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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1218 ダイビングの歴史 49 1957年のスクーバ講習

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           原田進 僕のバディ


 そうだったのだ。僕が受けた1957年の潜水実習は1954年の事故を底に敷いて改善、組み立てられていたということが、今わかる。 1954年に事故があり、1955年は潜水実習は行われなかった。 1956年、僕らの一級上、竹下さん、橋本さんの代に潜水実習は復活する。そのときの実習がどんなものだったか、僕は見ていないからわからないが、ロープの一端が身体に結びつけられ、櫓漕ぎの小さな和舟サジッタに先生が乗って、宇野先生がロープの端を持っている。長良川の鵜飼い状態で実習が行われた。これも伝聞だから、事実は、はどうだったかわからない。 が、とにかく、そういう話だった。 そして、僕は、鵜飼いはいやだと思った。自由に魚のように水中を泳ぎたい。それこそがジャック・イブ・クストーのコンセプトではなかったのか。一方で管理者は、事故が起これば紐をつけたくなる。この自由と管理はこの事故史の根底を流れる考え方であり、重要なことなのだ。覚えておいてほしい。 そして1957年、僕たちの潜水実習では、紐は使われなかった。僕たちの宇野先生は、かなり大胆な人だったのだと思う。
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    中央が水族館、左が実習宿舎水族館の二階が実験室


 ここで、小湊の実習場エリアの説明をすると、安房小湊は内浦湾という小さな湾を囲むような町で、湾の奥が、安房小湊駅、駅から沖を見て左手に日連上人が誕生したと言われる所以の誕生寺があり、寺の門前町を作っている。右手に水産大学実習場がある。現在は千葉大学に移管されて、千葉大学バイオシステム研究センターになっている。 水産大学実習場は、湾の右手に広がる磯の小さな入り江の奥に位置する。実習場は小さな、それでも瀟洒な円形建物の水族館になっていて、一階が水族館、二階が僕たちの実験場だった。水族館という観光施設を作る代償として、この両側が磯根の小さな入り江が禁猟区になっていて、僕たちの実験エリアである。この入り江が潜水実習プールでもある。
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舟着き場、サジッタでは無いが、同じような和舟が着けている。
これは漁師さんの舟、艪漕ぎで漁をした。エンジンは付いていない。


 1954の事故から3年後の実習は、小高い実習場から磯に降りていく階段の下の小さな桟橋から沖へ、沖へと言っても、入り江の入り口あたりまで、80mぐらいのラインを海底に伸ばして、そのラインに沿って、ラインの両側3mほどの幅の、つまり、幅が6m、長さが80mの短冊型の区域、の内、プールのようなものの内側で行われる。ラインを引くのはダイバーではなくて、サジッタからロープを繰り出す形で引いた。1954年には、ロープを曳いていて死んじゃったのだ。僕は、実習が終了して、ロープを回収しているときに起こった事故だと思っていたのだが。

 この桟橋から右手に15mほど、行くとサジッタを引き上げるスロープがある。ウインチを巻いて引き上げる。そこから左折するようにコンクリートの、巾1メートルほどの路が磯根の上を通っている。この路を30mほど行くと、マダイを飼っていた生け簀がある。観光客がこの生け簀で餌をやって、タイが餌を食べるのを喜んで見るわけだ。もっとも、タイと言っても、タイは、1ー2尾で、主にはメジナだけど。これは、対岸の鯛の浦でも、同じで、鯛よりもメジナの方が多い。その鯛生け簀の左手に張り出した磯の先に潜水台がある。 
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     現在はの千葉大学に移管されている。小舟を引き上げるスロープは残っている。
              小舟は無い。
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          現在、生け簀に魚はいない。昔あった手すりも無く、荒涼
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             磯根 左手が潜水台


