マリンダイビング 創刊号 1969年1月号
マリンダイビング 創刊号からかなりの数を持っていたのだが、潜水部の後輩のT君が水中造形センターに就職するというので、お祝いにあげてしまった。その時にはまだダイビングの歴史を書くとは思っていなかったので、ダイバーなども処分してしまった。
現在の舘石社長に書写をしたいのでとお願いし、快諾を得ていたのだが、なかなかチャンスがなく、この今年3月にいよいよとお願いしたのだが、マリンダイビングフェアが終わるまでは待ってと言われ、今日に至っている。
また、この創刊号は、デンマークの潜水歴史協会の竹川さんという方と友人になり、デンマークから送ってもらったものだ。
魚もビックリ
この人知っているのだけれど、どうしても名前が思い出せない。
1967 趣味の魚殺しはやめようと、日本潜水会で決議しただが、まだまだ、ダイビングの主流は魚殺しだった。
重巡洋艦熊野をさぐる。
レックダイビング:サルベージ作業ではなくて、趣味で沈船に潜る。日本人初かもしれない。
舘石さんと館山湾に潜っていた1962年頃、館山湾の水雷根という水雷艇を魚礁にしたものに潜っていたが、そんなのは、数にいれないとすれば、これが日本人初めてのレックダイビングだ。
舘石さん以下、一緒に潜ったのは望月登、山本一雅、森良雄そして山入端きよ子さんだった。そしてこのとき60体分ぐらいの遺骨を引き上げている。
そのころの軍艦レックは、潜れば、遺骨の山だった。
ところで、このレック、今はどうなっているのだろう。話題にならない。解体引き上げてしまっただろうか。
益田さんの写真、すいしん70m 海洋公園の二番の根だと思う。
50mまでのニコノスで70mまで撮れたのだ。
全日本潜水連盟誕生、このとき誕生した全日本潜水連盟は、すぐ次の年
に、日本でのスピアフィッシングを合法化しようと、代議士小宮山重四郎を会長にした水中技術振興協会が発足し、それに吸収されてしまう。スピアフィッシングをやめた日本潜水会は、これに参加しない。ところが、その水中技術振興協会が空中分解してしまう。
そのいきさつなど、日本国籍ダイビング団体盛衰記、として書こうとしているが、これは、その貴重な資料になる。
明日を拓く 日本の海洋開発のすべて、
日本潜水科学協会が、科学者の研究、レジスポーツとしてのダイビングを捨て去って、海中開発技術協会となったこと、たびたび言及している。
その捨てられた時点では、苦情がましいことも、考えたが、「野放しにしてくれてありがとう」という気持ちもなくはなかった。
その海中開発技術協会が海洋開発を一身に背負ったように考えて、取り組んだ末、それが海洋科学技術センター(いまの海洋研究開発機構)に移管され、行きどころを失って、Uターンするのだが、その途中経過、まだ海中開発技術協会の手に海洋開発があると思っていた時点で、その理事であった山中鷹之助氏が書いたもので、その時点での海中開発技術協会の状況、考えていたことを知る貴重な資料である。
これによれば、その時点での海洋開発関連の予算規模は、ざっと54億円、その時点での僕の給与は、東亜潜水機入社以来9年目で10万円に満たない。日本アクアラングの上島さん(後に社長)が20万円程度、のと木の54億である。
この予算項目と金額、その配分を見ることができる。
なお、筆者の山中さんは、日本アクアラング東京支社が大塚駅前にできたとき、その支社長が、大学出たて、僕の同級生であった上島さんでは若すぎる?ということでか、どこかから来た人で、ダイビング関係者ではなく、おそらく、お風呂以外は水に入ったこともなければ、プールで泳ぐ姿を見たこともない。その上の帝国酸素の中村専務は、ウエットスーツを着て泳いだりしていた。とても良い人だったのだろうと想像するが、苦虫を噛み潰したような顔以外、拝見したことはなかった。
戸塚高圧は、タンク(小容器メーカー)で国産のタンクのほとんどを製作していた。レギュレーターも発売した広告だったが、実体は、当時のアメリカのヘルスウエイ社のレギュレーターのネームプレートを変えただけのようだった。
全国ダイビング関係団体名簿 これも僕にとって貴重な資料であり、その時点での混乱 ごった煮状況が偲ばれる。
まだ、PADIもNAUIも水平線上に姿を現していない。