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0204 シンポジウム 中央大学海洋研究会


中央大学海洋研究部の活動紹介
  関東学生潜水連盟 中央大学海洋研究部
    中央大学海洋研究部  藤島靖久 監督  齋藤慶介 主将
 
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 大学、特に関東学生潜水連盟については、古くから熱心で、なぜそんなにまでして学生に入れ込むのだと周辺に言われることも幾たびか。
では、なぜ?と言われると、1967年、日本潜水会を作った時、学生も何人か参加していた。学生も含む指導組織にしようとしていた。しかし、学生は、自分たちは自分たちだけでやる。社会人のダイビングとは違うと、別の組織、関東学生潜水連盟を作った。その時は、もう学生の面倒など見るものかと思ったが、ある意味でこの分離は成功だった。その後、僕たちの日本潜水会は、全国統一組織を目指して、全日本潜水連盟を結成したが、組織として変転、変節を重ねた。一方学生連盟の方は、そのような変転は無く、各大学、40周年、50周年を迎え、関東学生連盟も同じ年輪を重ねている。学生独自の組織であったことから、指導団体の離合集散、米国の指導団体との摩擦、そして、それに組み込まれることも無かった。しかし、一方で、社会と断絶し、自己完結することは、いわゆる野放しであり、ガラパゴスである。同じパターンの死亡事故が続いたことも知らなかった。一つの死亡事故のほうは、一番親しくしていた大学であり、関わりを持っていれば、事故は起こらなかったのではないかと責任を感じた。
以来、その時々で温度差はあったが、学生連盟には関心をもち、自分の母校である水産大学、娘の母校となった法政大学とは、親しい関係を持った。ある時にもらった学連の合同合宿の報告書を見ると、驚くべきことに合同合宿が酒盛りの場になっているように見えた。禁酒しろとは言わない。しかし、飲むことが目標のように見える合宿報告がある一方で、事故が起これば、学生連盟が消滅してしまう。
スクーバダイビング業界にとって、大学をお客様のたまり場であり、ショップと連携した同好会を作らせれば、利益が出る。学生の方も、ショップにすべてを任せておけば安心である。だから、現在も関東学生潜水連盟所属のクラブよりも同好会の数の方が多い。
生態学的に見れば、それが流れであり、そのことには反対しない。しかし、それで、関東学生潜水連盟など無い方が良いのかというとそれは違う。大学の部活動、ダイビング部活動の教育的な意味があり、スポーツとしてのダイビングを考えた時、学生が参加しないスポーツなど、考えられない。
自分にできることはやらなくてはいけない。長く常務理事をつとめさせてもらっていた文科省の財団法人である社会スポーツセンターとの協力関係を築こうと努力した。現在、全日本スポーツダイビング室内選手権大会と呼ぶ、フィン、マスク、スノーケルを使った競技大会がある。これも、そのルーツは1968年に日本潜水会が始めた競技会であり、ロレックス時計をスポンサーにした全国大会では、法政大学が常勝の時代があった。併行して関東学生潜水連盟も、その主催する年間の最大イベントとしての競技会があり、学生の多くはこれに向けて練習を積む。この競技会を繋いでの協力関係を強くする努力を重ねた。
現在の学連のダイビング部活生活を見ると、各大学若干のちがいはあるが、二年生が一年生を教え、三年生はそれをカバーする形で一年生講習が始まる。5-6月と二か月はそれで、プールとか、限定された水面で練習する。6月―7月ぐらいまでの間に、ダイビングショップなりダイビングサービスなりで、インストラクターからC-カードの検定を受けて、C-カードを取得する。その後、夏合宿、秋の合宿でそのシーズンは終わる。C-カード講習を行うインストラクターは、例外はあるだろうが、C-カードを発行するだけの付き合いで合宿とかツアーは自分たちだけで行う。監督とかコーチがいれば、その監督下で行うが、居なければ、自分たちだけで行う。一年の経験しかない二年生が一年生を指導する。監視する三年生といっても経験は2年しかない。だから、監督、コーチがいない大学は薄氷を踏むような思いがする。生命の危険があるスポーツ活動で、監督・コーチの居ないスポーツなど一般には想像できない。強くかかわっているつもりの僕でさえ、17大学が参加している学連の監督・コーチの名簿を見たことがない。
監督・コーチが居ない部については、上級生の実力を向上させなくてはいけない。そして、学連の安全についてのバックアップをする組織と機会をつくろうと、2003年、東京医科歯科大学の真野先生、順天堂大学の河合先生らにお願いし、そのバックアップの元にSAI (スチューデントアシスタントインストラクター)と呼ぶ集まりを作った。この時、河合先生のお話で、「安全とは、知識と経験の積み重ねです。そして記録を残して継続させることで達成されます。」というフレーズがあり、これこそ学連にふさわしい言葉であり、この方針にそって、この活動を続けようと考えた。しかし、学生の部活動は継続しない。せっかく人間関係を作っても3年で打ち切られてしまう。2011年、この年の学連執行部が、この活動に意欲を失い、別の方向、別の内容に舵を切った。
真野先生などの医学関係者の講演と先生たちを加えたミーティングよりも、潜水業界のインストラクターとかの経験談を聞く方が良いと内容を変更した。僕の考え方としては、もしも学連で事故が起こった時、この活動をしているという事で、先生たちのバックアップが得られて、社会的な糾弾が緩和される。つまり野放しではないという評価が得られるという意味だったのだが。
悪気があるわけではない。自分の代で何か新しいことをやってみたいだけなのだ。しかし、「安全とは、知識と経験の積み重ねです。そして記録を残して継続させることで達成されます。」一度中止してしまったものは蘇らせることは至難で、倍のエネルギーが必要になる。青山学院大学は、SAIでマニュアルの提出を求めた時、一番充実したマニュアルを見せてくれたのだが、休部、多分消滅しているだろう。先日、ビズショウでフィッシュアイの大村社長と話した時、彼は青山学院大学理工海洋調査研究会(正式名称)の出身だけど、消滅を知らなかったそうだ。マニュアルには第35代と書かれていた。今は40周年を迎えていたはずだ。
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   SAI 青山学院大学が提出してくれたマニュアル 優れていた。