 潜水台の上に手押しポンプをおいて、軽便マスク式の体験から潜水実習が始まる。軽便マスク式ライトウエイトのマスクは、水産に多く使われている。伊豆七島の追い込み網、テングサとり、北海道サケマスの流し刺し網で、網がスクリューに絡まったときの除去作業など、ホースで空気を送る式だから、面マスクを付けて、水に入っていけば良いだけだ。鼻をつまむことができないので、唾を飲み込む耳抜きになる。これは、深く潜らなければ、水深2mほどで這い回っているうちに自然と抜ける。本当に簡単、この簡単の延長線上で、タンクを背負って簡単に潜った。危険なの爪の先ほども考えなかった。1954年の事故の大本だろう。 
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 マスク式が終わると、手前の舟着き場から潜水台に向かってロープを引く。今度はサジッタで引く。ロープが浮かないように、所々に鉛を付けて降ろし、伸ばしていく。 このロープに沿って、潜水台と舟着き場の間をフィンとマスクで泳ぐ。そのころはまだ、スノーケルで水面を泳ぐと言うことをやっていない。呼吸は水面に顔を上げて呼吸する。そして、水中に潜って泳ぐ。僕はそれまで、葉山の磯でさんざんす潜りをやり、1956年、一年前には奄美大島でもぐっているから、もちろん、一番上手で、そして、潜水実習参加の同級生はみんな兄弟のようなものだ。 そのころの水産大学は、養殖学科(ぼくたち)が50名、製造学科(食品加工)が50名、漁業科(漁船にのって漁をする)が100名、併せて200名が一学年、それが4年として、800名、大学院に相当する専攻科が100名あまり、あわせても1000人にも満たない。 増殖学科は、養殖と資源に分かれるから、25名ずつ。これで、4年間、船に乗ったり実習の多い学校だから、本当に仲の良い友達ばかりだった。1954年には、その兄弟の2名を亡くしたのだから、白井先輩たちは大きな悲嘆とショックだったろう。 マスク式とスキンダイビングで二日間、三日目からスクーバ、アクアラングになる。潜水実習に参加した人数を数えてみると、9名だ。僕の終生のバディであった原田、後に日本アクアラングの社長になった上島さん中央水産研究所の所長になった原、南米に渡って成功し、お金持ちになった清水、カナダでマグロの蓄養で成功した松原、岐阜で水産試験場の上長になった立川、大島の水産高校の先生になった鈴木、残念なことに早く逝ってしまった。大阪で商売人として成功した伊藤 であった。今でも、この時代、この時、この実習の底抜けの楽しさ、いま思い出すと涙が出てしまう。なかの良い友達と、好きな、そして待ちこがれていた潜水、アクアラングの実習ができたのだ。
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 この実習に東京から、医科歯科大学の梨本先生が来てくれて、潜水医学の講義をしてくれた。絶対に息を止めて浮上してはいけない。浮上するときは声を出す。減圧症の予防、1942年版の米国海軍の表、このとおりに時間をとって停止して浮上すれば、減圧症には97%の確率でならない。なったとしても、腕が痛くなる程度で、病院で完治する。などを話してくれた。
 タンクの数は何本だったか覚えていないが、4本か、5本だった。午前中の実習で、減った分を、昼休みに充填する。120ぐらいになったものを持ってきて、循環式に使う。ほぼゼロになるまで吸うが、水深は2m前後だから、空気の無くなる感覚をつかむことができる。レギュレーターは、次第に苦しくなり、吸うのに苦労する段階で終わりにして、充填の小屋にそのまま背負っていく。 まずは、ラインにそって潜水台への往復、もちろんバディは並んで泳ぐ。次に、マスクなしで、往復、その前のスキンダイビング練習の時にマスククリアーは、イヤと言うほどやった。タイムを計って競争した。5秒くらいでできなければいけない。 ラインに沿っての往復は、必ず別のバディが水面を泳いで監視する。 そばにはサジッタを浮かべて気泡を追う。櫓漕ぎの練習は楽しかったので、僕は得意だった。潜るのが二人、水面監視が二人、櫓漕ぎが二人、助手のなぜか、魚類学の、服部仁講師、(すぐに海老名教授のあとの教授になる)が来てくれて監視に回ってくれた。それに宇野先生が総指揮で、回していく。 次に、舟着き場の前、水深1mで水中脱着の練習、そこここにウニがいるので、ウニに苦労した。 次にバディブリージングで潜水台を往復。ここまでを二日間、スキンダイビングの二日をあわせて4日になる。最後に、潜水台から、ロープを引かないで、1954年の事故が起こった深みへ、水深10mぐらいまで行く、もちろん、サジッタで気泡を追う。 この一週間の講習が、そのあとも、長い間、1967年に日本潜水会ができ、浅見さんのNAUIスタイルの講習になるまで、僕のスタイルになった。その後で作った潜水部の講習もこのパターンだった。 この講習の終わり近く、一番上手だったバディがラインを回収して、サジッタに上げた。僕と原田のバディがこれをやった。 この形は、後の日本潜水科学協会の中級講習でも踏襲されている。
               続く

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