全日本スポーツダイビング室内選手権大会 25回になった。辰巳国際水泳場ができた翌年に第一回をやった。その前身の全日本水中スポーツ選手権大会 手元にある資料、1976年のダイビングワールドで見ると、第9回だから、1968を第一回と数えている。
ともあれ、自分としては、1968年より、この行事の企画製作に関わり続けて来ている。 この25年来、毎回、開会式で実行委員長として、ご挨拶をさせてもらっている。このご挨拶がなくなったら、僕の存在は現時点ではゼロになると、そんなことを思い図っていただいているのだとおもう。何時の頃からか、このようなご挨拶、スピーチが不得意になってしまっている自分だが、できる範囲で努力している。スピーチの注文は「短く」である。これが一番難しいことでもあるのだが。 お話する事を三つに絞った。一つ目、この大会の目的は、「泳ぐスポーツであるダイビングの安全のために、日々泳ぐトレーニングを続けていなければならないのだが、その成果を競う。」すなわち、目的は「安全」である。次が、芯、趣意だが、それは、生涯スポーツ。そして、その三が「継続」。継続は力である。そして、なによりも、スポーツは楽しくなくてはいけない。選手のみなさま、及び、応援に来てくださっている方がどれだけ楽しめるかが行事の成否である。どうか楽しんでください。というような挨拶をした。 ご挨拶の段に登り、降りるとき、転げて怪我をするのではないかと心配であったが、スリッパが脱げただけで、なんとか無事に切り抜けた。 行事を主催している社会スポーツセンターと自分が関わった、その始まりと、テーマは「生涯スポーツ」であった。1988年であったが、以後、やがて日本の国は高齢化が進む。高齢化社会をどうやって、国民が幸せに時を過ごして、乗り切ることができるか。できなければ、高齢化社会は高齢者にとっての地獄になってしまう。そして、その医療費は国の財政を圧迫する。 そして、現在2018年は、そのような社会になりつつある。 その高齢化社会で国民が生きる価値を見いだして行く、その一つとして、そしてもっとも大きなテーマとして生涯スポーツが取り上げられた。文科省の中でも、競技スポーツとほぼ同じウエイトで生涯スポーツが取り上げられ、振興策が種々取り上げられたが、ことさらに生涯スポーツとして成功したようなものは無く、競技スポーツの中に包含されるようになっていく。それはそれで、良いと思う。すべてのスポーツが生涯スポーツなのだ、競技のエリートスポーツは、そのスポーツマンの生涯の一時期、それはもっとも輝く瞬間であろうが、それは瞬間なのだ。オリンピックで表彰台に登り日の丸を見上げても、それはその時だけのこと、残りの長い時間、長い季節は、生涯スポーツの指導者、あるいは実践者として過ごすことになる。とすれば、スポーツとは、生涯スポーツが中心であるべきだろう。中心ではないまでも、大事にしなければならない。 僕は、ダイビングのスポーツ的側面は生涯スポーツであると思い定めて、社会スポーツセンターに加わり、当初は常務理事として、現在は顧問として、ダイビングライフの後半、ほぼ30年を過ごした。 前身の全日本水中スポーツ選手権大会と今の全日本スポーツダイビング室内選手権大会(紛らわしいが)との決定的な違いは、昔の水中スポーツの方は、競技スポーツを目指していて、全国各支部が予選を行って選手団、チームを送ってきて、それぞれの支部チームが、国体のように優勝を争うものであり、子供たちから、高齢者までが競技を楽しむ生涯スポーツの要素は小さい。現在の全日本スポーツダイビング室内選手権大会は、チームが争うという側面もあるが、生涯スポーツの要素がむしろ大きい。趣意、芯は生涯スポーツなのだ。その同じ昔、1976年に生涯スポーツの大会に位置するものは、「クラブ対抗水中競技会」があったが、やはり、対抗であり、親睦会的な要素は大きくあるものの、生涯スポーツという概念は明確ではなかった。
全日本スポーツダイビング室内選手権大会 の競技、そしてそのルールは世界に類のないものである。ダイビングの先進国であるアメリカにもフランスにもこのような競技会はない。競技に出場参加するのは、6歳(今回は8歳になっていたが)から81歳まで(今回、僕が出場すれば83歳になったが)人間がスポーツをできる、ほぼ全年齢域をカバーしている。そして、主要競技については、10年間隔の年齢別にチャンピオンをきめている。 僕がこの大会に選手として出場したのは、1996年、第12回、61歳、400m、フリッパー競泳(フィンで、フィンだけを使って泳ぐ競技)であり、60歳以上の出場は僕一人であり、泳ぐ前から金メダルが確定していた。つまり、60歳以上の出場の先鞭を切ったわけだ。次年度からは、60歳以上の出場が増えて、競争に打ち勝って金メダルをとった。1998年、63歳で、6分29秒で泳いだときには、50歳代の人を何人か抜いての記録だった。今では、60歳代の出場者は、全種目で多くなり、真の意味での生涯スポーツになっている。その先駆として、該当年齢枠一人での金メダルもそれなりに価値があるものだと思っている。
この競技会は、水面を泳ぐ 競技だけではなく水中を泳ぐ、浮いたら失格になる潜水競泳とバディブリージング競技がある。これら、潜水競技は水中撮影で見てもらわなくては、その迫力は伝わらない。現在は、バディブリージングを実際の潜水で行うことは殆どなく、予備のセカンドステージで呼吸するオクトパスであり、数年前は、出場選手も少なくなってきていた。時代遅れのバディブリージングはやめて、オクトパスブリージングの競技にしたらという意見もでた。とんでもない、と反対した。海での緊急時にはオクトパスを使うとしても、そのトレーニングには、バディブリージングは有効であるし、何よりも、その競技の根元になっている部分を変えたら、これまでの記録が意味をなくしてしまう。 幸いにも今年度は出場選手も多くなり、2レース行うことが出来、記録ものびた。そして、大スクリーンで見る水中映像も大迫力で、すごいスピード感があり、今年度、はじめて陸上カメラ撮影を受け持ったカメラマンは、上から見下ろして、マグロが直進するイメージだったと言っている。
その水中撮影だが、毎年、僕の母校の東京海洋大学潜水部の二年、一年に担当してもらっている。(今年は二年の人数が足りず、3年がキャプテンになったが)動画撮影の練習にもなる。こ年の撮影チームは、撮影も上手だったし、良いチームだった。 しかし、東京海洋大学潜水部は、チームとしての参加は無く、海洋大学は別のクラブ、マリンレスキューチームの出場があっただけだった。創立者として少し寂しい。 一方で、長年お世話をしてきた、東京大学海洋調査探検部が、初参加してくれた。 さて、楽しんでもらえただろうか、ということ。フェイスブックなどで見る反応は上々である。来場されたかたは、たぶん、これまでの大会でも、屈指に喜んでもらえて居たのではないかと、肌で感じることができた。 心残りは、僕が出場しなかったことだった。