1972年 昭和47年、 水産大学後輩の小池康之講師(当時)と共著で、「水中写真の撮影」を厚生閣から出版する。この本は、1970年代の水中撮影のすべてを書いたつもりである。良い仕事だったと思う。」 1978年 昭和53年 潜水と水中撮影入門 後藤道夫 須賀次郎共著 共立出版、この本はSSP 自然写真家協会を創立する竹村嘉夫氏のコーディネートで作られた。後藤道夫と僕の、形に残っついる唯一の仕事である。 この二つの本を、その挿し絵、写真などを見ながら、少し詳しく紹介したい。1970年代の日本の水中撮影技術、撮影機材の曲がり角だったと思う。
「水中写真の撮影」 共著者の小池さんが研究者であったことから、どちらかと言えば研究者むけ、調査ダイバー向けを意識していた。まだ、調査ダイバーという仕事は明確なものではなかったのだが。 調査、研究というものは、同じ場所、同じ位置に行かれないと継続、完結できない。同じ場所に行くのは、陸上ではたやすいが水中では難しい技である。六分儀による位置だし、三間分度器による記録なども述べているし、ライン調査の連続撮影などにも触れている。 カメラについてだが、 ニコノス 水中カメラといえば、ニコノスに尽きていた。ニコノスでスチル写真は撮れる。まずは、ニコノスによる写真術から見ていこう。 しかし、ニコノスに用意されているレンズは、UWニッコール28mmとニッコールワイド35mm、それと80mmであった。ニコノスの前身はクストーらのグループが作ったカリプソで、これは、ほんとうにすばらしいメカニズムであった。ニコノスがカリプソから格段に進化したのはUWニッコール28mmで、これは、陸上のレンズをそのまま水中に持って入った時の収差による周辺部の歪みを補正してある。 28mmは陸上では、広角レンズであるが、水中ではレンズ面での光の屈折の望遠効果で、水中では37mm相当、画角は60度になる。今時の水中90度以上のレンズとは、比べものにならないほど狭い。透視度で制限される水中では、できるだけ接近して広い範囲を切り取りたい。 昔の写真が下手に見えるのはこの画角の狭さのためだ。やがて、ニコノスも15mm、20mmの超広角ができてくるが、まだ、少し先の話だ。
そして、そのころのカメラはAE.オートフオーカスではない。二十像合致でピントを合わせるか、目測、目分量で合わせる。距離を測るための棒をもって撮影したりもした。しかしこれが、ややこしい。人間の目がマスク越しに水中をみた場合、4分の3の近さに見えるのだ。カメラは人間の目と同じ距離感なのだが、実測すると補正した距離にしないといけない。 要するに、人間の目で見て、距離が1mであれば1mに距離を合わせれば良いだけのことなのだが、考えると混乱する。だから、ニコノスのカメラマンは、自分の距離を持っていなくてはならない。たとえば海洋公園の益田さんは、28mmレンズで1、5mが自分の距離で被写体の魚が、大きくても小さくても、レンズから1、5mに来た時だけ、シャッターを押す。
スガマリンのブロニカ 初期のもの
ブロニカ それにしても、一眼レフでピントを合わせられればどの距離でも、ぼけていない写真が撮れる。そしてもう一つ、フィルムサイズの問題がある。大きいフィルムサイズでないと大きく伸ばせない。撮った写真を売って商売をするカメラマンは、大判サイズでないと高く売れないのだ。35mmサイズよりも。ブローニーフィルムで6×6とか、6×9のサイズで撮りたい。ローライは、6×6の高級機でピントも合わせられるが、そのローライマリンは、ワイドではないのだ。6×6版の一眼レフで、50mmというまあまあワイドなレンズを持つブロニカのハウジングをそれぞれ、競って製作した。僕のスガ・マリン・メカニックもブロニカでスタートしたし、sea & seaも、オレンジボックスも、菅原さんの潜水研究所も、タテイシブロニカマリンもだ。もちろん、僕は、自分のブロニカマリンR116は、球面レンズを前面ガラスにしているので、ベストだと思っていたが。