JAUSを作った2010年のシンポジウムで、学習院大学の宮崎監督に講演をしてもらった。そして、2011年3月、監督・コーチのミーティングを開催しようと、設立有志ということで、学習院大学、芝浦工業大学、法政大学からは須賀潮美に声をかけて、3月18日がその第一回の集まりの予定だった。そして3月11日の震災で、これは立ち消えた。その2011年はお休みして、2012年のシンポジウムでは芝浦工業大学顧問の足立先生と、監督の  さんにお話ししてもらった。そして2014年の第三回シンポジウムが中央大学である。
中央大学にも特別の思いがある。僕の調査ダイビングの相棒だった鶴町通世が、OB会の副会長で、僕との間を繋いでくれて、40周年の記念講演をさせてもらった。が、その当日彼は癌に倒れて出席できずやがて亡くなってしまった。
今度、この2月2日のシンポジウムには、彼の奥さんの雅子さんが、受け付けをやってくれたりして、切り盛りしてくれている。あいつが生きていてくれれば、と思うが天命である。僕はまだ生きている。
こういう思いを書きつづると、「それは、須賀さんの個人的なことで、全体とは関係ない。」と言われる。しかし、僕は断固として思う「ダイビング事故とか安全は個人的なことで、個人の健康とか都合、過ち、そして寿命で起こることだ。」これから述べるローカルルールが安全の基本であるが、そのローカルルールは、個人の知識と経験の積み重ねと記録を繋げ、グループが共有できるように要約したものだ。
ようやく、中央大学にたどりついた。
大学のダイビング部活とは、一年生を指導し、一人前にすることが主目的で成立している。合宿や、ツアーに行っても、上級生は自分の楽しみだけでダイビングすることはできない。必ず何らかの役割がある。これが大綱であり、細部は大学によって違っているが、こんなことで面白いのかと疑問に思ったこともあり、水産大学のコーチをしていた時は、水中橇を作って走らせる課業をさせたこともある。しかし、この二年生が一年生を教えて、三年生が見守って、一緒に危険を回避してゆくということに大きな教育効果がある。だから、良いクラブのOBは、一生の付き合いになり、OB会も充実する。そのOB会が充実しているところは、監督、コーチの人選、支援もうまくできて、安全度がさらに高くなり充実する。学生のダイビングが社会人のダイビングとの大きな違いは、社会人は自己責任であるが、部活は団体責任である。団体として、互いに支えあって安全を確保する。
 
 今回発表の中央大学は、この典型的なシステムが充実しているクラブであり、昨年の芝浦工大も一昨年の学習院も良いクラブであり、良いシステムをもっていて、優劣はつけられないが、監督と主将が、一緒に発表し、そして、卒業する、八木沢君が結びで発表するなどと、いいチームワークが感じられた。団体活動はチームワークが最重要である。
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  八木沢君のまとめ

 
 一般社会人であってもクラブ活動というのが、ダイビング活動の原型だと思っている。バディシステムはクラブの最小単位ともいえる。バディがいくつか集まってクラブを作る。クラブと名がつかなくても、親密な集まり、互いの思いやりがなければバディシステムは成立しない。ダイビングショップもダイビングポイントにあるサービスも広義のクラブだと思う。ショップによる囲い込みなどが良く問題にされるが、良いクラブであれば、外から見れば囲い込みに見えるのではないだろうか。
大学の部活動の管理システムは、それらのショップやサービスのクラブ会員の管理とは違うが、ある部分は、学生クラブがその模範になり得る。
とかく、学生のダイビングクラブが社会と断絶している姿であると、自己完結してしまって、進歩がなくなってしまう。

