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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1122 ダイビングの歴史 42 海底ハウス

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ダイビングの歴史 42 海底ハウス  日本人に海中居住のことを話題にすると、「海底ハウスですね」という答えが返ってくる。海底ハウスを誰が作ったかと言えば、ダイバーでももう忘れている人が多いかも知れないが。 1968年、四国のみかん園をやっていた、田中和栄さん、当時28歳が、一人で海底ハウスを作り、宇和島の海底10mに沈めて、その中で一週間滞在してしまう。 いま2018年、海中居住の歴史を調べて並べてみると、1968年の日本中の大きな話題になって当然と言える。海中世界は海中居住の渦のなかにあり、日本のシートピアも国家予算でスタートしようとしていた。
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 和栄さんは、1971年この海底ハウス「歩号一世」を沼津、三津浜の水族館に近接して沈めて、海底村として観光施設にする。 世界の海中居住が、その行く末に観光施設を考えるのだから、これも、先取りしていたと言うべきか。 この海底ハウスに笹川財団の笹川良一会長が興味を持ち、水中に入ってハウスを訪れる。笹川会長の一生に一度のダイビングである。そして、スポンサーの一人になり、今、このハウス、「歩号一世」は、船の科学館の前庭に置かれている。 「歩号一世」は観光施設としては、何とも小さい。もっと大きいものにしよう。四国の来島ドックの坪内社長を説得してスポンサーになってもらう。
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 二号は60平方mあり、ドライルームとウエットルームに分かれていて、大きな窓もあり、快適な応接室のようだ。  ※使用したテキストは、①「海底ハウス 田中和栄物語」登坂将司 新日本文芸協会 ②雑誌ダイビングワールド 1975 創刊号 ③雑誌 海の世界 1976 8月  二号もダイビングの施設として、成功を収めていたが、一般向けの、観光施設としては、その往復が問題である。水深3m、と6mにエアーステーションがあり、段階的に潜っていくのであるが、スキンダイビングができる人には問題ない。それでも、耳の抜けない日には行かれない。一般の人には、無理だし危険もある。
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 モノレールのようなものがほしい。三号の準備、金策をしなければならない。成功したと言っても三号がつくれるほどのことはない。 そして、恐れていた事故が起こる。 1976年 ハウスを訪れた、ダイビングのできない女性が浮上するときに空気塞栓で死亡してしまう。 直ちに施設は閉鎖する。  和栄氏はあきらめない。3号の金策に奔走し、1982年その目処が立ったとき、自動車のもらい事故で頸椎を損傷し、全身不随になってしまう。  僕は、残念なことに海底ハウスを訪れたことはない。歩み1号は、大崎映晋氏、工藤昌夫氏らが、お世話をしている。僕とは所属リーグが違った、接点がない。 和栄氏とお目にかかったのは一回だけ、彼は、ダイビング作業もしていて、その関連で会った。是非遊びに来てくださいと誘われ、行こうと思っているうちに悲劇になってしまった。  3号が一般向け観光施設として成功するかは、疑問がある。世界の海中居住が終わったように、一般向けとしては、終わっただろう。しかし、ダイビング施設としては、悪くない。お元気であれば、その行動力、実行力で、その一角を占めていたことは間違いない。すでに、占めていたのだから。施設と海を持っていることは強い。その上に、船の科学館との連携も作っていた。 僕とも、何か一緒の仕事ができたとおもう。言うまでもなく、紆余曲折はあっただろうが。 

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