にはつきあいきれない。で、舘石さんの水中造形センターのおそらく、最初の社員である永持君が行くことになった。
僕としては本当に行きたかったのだが、そんな探検隊、バルーナ探検隊というのだが、その探検記である。
インドネシアという国はすごい国、海洋国家で、自分の国の領分を自国の海軍で探検に行かなければならないような国なのだ。ところで、今、世界の海がどこでも観光化される中、バンダ島ってどうなのだろう。
この探検について、昭和57年 1982年に 「インドネシアの海を探る」として 太平洋学会が太平洋双書の1として出版している。航路図をみて、あらためて、考え込んでいる。行けなかったけど、もし、行っていたら?と、
そして今、2019年、この海域はどうなっているのだろうか。やはり、行けば良かった。
なお、永持君とは、まだ賀状の往復がある。白井先輩とは今年もお目にかかり、そのことはブログに書いている。
1967l年12月発足した「日本潜水会」ここで発表されている。
日本潜水会は、スピアフィッシングと縁を切る、やめようと言っているのに、グラビアは「舘石昭の海中探検シリーズ、大島の水中狩猟大会
とにかく,この1968年、2月号、僕にとって、波乱の海の世界だった。