JAUSシンポジウムが目指している運用の研究は、それぞれの視点によって違う。このような発表をすれば、批評を受ける。それはとても良いことで、批評をうけるために発表するのだと言っても良い。

出席された、親しい友人でありIANTD の会長である田中さんから批評をいただいた。「具体的ではない」と確かに、ニヤミス体験とその解決策のような具体例は、発表②は組み込まれていない。しかし、この講演でお願いしたことは、その具体例ではなくて、中央大学海洋研究会の組織の体制と現状、過去、現在未来についての紹介をおねがいしたものだ。その部分の前置き、説明がプログラム、レジュメになかったことは、お詫びしなければならない。

学生クラブとしての活動の安全は、それぞれのメンバーの役割分担、学年による役割と行動の明確化、そして、団体としてどのような責任体制で臨むのか、監督、コーチ、OB会のあり方、そして、それぞれの一つ一つの行動の意味を通達、理解させる組織体制、これらについての発表としては、大変に優れたものだったと考えている。まず組織があって、明確な記録があり、記録を行動規範に反映させ、全体として責任を取って行動するのが学生クラブの活動の基本で、その上で、メンバーそれぞれの誇りと、互いに助け合う体制が危険を回避する。
この態勢についてみた場合、中央大学の態勢は大変に優れたものである。
言うまでも無く、40年の歴史があるということは、40年前のダイビングもやってきたのだから、40年の無事故は、幸運の連続であったかもしれない。その連続を振り返り、繰り返すけれど「安全とは、知識と経験の積み重ねです。そして記録を残して継続させることで達成される。」
その安全管理についてのまとめは、レジュメとして、PPで以下のような発表があった。その一つ一つは常識であるが、常識をきちんと守れること以外に組織としての対応はない。事故は個人的な事情で起こるが、以下のような遵守事項を守っていたうえでの個人的な事情には、責任を持ちえない。

安全管理についての遵守事項として
◇ 体調管理の徹底
◇ 万全な器材の使用
◇ 当日・翌日に潜水意思のある者は禁酒
◇ 潜水ポイント・危険生物の把握
◇ 適切な海況判断
◇ 正確な浮力調整
◇ バディシステムの遵守
◇ 無減圧潜水の徹底 ⇒ 残圧30以下の潜水禁止
◇ 潜水フラッグの使用
◇ いかなる場合にもウォッチャーを設置する
◇ 能力に適した潜水 ⇒ 睡眠時間・体調・海況・自分のスキルを考え、決して無理を
  しない
◇ 上記の点について、ガイド・インストラクターに指示を受けた場合には、それに従う
◇ 5m5分の安全減圧を可能な限り行う

今後も、安全管理についての規定順守を徹底できる組織を維持し、幸運による事故回避ではなく、OB会、監督、コーチのスタッフ、現役の協力のもとに、ダイビング活動を人格向上に役立てつつ、ダイビングを楽しみ、関東学生潜水連盟の範としてあり続けていただきたい。


0207 ダイビング事故防止について事故当事者の視点から


  このテーマに入る前に、もう少し、安全について。
ダイビングの安全とは、どういうことなのだろう。人それぞれの個性も考え方もDNAもちがうし、視点もちがうが、僕の考え方は、「危険を避けられる状態を維持していること。」もちろん、これはダイビングについての話で、他の世界のことは考えていない。
危険を避けられる状態はとても幅広いが、前の発表、中央大学海洋研の場合は、安全管理についての遵守事項を決めて、それを守る態勢を維持できる組織を作り、実行している。もちろん、努力なくして、維持はできないし、初心者(一年生)を初心者(二年生)が教える形が学生のダイビング活動の芯だから、監督、コーチにしてみれば、一瞬の気も抜けない。心の中のヒヤリハットは、珍しくないだろう。その監督もコーチもいない大学もあるのだ。インストラクター任せと言っても、インストラクターが30人もの初心者をいつも引き連れて見てくれているわけではない。学生だけで安全を維持するシステムを持たなければならない。それについての具体例、例えば今回の発表で、ナビと呼んでいる役割、動き、レスキューワッチのやり方などについては、また別の機会に検討し、発表できればと思う。


