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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1222 ダイビングの歴史51 整理

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ダイビングの歴史のブログも50回を越えた。 1954年の小湊、日本初のスクーバダイビング事故、から1957年の水産大学潜水実習、そこから、自分が学んだ事で、その後の自分のダイビングを考え、組み立てたこと、まで書いた。このまま事故小史を書いた方がまとまりが良いのかと思っている。
 一方で年表の細部 年代記は1965で止まっている。海底居住で少し突出したが1967年の日本最初のダイビング雑誌「ブルーゾーン」その展開からのロレックス杯水中スポーツ全国大会 日本潜水会、全日本潜水連盟の結成、マリンダイビング創刊を書こうとするところで止まっている。どうしよう。両方を立てて、じりじり進むか。
 いや、やはり事故小史を行ってしまおう。 ここから先、事故小史は、すでに書いてブログに載せているいくつか。
 まず、2018年 0209 2月9日の 「事故の歴史2 人工魚礁調査」
https://jsuga.exblog.jp/28089440/ 2月13日 1968年の事故報告書 
https://jsuga.exblog.jp/28121107/
 これは勝山の浮島周りで、東京アクアラングサービスの事故である。当時の事故と、捜索、その後処理などが克明に報告されている。 2月27日 1968年、
https://jsuga.exblog.jp/28162595/
 これは商船大学ダイビングクラブのスキンダイビング事故、
 ここまでは、すでにブログに載せている。 念のために1954の事故に関してのブログ 挙げておこう。
 12月13日 1954年の事故
https://jsuga.exblog.jp/28969608/
 
 12月14日 1954年の事故
https://jsuga.exblog.jp/28972614/ 112月18日 1957年の潜水実習
https://jsuga.exblog.jp/28983967/ 12月20日 1954年の事故
 https://jsuga.exblog.jp/29029314/
 ☆八丈島での,おそらくは空気塞栓と思われる、女子大生の死亡事故、これは、クラブツアーの事故であり、亡くなった子のお父さんの質問状とそれに対するクラブ責任者の答え。これは、ブログに載せようか、プライバシーの問題があるから載せられない。名前がわからなければ、良いのではないか、一度載せて消したりしているが、もう50年、半世紀前のことだから、良いのではないかなどとなやんだ。今ここで載せても、本には収録できないだろうから、やめようか。あらすじだけ載せても良いけれど、それでは、意味がない。などなど、まだ、なやんでいる。しかし、これは貴重な例であり、載せたい。 ここまでは、指導員(インストラクター)の講習がひたすら事故例の学習だった、日本潜水会の時代 
 事故が発生すると報告書が、何らかの形で出た時代である。 ここから先は 新聞記事 裁判記録、報告書が発表されているもの、などから代表的なものを拾っていく。
  
 ①静岡県での事故多発で県警がダイビング関係者を集めて、特別集会をひらいたこと、
 大瀬崎での事故
 ②雲見でのタンク爆発事故
 ③中田氏のハワイでの事故
 ④パラオでの漂流事故 同じような事故がインドネシアで2例ある。
 ⑤ニュース・ステーションで、自分たちが経験した危機一髪例、
 ⑥学生クラブでのいくつかの事故 スキンダイビング・セーフティに書いた。
 ⑦神津島での落水事故
 ⑧西川名の漂流事故
 ⑨バディが離れた事故 赤沢
 以下の☆印が重要な部分。
 ☆スガ・マリン・メカニックでの事故
 ☆そしてケーブル・ダイビング・システムとその失敗
 ☆科学研究ダイビングでの事故  
上げた例からの総括 まとめ
 
 これはもう、本一冊級になる。それを書いている間年表部分に進展がないと、ダイビングの歴史、生きているうちの完成が困難になってしまう。
 
 愚痴を言っていないで、とにかく進まなくては。 前に「本の書き方」のような本を読んだことがある。それには、ここに書いているような整理、まとめ的なこと、また愚痴、エクスキュースなど書いてはならない、とあった。そんなことは、個人的なことであり、他の人に見てもらうべきことでもなく、そして、退屈だから、人は読むのをやめてしまう。
 でも、一気にまとめられない、ブログで下書きとメモ、覚え書きのようなものをつないで行く手法では、これがないと、自分でも針路を見失ってしまう。 ☆☆☆
 人は生きている、生き物だから、その終わり、死は最大の関心事だ。死と向き合う、向き合い方は、人、個人それぞれだ。ダイバーの死、ダイビング事故に向き合うその向き合い方も個人それぞれだ。
 「ダイビングとは危険か?」と言う向き合い方もある。「致死性の商品スポーツ」というのもある。思いつくままに並べてみると、「安全潜水を考える(追求する)」「ダイビング事故ゼロを目指す」という絶望的なのもある。僕は、なんだろう。良いキャッチコピーが思い浮かばない。「死と向き合って生きてきた。冒険」だろうか。自分で振り返って、コロコロ変わるから、次に同じテーマを書くときは、また変わっているかもしれないが。
 「死と向き合う」その一が、先に書いた1954の事故と、その反省の上に立った1957年ダイビング講習すたいる。それをモデファイしていった以後の自分のスタイル。このスタイルは僕のダイビングの底流でもある。
 その二が、1958年 の初めての人工魚礁調査 だ。
 僕の「ニッポン潜水グラフィティ」にもこのことは、書いている。ここでは、そのグラフィティをもう一度見直し、加筆して、載せよう。僕にとって、僕のダイビングの本当の原点でもあるのだから。
 以下続く

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