ペンタックス 17mm アサヒペンタックス、一眼35mmに対角線魚眼という超ワイドレンズがあった。魚眼とは、画面が丸くなるのだが、その円に内接するフィルム画面を入れると対角線魚眼になる。水中撮影は、ワイドにできれば、できるだけワイドが良い。朝日新聞のカメラマン、工藤五六から、これをハウジングに入れられないか、と相談が来た。ワイドだから、ドームに入れなければだめだと思って、いろいろやってみたが、うまく行かない。五六氏と相談して、どうせ超ワイド魚眼なのだから、周辺部はどうでも良い、と平板のポートにした。これがうまく行った。なぜ、うまく行ったのか光学的な説明は、ペンタックスの本社に聞いてもわからない。結果オーライだ。このカメラを持ったら、何でも撮れる。ほぼ、無敵というきもちになった。僕らの撮影フィールドは、東京湾、および、本州太平洋岸だ。透視度は、おおむね3mと思っていなければならない。ピント合わせの必要もなく、モノクロ高感度フィルムで何でも撮れる。調査とか報道には、ベストで、かなり、といっても数十台売れた。このハウジングの初期のものは、正方形に作った。オーリングの使用には、円筒が基本で、四角はタブーなのだが、これもうまく行って、荒い使い方をする僕だが、そして、五六も、新聞社のカメラマンだから、タフな使い方をしたが、水没しなかった。「これは、四角だから、気をつけないと水没するぞ」というケアーが良かったのかも知れない。 1970年代、傑作のカメラだったと思う。
水中照明 フラッシュバルブ 水中の人工光は、昔も今も、水中撮影の要である。今のカメラ派ダイバー(あんまり好きな呼称ではないが)は、ほぼタカアシガニだ。 まずは、フラッシュバルブを光らせた。一回シャッターを押す度にコカコーラ一本分の閃光球が飛んでいく。最初は使用済みの球を海中に捨てて、海洋汚染に貢献していたが、すぐに、これはいけないと気づき、様々なホルダーを考えた。僕の愛用していたのは、後藤道夫製の10mmのスポンジ生地に穴を開けたもので、これにバルブを差し込んで置き、上腕に取り付ける。接触不良にならないように、ワイヤブラシで球の接触部分をワイヤーブラシで擦るのにもべんりだった。
ストロボ 陸上の撮影では、ストロボが人工光の主役になりつつあった。水中では、もちろんストロボが良い。バルブ(球)の処理を考えなくても、良い。大光量、積層電池を使う大型ストロボを、円筒のケースに入れた。それを伊豆の海洋公園でテストしていた。最初のうちは快調に光ったが、何回目かに、電撃が身体を走った。漏電したのだ。まるで稲妻に撃たれたようだ。中層に浮いていて、電気がアースしなかったので助かった。足が海底に着いていれば、危なかった。死んだかどうかはわからないが、無事にはすまなかっただろう。この電撃を避けるために、ストロボは弱電流のトリガー回路がついているのだが、このテストにはついていなかった。早速改善して、商品として売り出したが、名前を「シーレビン」海の稲妻と名付けた。
水中ライト 8mmフィルムのシネ(映画)も、よく使うようになった。レジャーダイバーもシネ撮影フアンが増えてきた。エルモの8mmシネカメラのハウジングもよくできていたと思う。フィルムで撮影すると、当たり前の話だが、フィルムだから現像にださなくてはならない。現像があがってきたら、これを映写機で映写してみるか、プロジェクターで見なければ、見られない。このフィルムを切ったり貼ったりして編集しなければならない。フィルムも悪くはないけれど、これだけは、今のビデオが良い。 その映画を撮るためには、ストロボやバルブでは、ダメで、連続的な光、ライトが必要である。アマチュアとプロの違いは、持っているライトの光量の差だった。今では全員が強力なバッテリーライトを持っているが。これは、2000年以後だと思う。2012年のシンポジウムでは、今後はスチルもライトの時代がくると唱えたものだった。 プロは大光量のライトを持たなくてはならない。バッテリーライトではすぐにバッテリーアウトになる。船の上で発電器を回して、有線ライトで1キロのライトを使った。カメラマンの他に、このライトを持つライトマンが必要になる。そして、動ける範囲はケーブルの長さだけ、半径100mの範囲である。そのころの僕の撮影のアシスタント、ライトマンは現在スリーアイの高橋実だった。 茨城の海で、人工魚礁の調査撮影をしたときにことだ。県の試験船、「ときわ」に乗っていた。「ときわ」の鳥羽船長は、操船の名人で、大きな船なのに、僕らのケーブルに追従して、危ない浅瀬にまで来てくれる。ケーブルを追って船を操れば、撮影範囲が拡大する。船とのチームワークが重要なのだ。 ところが、ある時、急流(ダウンカレント)に巻きこまれた。高橋と二人、ライトケーブルにしがみついて助かった。このときをはじめとして、80年代のニュース・ステーションでも有線ライト、ケーブルに助けられたこと数しれない。僕が生きているのはケーブルのおかげだ。 でも、1969年に独立してスガ・マリン・メカニックをつくり、1972年にこの「水中写真の撮影」を書くまでの3年間に、これだけのことを書く経験、実績を積むことができた。現在の20年分ぐらいの人生だった。若い人たちの3年は、高齢の20年分に相当する。