さて、
 2010年5月、発表者の田中さんと奥さんは、沖縄の伊江島近くの中の瀬というポイントに潜水した。ガイドが一緒であり、5日間、毎日2ボートで10本潜る予定であり、その4日目の1本目、通算7本目の潜水で事故が起こった。
海況は波高が05-1m、流れが0.8-0.9ノット、透視度は20-30mであった。
奥さんのダイビング経験はタンク163本であり、水泳も上手でアスリートであったと言える。
まず、奥さんがエントリーし、続いて田中さんがエントリーしたが、奥さんの姿が見えない。続いてガイドが潜降して来て、見まわしたが見えないので、田中さんをボートに上げて、自分は水中で捜索したけれど見つけられない。
救助を頼み、ヘリコプターも巡視船も来たが見つけられない。1時間30分後、フェリーが見つけて巡視船に引き上げられたが死亡、解剖の結果溺死と判定された。
那覇地検で、訴訟調査の結果、業務上過失致死罪で送検されたが、田中さんは、罪を認めたからそれで良いとして、民事訴訟はしなかった。

ここまでは経過についてである。次に事故はどうして起こったのか。
①まず一人になってしまったこと。
②一人になってしまった時、ガイドは水に入って監視しては居なかった。
③一人になることを予測した安全のための対策が取られていなかった。
他にもあるだろうが、この三点、バディシステムが実行されていたら、ガイドが監視していたら、潜降索に伝わって潜っていたら、この事故は起こらなかった。
①は、バディである二人のせきにんであり、ガイドを雇っていない潜水であれば、事故は二人の責任であり、ガイドはそこにいないのだから、責任問題にはならない。②は、ガイドにはいろいろなあ言い分があるのだろうと思うが、訴訟調査の結果がすべてである。検事は業務上過失致死罪として送検し、ガイドはそれを認めて罰金を払った。

①一人にならないこと、一人にしないことについては、言い古されたことであり、安全対策のその一は、如何にしてバディシステムを守るか、守らせるかである。ガイドの言い分があるとすれば、バディシステムは二人がまもるものであり、ガイドが守らせるものではないということだろう。しかし、一般には、このようなケースの場合、その水域、地形のブリーフィングを行い。先に水に入るか、もしくは三人同時に、もしくは二人が水面で一緒になるのを見届けてから、その時はすでにタンクを背負っていて直ちに水に入らなければいけない。
このような手順は常識ではあるが、ルールとして決まっているわけではない。JAUSも、他のすべての団体も、一人にしてはいけないと口が酸っぱくなるほど唱えてはいるが、このような目を離さないための手順を文章化していることはない。
前の発表についての感想で「安全とは、知識と経験の積み重ねです。そして記録を残して継続させることで達成される。」と述べた。
ガイドもしくは安全管理を行うインストラクターは、ボートからの入水に際して、1分以上の時間差があってはいけない。水面でバディが一緒に肩を並べるのを見届けなければいけない。」というようなルールを設けるべきである。発表者の田中さんも指導団体のプログラムとは別に、このようなガイド手順のルール、マニュアルを設けるべきだと発表している。
ここで、ガイドとはそもそも何なのだという議論をしておかなくてはならない。引率するメンバーの命に責任を持たなくてはならないのだろうか。業務上過失致死罪で送検されたということは、あきらかに、業務としてメンバーの命を守る責任があるということの公的な認知である。バディを守ろうが守るまいが、とにかく目を離していて安全のための監視がなされていないときに事故が起これば、ガイドの責任になる。業務上過失致死罪になった理由は、お客を先にエントリーさせ、3分後に入ってきた。この時間関係はダイコンによって判明したのだという。また、このポイントはガイドが初めて来たポイントだった。そして、潜降ロープもなく、アンカーロープも無かった。

お客が先に入って3分後にガイドが入ってきた。なぜそんなことになったのだろう。そこには、ストーリーがあり、多分、ガイドにも言い分があるだろう。その場にいたわけではない者としては、推測による論を述べる他ない。
まず、ガイドが制止したのに振り切って入って行ったということは考えられない。僕の接した発表者の田中さんの人柄からもそんなことは考えられない。穏やかで、まっすぐだけれど、自分のポジションはしっかり持っている。
言うまでも無く、ガイドも、お客二人もバディシステムの重要性については十二分に理解していた。まず、考えられるのは「慣れ」である。5日間、毎日2ボートで10本潜る予定であり、その4日目の1本目、通算7本目の潜水の間に、この人たちならば大丈夫という「慣れ」の気持ちがガイドにあった。
コメンテーターをお願いした久保さんのお考えならば、バディシステムというものの、理解と手順がこの事故の状況とはまるで違うだろう。バディが互いにバディチェックをおこない、ガイドも器材を着けた状態で、このチェックに加わる。そして、ガイドの指示で、適切な間隔でエントリーし、離れずに潜降を開始する。久保さんは、どんな状況であってもそれを忠実に実行する。
僕は少し、いやだいぶちがう。昔、僕のアシスタントをさせていた大西には、まず、自分がタンクを背負ってスタンバイしてから、僕のタンクを背負わせ、チェックしてから、僕がエントリーするのを助けて、僕にカメラを渡して、同時に自分も入ってくる。お客に対するガイドとしても、同じようにさせていた。
最初のエントリーから、ガイドが入ってくるまでの時間は、3分、これはダイコンの記録によるものだという。正確かどうかわからないが、スタンバイしていて、同時に入れる状態で、お客を水に入れたとは思えない。これが業務上過失致死の主因だろう。
ガイドマニュアルというものがあるのかないのか知らないが、ある、もしくは作るとするならば、ガイドがインストラクターであり、指導中であるならば、三人でバディチェックをしながら、生徒二人のバディチェックをしどうして、今後、どこで潜水する時も、このようにしなさいと指導する。
お客商売としてのガイドダイバーであれば、自分は完璧に準備をして、お客の準備を手伝い、その場の状況に応じて、水中ですぐにまとまれるような間隔でエントリーする。
そのいずれでもなかったことは明らかである。
先に書いた、「ガイドもしくは安全管理を行うインストラクターは、ボートからの入水に際して、1分以上の時間差があってはいけない。水面でバディが一緒に肩を並べるのを見届けなければいけない。」という表現でも良い。とにかく、ガイドの行動指針を決めるべきだ。もしかしたら、沖縄県でそのようなものを作ったのを、そのたたき台の原稿だったかもしれないが見たことがある。探したが見当たらない。さらに探そう。

