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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1127 ダイビングの歴史 43

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ダイビングの歴史 43 後藤道夫メモ  シートピアなど、国家予算でのダイビングの話題が続いた。調べていくと当時見えなかったことが50年の歳月を間において見ると、俯瞰するように見えて、見えてくる。でも、ここで停滞していると、目的地に到着しないし、悩んでいる。 そう、後藤道夫メモが、1967年、日本潜水会を作ったあたりで置き去りになっている。このラインも捨てられない。終わらせなければ、尻切れトンボだ。 この項の話は、個人的なことなので、ダイビングの歴史には載せられないが、そのころの僕らの軌跡である。  ※後藤メモは、ゴシック、須賀「 」は、須賀の状況   1968年 昭和43年 6月 中部日本潜水連盟講習 マリンビレッジ 日本潜水会と同じプログラムで名古屋中心の潜水連盟ができて、その第一会の指導員講習会で写真をおしえた。 9月~ 日本一周海底キャラバン計画 出発 撮影用具開発実行  後藤は何か始める時に、まず自分で機材を作るところからスタートする。機材から入る人なのだ。それも自作で。  計画の出発であり、実際の出発ではない。  人気グループ V6 のビデオクリップ 「それぞれの空」がこのキャラバンをテーマにしている。金丸監督が製作した。この時代のダイビングへのオマージュである。  1969年 昭和44年 5月 キヤノン試作開始 テスト テスト テスト 9月16日 第一回遠征 奄美加計呂麻島へ出発 12月21日 帰社 3ヶ月のロケだ。    1970年 昭和45年 7ー8ー9ー10ー11 文無し生活続く 9月 麻雀狂 スタート  「麻雀狂の元凶は、日本アクアラングを退社する浅見国治で、後藤、須賀浅見、この三人で日本潜水会を作ったのだから、僕もこれに巻き込まれ、麻雀とダイビングを往復連続、徹夜の後ダイビング、もどってまた徹夜して、心臓の発作を起こした。」  須賀「一方で僕は東亜潜水を退社して、自分の会社、スガ・マリン・メカニックを作って、カメラハウジングを作ったり潜水専門プールの新設に関わったり、ほぼ文無し、綱渡り生活をしている。」 ※これらの私記部分は「ダイビングの歴史」には掲載しない。「ニッポン潜水グラフィティ」番外記のようなものである。 12月 体調不良    「後藤道夫も当然倒れる。」  1971年 昭和46年 6月 奄美加計呂麻島準備ロケ  加計呂麻の阿多地湾が後藤のホームベースになる。日本一周は、ここで一時停止、ここから先に行かなくなる。ここで、写真集「珊瑚礁の海」の撮影もするし、テレビ番組「マチャアキ海を行く」の撮影も始める。マチャアキのここでの作品を見ると、本当にいい雰囲気だ。  7月 鬼怒川顧問に なる。  須賀「僕も一緒にキヌガワの顧問になる。杉田泰造社長、杉田会長とともに麻雀に明け暮れしながら マンティスの基本コンセプトを考え出す。後藤の作ったマスクをキヌガワで作ろうとしたのだがゴム型が磨耗してしまって使えず。なら新しく画期的なマスクを作ろうとして始めたものである。 外見のスタイルファッション重視がコンセプトで、サングラスのイメージ、カマキリを意味するマンティスである。」 「なお、日本の、いや世界のダイビングマスク史上最高の傑作と自負できるマンティスは、基本コンセプトは、杉田社長を中心にして、後藤道夫、そして須賀で、デザイン、外見の絵を描いたのは、匹田進(グラフィックデザイナー)で、設計は現ダイブウエイズ社長の武田寿吉である。つまり、匹田さんの書いたデザインを見て、あれこれ議論して、杉田社長が決定した。」」  8月 鬼怒川のカタログ写真撮影でグアムに行く。
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 須賀「僕は行っていない。忙しくて一緒にいけなかったのだが、行かれなかったことを密かにひがんだ。」  奄美加計呂麻ロケ 夜間撮影 10月 講談社 「スキンダイビング」執筆開始  1972年 昭和47年 6月「スキンダイビング」 刊行 8月 水中写真集 珊瑚礁の海企画出発  12月 社員・林元吉 潜水病になる。   林君は日大水泳部出身である。当然、フィジカルは強い。定置網の調査で、後にダイビングサービス部門を独立させる志村喜徳 と一緒に潜水した。水深、潜水時間などの記録は手元にないが、定置網だから、40ー50mと推察できる。二人で一緒に潜水して、志村は何ともなく、林君はその場で倒れるような激烈な症状だった。腰から下、下半身不随になったが、根性のリハビリで、歩く不自由はなくなり、ダイビングには復帰しなかったが、ウエットスーツ屋さんになった。  須賀 「1972年 須賀は、水産大学後輩の小池康之講師(当時)と共著で、「水中写真の撮影」を厚生閣から出版する。この本は、1970年代の水中撮影のすべてを書いたつもりである。良い仕事だったと思う。」 自分の活動も織り込んで見ていくと、その時代の模様が見えてくる。  1973年 昭和48年  10月 大型水中カメラ完成(海洋博映像用) 12月 ミクロネシア パラオ島ロケ 90日間  1974年 昭和49年 7月 カリブ海 ボネール島 海洋博に使う大型写真撮影30日  8ー9月 奄美加計呂麻島 海洋博;松下電器映画ロケ 60日  10月 DOスポーツポスター 林堂シンコ 撮影 
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 1975年 昭和50年 6月 海洋博 全日本潜水連盟写真展準備 7月 沖縄海洋博  1976年 昭和51年  1977年 昭和52年  9ー12月 マチャアキ奄美ロケ  マチャアキ海を行くの、最初は後藤の企画で後藤がが撮った。  海洋博の大型映像、写真集、テレビ番組と、カメラマンとしての後藤は、その頂点に立つ。しかし、そこからは、次第にもの作り、ハウジング作りがメインになっていく  1978年 昭和53年 8月 キヤノンF8号完成試写  須賀「潜水と水中撮影入門 後藤道夫 須賀次郎共著 共立出版、この本はSSP 自然写真家協会を創立する竹村嘉夫氏のコーディネートで作られた。後藤道夫と僕の、形に残っついる唯一の仕事である。」 ※この本に、当時僕が使っていた潜水記録カードを載せている。これは、良いカードだったのだが、続けていない。今まで続けていればよかったと反省している。 このカードに大磯での魚礁調査の例を使っている。これは魚礁メーカー各社の大型魚礁の優劣を見ようとした通称「魚礁オリンピック」などといわれた。後にこの記録が必要になり、せめて、この調査のカードだけでもと探したが、ここに収録したものだけがのこっている。昭和53年、1978年4月で、アシスタントは、シートピア海中居住にも参加していた新井拓であり、魚礁は住友セメントのもの、担当していたのは久木さん、今、浦安海豚倶楽部で去年の会長をやっていた玉田規子のお父さんである。  1979 昭和54年  1980年 昭和55年 9月キヤノンマリンカプセル 初納入 このキヤノンは後藤道夫畢生の自信作で円筒形であり、水漏れはほとんどない。ない。
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 「僕も1台押し売りされた。こちらもハウジングを作るメーカーをやっているのに、である。 このキヤノンハウジングは、今も手元にある。 超ワイドとマクロ、レンズ交換ができる。」  後藤メモは、このあたり、1980年で一応終わりにするが、このような付き合い、というか、つかず離れずの二人三脚は2014年に後藤が亡くなるまで続く。後藤道夫と僕の最後の仕事は福島の水中、放射能精査装置の製作であった。 
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