1978年 昭和53年 潜水と水中撮影入門 後藤道夫 須賀次郎共著 共立出版、この本はSSP 自然写真家協会を創立する竹村嘉夫氏のコーディネートで作られた。後藤道夫と僕の、形に残っている唯一の仕事である。 「水中写真の撮影」1973年から、5年後の1978年の本である。 この本をコーディネートしてくれた竹村さんは、1957年、日本潜水科学協会ができたとき、東海区水産研究所におられた水産大学、水産講習所の先輩で、白井祥平先輩の師匠格であり、「どるふぃん」に水中撮影について何回か、理論的なことを書かれていた。後にSSP 自然写真家協会を設立されて、僕も理事に推薦してくれて、理事になった。ちょうど間が悪く、自分のスガ・マリン・メカニックが戦闘状態になっていて、出席できず辞めてしまった。勿体ないことをしてしまった。その竹村先輩のお世話になってこの本はできた。
今度は、研究者とか、リサーチの撮影ではなくて、レジャーダイビングも視界に入れたもので、「ニッポン潜水グラフィティ」にこの本の紹介をしているので、引用する。 「すばらしい挿し絵を加藤たかし氏に描いてもらって、絵の力を借りて、水中撮影の状況をわかりやすく説明している。 152pのうちで、30pを撮影のための潜水入門に使っている。安全のための潜水システムとして、二人一組のチーム、バディを二つ、4人を最低単位とするのが理想であるとかいた。これは、今の考え方と同じでありダイビングをチームプレーとして、考えている。」 ここまでが、この本の考え方であり、楽しみで撮影する人対象である。
しかしながら、現実には、ダイバーはカメラを持ったら、ソロであり、プロのカメラマンはほとんど、一人で潜る。僕もご多分に漏れないが、それだけに、カメラを持ったら、ダイバーは原則とした自己責任である。ただし、自分の安全のために、プロのガイドダイバーを雇うならば、安全は彼と責任を分け合うことになる。 ※これは、今の考えである。この時代、こんなことは、この本には書いていない。まだ、自己責任が当然の時代だった。 僕は、ハウジングの販売もしていたけれど、同じようにスクーバでの調査仕事もしていたし、レジャーダイビングのクラブ・ショップもやっていた。いろいろやらないと食べられなかったし、また、いろいろやったことで、八百屋になってしまった部分もある。カメラハウジング一本に絞れば、良かったのかも知れないが、後藤道夫のように自分が工作機械を駆使して物を作ると言うことができなかった。自分で行動するとなると、ダイビングだった。だから、次第に調査の方にウエイトが乗り、自分の作ったカメラ機材で調査をするという方向に向かうことになり、一般向けのハウジングからは次第に遠ざかっていく。後藤道夫は自分がカメラマンである比重を次第に少なくしていき、特注の大型機材専門になっていく。 僕が海へ出て行き、後藤が海から陸へ、その交差したのがちょうど、この本のころから、1980年だった。
この本で、もうひとつ、自分としてのポイントは、記録カード、撮影記録カードである。 そのころ、自分の調査潜水としての目標の中心は人工魚礁だった。その人工魚礁もそのころ丁度、節目だった。それまでの人工魚礁は、1mとか1.5m角のコンクリートブロック多数を積み重ねて、山にしていく方向だったが、それだと、ブロックがつぶれてしまったり、予定の形に積めなかったりする。それよりも、大きな、一個の魚礁で、1m角の数十個分の大きさにする大型魚礁に変わってくる。その大型魚礁は、各社様々な形を作ってきた。そのどれが良いのか、一カ所に入れてみよう。大磯がその場所になった。 人工魚礁オリンピックなどと言われた。そのオリンピックが何時の頃だったのだろうか、その記録は?とさがしたが無い。その潜水記録カードがここにあった。昭和53年、1978年、この本を書いていた時のことだったのだ。これがなかなか優れたカードだったのだが、このころ限りでやめてしまった。今まで続けていたら良かったと悔やんでいる。 この記録を見ると、タイマーカメラ(一定時間ごとにシャッターが切られる)をセットしていることがわかる。この頃から、スガ・マリン・メカニックは、タイマーカメラ(間歇撮影)を売り物にしていく。
なお、この円筒形の人工魚礁は、住友セメントの作ったもので、今、浦安海豚倶楽部(スキンダイビングクラブ)の昨年度の会長さんをお願いしていた玉田さんのお父さん(久木さん)だった。縁は繋がって行くものだ。
この本の時代になると各社のストロボが出そろっている。スガ・マリン・メカニックのシーレビン、sea & seaのイエローサブ、後藤道夫が作って東芝が売り出したトスマリーン、サンパックマリーンである。
ニコノスはⅢ型になり、超ワイドの15mmレンズも発売された。