およそ、ダイビングの事故には、ああしていれば防げた、こうしていれば防げたと言える事故と、どうしようもなかったという事故がある。事故を皆無にすることは無理でも、ちょっとした実行可能なマニュアルがあれば防げるような事故は皆無にしたい。
それが、2010年に発足した水中科学協会の主目的の一つである。

この報告の最初に書いた
③一人になることを予測した安全のための対策が取られていなかった。
他にもあるだろうが、バディシステムが実行されていたら、ガイドが監視していたら、潜降索に伝わって潜っていたら、この事故は起こらなかった。
安全確保のためにはソフトと同時にハードも大事だと考えている。ソフトは、ここまで書いてきた①バディシステム、②ガイドのエントリー手順である。ソフトが最重要であり、きちんと守られていれば、別に特別の手間もお金もかからない。しかし、ソフトは必ずしも守られるとは限らない。ここでいうハードとは、何かの理由で、行動が思うに任せない、失敗した時に、救い、補う、空中サーカスの下に張られた安全ネットのようなものである。
僕は潜降索にこだわる。理由は、大学四年生の時に、水深30mの魚礁調査で空気が無くなり、その頃のゴムの合羽のようなドライスーツに浸水していて浮力も失いフィンキックでは浮き上がれない、ウエイトもベルトが絡んで捨てられない状態になり、抜け出そうと必死になり、幸いにして、頭上数メートルのところにそれを伝わって降りてきたアンカーロープがあった。アンカーロープに飛びつき、呼吸できない状態で,手繰り、チアノーゼのような状態で船にたどりついた。これが、潜降索、あるいは命綱と呼ぶものにこだわり続ける原点であった。
ロープに浮環を結んで流しておくとか、エントリーする舷側から、入るとすぐにつかまれる潜降索を降ろしておくとか、これに掴まるように指示しておいてから、掴まるのを見届けて、ガイドがエントリーすれば、間違いはない。
僕はどちらかと言えばソフトよりもハードを頼る。だから、何人かを連れてツアーに行った時、ボートに潜降索が無いと、要求して降ろしてもらっていた。僕が良く通っていた慶良間のボートは、親父さんは僕の顔を見ると潜降索を垂らしてくれていたが、息子の代になり、黙って見ていたら、潜降索など考えていないようだった。
 
 指導団体でも、一般のレクリエーショナルダイビングでも潜降索にこだわることがあまりない。しかし、僕は潜降索、そして、潜降索に続くラインにこだわる。これは、先に述べた僕のトラウマともいうべき体験と、そしてリサーチダイバーの通性であるのだが。
 今、僕と北海道、ポセイドンの工藤さん、共著で潜水士の受験本を書いてている。今少しで完成する。潜水士の規則では、ヘルメット式でもスクーバでも何が何でも潜降索を使わなければならない規則になっている。潜水士で言う潜降索はヘルメットダイバーが潜降するときに墜落しないためだが、一番目の発表の種市高校では、潜降索が無くても墜落せずに自由降下が出来る技術を教えている。そして日本で、僕は一緒に潜ったヘルメットが潜降索に掴まって降りてくるのを見たことがない。それでも潜降索は必要だと思っている。スクーバでは潜降索など必要ないと思っている人が多い。墜落することなどないからだ。潜降索はスクーバダイビングでも船からの潜水では必須だと思う。ただ、それはヘルメット式の潜降索ではなくて、スクーバダイバーのための潜降索でなければならない。スクーバダイバーのための潜降索がどうあるべきか、潜水士テキストの執筆者は考えたこともないだろう。こちら側で考えなくてはいけないといつも思っている。やがて、このことについてもシンポジウムのテーマにしたいが、その中の一つとして、この事故例の潜降索を入れたい。
 潜降索とその使い方がルールになっていればこの事故は起こらなかった。今後も同じようなケースが起こりえる。ちなみに、田中さんが良く行かれている宮古島のダイビングサービスでは、潜降索がつかわれており、事故の起こったサービスでは潜降索がないことに不審に思ったと言われている。その時に潜降索を請求していれば、ともきっと悔やまれただろう。

 田中さんも書いているが、「このようなことをローカルルールとして、マニュアル化して、自主的に遵守しなければいけない。」そのローカルルールには、潜降索のこと、そしてガイドダイバーの在り方について明記されているべきだろう。ローカルルールとした理由は、地域の差があるし、船の設備の差もある。
 昔、八丈島では、お客の頭の上にバックエントリーしたダイバーが居て、バックエントリー禁止になっていた。船のスクリューがダイバーを切った事故があって、ダイビングに使う船にはスクリューカバーを着けなければいけないことになっていた。立派なローカルルールだが、今はどうなっているか知らない。  
昔から僕もバックエントリーをやらない。水面が見えないし、高いところからは飛び込めない。ゴムボートの場合にはバックエントリーで入る。もともとあれは、ゴムボート用のエントリーなのだ。これも昔、サイパンに行った時、船べりに並んで端から後ろ向きに突き落とされた記憶がある。突き落としたのではなくて、どうぞ、という指示があって飛び込むのだが、僕のセンスとしては突き落とされた気持ちになった。

とにかく、ローカルルールは重要であり、事故を防ぐ大きなポイントだ。

 田中さんは発表していて、参加者の反応が無く、違和感を感じられたとコメントしている。この報告を発表に入れようかどうしようか迷ったが、事故具体例のマニュアル化の提案と言いう意味でどうしても発表していただきたかった。  
田中さんはまとめの部分で「これらを防ぐには、指導団体とは別に安全ダイビングの運用マニュアル作成が必要と考える。客観的な視点から安全を考えて作った運用マニュアルこれから目指すものが見えてきたと確信する」とかいてくださった。これこそがJAUSが求めるものであり、今後、大学、あるいはクラブ、などの発表で行いたい核心である。
このような具体例が、大学の潜水部活でもたくさんあり、内規として文章化されているはずである。今度のシンポジウムでの中央大学の発表が、その具体例、内規の発表がなかったと参加されていたIANTDの田中さんが指摘されていたが、今回の中央大学の発表は、「危険を避けられる状態を維持している、組織の在り方についての発表」を依頼しており、具体例として、この田中さんの発表をと考えていた。
そして、もしも、同じような発表がこの発表の前後にあれば、違和感を感じられることは無かったと思うが、後にも先にも自分の体験された事故をこのような場で発表されたのは、田中さんがはじめてで、他にも発表者がと探しては見たが、とんでもないと断られるか、インストラクターやガイドダイバーを加害者とみたてた攻撃的な発表になってしまう。
田中さんには淡々と発表していただくようにお願いした。お人柄もあるのだが、穏やかに淡々と発表していただくことができた。そのことが聴いている参加者に、今後同じような事故を発生させたくないという強い願いのもとに発表されたという事が思うように伝わらないという、違和感として感じられたかもしれない。
 また、ご無理にでも発表をとお願いしたが、これに対する反論も出ることがあるかもしれない。①バディシステム②ガイドダイバーの安全管理の在り方、③もしもの場合に備えるハードの用意が無く、この三つのうちで一つでも機能していればこの事故は起こらず。この三つについての責任は、この状況に置いては、ガイドダイバーの責任であり、そのことが問われての判決であったことには、間違いがない。もしかすると、①のバディシステムの遵守は当人の責任であるという反論がなされるかもしれない。もしそうであっても、それを注意し押しとどめるのがガイドダイバーの安全管理であり、いわゆる予見義務違反に相当する。

 なお、ここに書いたことは須賀の感想であり、決して結論ではない。発表者の田中さんのご意向をうかがった上で、コメンテーターをお願いした久保さんのご意見をまとめていただいて、研究発表誌に結論的にまとめて行きたいと考えています。

0208 シンポジウム報告 人工魚礁

レクリェーショナルダイビングと人工魚礁
   独立行政法人水産総合研究センター 
          水産工学研究所 高木儀昌 

※ 高木先生はJAUSの正会員であり、発表でも映像を見せてくれたが、巨大な高層魚礁を考えだし設計した実績がある。
 ヒラメを対象魚にした低い、十字礁と呼ばれる魚礁に中層に浮く浮魚礁のようなものを付け加えたら、集まる魚の種類も数も変化したことから、浮魚礁の高さまで高くした魚礁が作られた。高層魚礁にあつまるマグロなどの映像が映写された。
 
 発表のレジュメから
 1.はじめに
 人工魚礁の設置は漁業者自らが漁場を広げ、収入を増大させるためにはじめられたものであるが、やがてこの事業が国や県の税金で行われるようになって、当初は石(投石)や廃船、電信柱などを沈めていたものが、コンクリート製や鉄性にものになり、規模や形も様々なものが作られるようになった。
 漁業者は高齢化し、漁業者数は減少の一途をたどり、人工魚礁の造成も減少傾向になっている。特に生産性の高い沿岸の水深30m以浅の海域ではほとんど造成されなくなっている。この生産性の高い海域では様々な開発の可能性を残しているが、漁業にその力はなく、国の制度でも限界にきている。
 新たな開発のためには、漁業と共存できる、海を海として楽しんでいる多くの国民と協力する形を構築する必要がある。
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 巨大な高層魚礁
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 2.人工魚礁に集まる魚
 人工魚礁は、優良な漁場となっている天然の岩山(天然礁)を人工的に作ろうとしたものであり、天然礁で見られる魚は同じように見られるが、海域、人工魚礁の規模や形で集まり具合が異なり、季節によっても変化する。
 3・人工魚礁の形と集まる魚の関係
 形が変化することで集まる魚が変わり、行動が変わるが、行政的には、人工魚礁の形で集まる魚が変化することは認識されていない。結果として形と魚の関係についての研究は進んでいない。この研究を進めるためには多くの形と集まる魚の関係を調査する必要があり、この調査は時間とお金がかかる割には得られる結果に効果が認められないからであるが、効果の高い形の魚礁を作る研究を進めなければ効果的な造成ができない。
 ※、この部分にレクリエーショナルダイビングとしての人工魚礁調査と研究の余地がある。
 4.魚の生態の解明
 人工魚礁に魚が集まる理由は、餌場、逃避場、産卵場、休息場として利用されていると言われている。しかし、魚と魚礁の位置関係は、従来行われてきた潜水調査から得られた魚礁周辺での魚の観察結果をまとめたもので、魚礁周辺での行動の意味を分析した結果ではない。
 ※、人工魚礁に集まる魚の生態観察によって、魚の生態を研究することができる。
 5.レクリエーショナルダイビングと魚礁研究
 人工魚礁は、日本全国、北海道から沖縄まで様々な形のものが設置されている。そのうち、漁業に使われていないところも多くあり、漁業者の理解が得られれば、レクリエーショナルダイビングの活動の場を拡大できる可能性がある。
 特に沿岸域に設置されている人工魚礁は古いタイプのものがほとんどで、今後の開発によって集魚効果を高めることが出来れば、漁業者との協力が得られやすくなり、沿岸漁業にレクリエーショナルダイビングの活動を役立たせることもできやすくなる。
 私たちは、既存の人工魚礁のように陸上で定形のものを制作し、海域に設置するのではなく、ダイバー自らの手で、海中で組み立てられるプラモデルのような人工魚礁を計画している。このように人工魚礁を懐中で少しずつ組み立てることで、魚の集まり具合を観察しながら、必要な部材のみを取り付けることができ、結果として効果的な魚礁に仕上げることができます。また、予定の形を変えることも可能で、自分たちだけの人工魚礁にすることもできます。
 このように、潜水を楽しみながら海中に人工魚礁を少しずつ組み立ててて、同時に集まってきた魚の行動を写真やビデオで記録することで、魚と形のの関係や魚種別に効果的な人工魚礁の形状が研究出来たり、魚の生態を明らかにすることができる可能性があります。

 JAUS人工魚礁研究会の計画・企画
 水中活動の目標の基本はいまや水中撮影である。ダイバーのほとんどがカメラを手にして、あるいはウエアラブルカメラの普及によって身に着けて潜水する。撮影の基本目標は記録であり、記録の目的は記念撮影、生物の観察撮影である。
 JAUSではウエアラブルカメラを取り上げて、2012年より積極的に研究を行い、ウエアラブルカメラ研究会をつくり、2013年9月のフォーラム、今回2月2日のシンポジウムでも作品を発表して、着々と技術的に成長を続けている。
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 ウエアラブルカメラは、一面、水中リサーチ用のカメラとも言える。生物の観察撮影を人工魚礁を対象に行えば、すなわち人工魚礁調査である。ウエアラブルカメラ研究会が多用しているポールカメラなどは、魚礁の奥深くへ挿入して撮影が可能である。しかし、アトランダムに撮影された画像では、調査としての成果に結びつかない。
 ウエアラブルカメラ研究会の活動として、活動ブランチとして、人工魚礁撮影研究グループを結成しようとしている。
 その一環とも成るべく、今回の高木先生の講演をお願いした。今後調査結果の分析、手法の確立について、顧問的に助力していただく予定にしている。

0209 雑感



 沿岸環境関連学会連絡協議会第29回ジョイントシンポジウム
 沿岸環境修復技術としての貝殻利用の最前線
  物質循環の促進向上にむけて
 牡蠣殻の再生、用途についてのシンポジウムが、海洋大学の白鷹館であった。いくつかの発表のうちの一つとして、牡蠣殻の人工魚礁への利用についての発表が、全漁連の田原君が行う。JAUSの会員なので、発表の内容は良く知っていたのだが、聴きに行こうと決めた。もう、雪は溶けかけて、車で走るのは問題ないと思ったのだが、石川さんが送ってくれるというので送ってもらった。
 このシンポジウムの発表者の一人、清野聡子先生は、昔からの親しい人で、彼女の師匠の羽田先生の葬儀の時以来会っていないので、あえれば良いなとも思った。羽田先生はもと小田原の生命の星博物館の館長で、さらに元東大教授である。
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  やはり雪のために席が空いている。座長の風呂田さんまで来なかった。田舎だから仕方ないけれど


 会員の田原さんの講演は聴いたが、他の講演は僕には理解できにくい、耳が良く聞こえないから、自分の知っている分野でないと理解が難しい。そして、清野さんをさがしたけれど居ない。彼女は午前中の講演で、僕が行ったのは、13時、自分の講演が終わったらさっさと帰ってしまったらしい。その代り、小池康之さんにお目に書かれた、小池先生はもと水産大学の准教授で、僕と共著で「水中写真の撮影」という本を書いた。この本は1969年の発行で、はるか昔の本だ。JAUSを作った時、小池さんに最初のメンバーになっていただこうと誘ったが、自分が貢献できる部分は無いのではないかと断られてしまった。無理もない話で、その当時の僕の水中科学協会のコンセプトは、昔の日本潜水会の復活だった。今の協会ならば、快く入ってくれるはずだが、時期を逸してしまった。写真の大家だから、ウエアラブルカメラ研究会などはリードしてもらえたのだろうにと思いつつ、疎遠になっていた。今日、あうことができて、諸般の事情があるので、今日、JAUSには誘わなかったのだが、いずれまた、の途は残している。昔と変わらない仲で話ができた。
戻ってきて、門仲でまだ時間は速いのに、東京力めしの焼牛丼を食べてしまった。昨日のフェイスブックで、潰れて閉店が増えているということなので、それならば、食べておこうと思ったのだ。この丼、嫌いではない。でも閉店しても惜しいとは思わない。まあ、食べておこうという程度だ。

都知事選はどうなるかなあ、投票率、16時で25%史上最低になるだろう。これでは組織票の升添さんか?無責任政治評論家として解説しよう。細川さんが勝った場合の展開は、何かと原発は動かしにくいだろう。そうこうしているうちに次の選挙で小泉、細川党ができて野党連立で、小泉(親か子)が首相になり、原発はなくなる。枡添さんが勝った場合、やがて悪事がばれて、もう一度選挙というわけには行かないから、最大限度マスコミ操作をして、なんとか首をつなぐだろう。小泉、細川さんは、とりあえず昔推進した原発に反対して全力投球をしたということで、歴史に汚点は残さないで済む。その後の戦略をどう考えているかはわからない。原発は再稼働され、新しい原発もできて、安倍総理は、歴史の上で史上最悪の評価を受けるだろう。後世に廃棄物を残して、これは安倍という人が残したと数万年はともかく数千年、歴史の続く限り言い伝えられるのだろう。小泉さんは賢い。でも、どうして安倍さんが?と僕はわからない。福島の地下1000m?そのテクノロジーを追及する他道はなさそう。
上が、18時頃に書いたもの。
20時、瞬間的に升添さんの勝がきまってしまった。
これで、日本は原発推進国家になる。日本人最大公約数の都民がそう決めたのだ。後の世の事は後の世の人が何とかするだろう。
終わったから言うが、僕は早々と細川さんに投票していた。しかし、こうなった以上、ここしばらくは、廃棄物は福島の地下に埋める方向で、今後は生きるしかないだろう。原発がある他の地域の人は、地震津波が来ないことを祈ってください。福島の人、気の毒だけれど、原発のない史上最低の東京都民がそうきめたのだから、埋めさせてください。

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気に入ると複数持っていないと気が済まない。このうちで1本はインク切れ

このごろ、文房具屋が街から消えてしまった。文房具は100円ショップでも、ファミレスでも買えるのだが、僕が今愛用しているパワータンクというポンプ式のボールペンは置いていない。丸善とか伊東屋に行かないと無い。丸善に行くのは楽しいから良いのだが、近くに何でもある文具屋が亡くなってしまったことはさびしい。門仲では、ひたち屋と言ってエレベーターがあって3階まである大きな文具屋だったのだが、ファミリーマートになってしまった。

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どうしたろう。小学校3年生の時から可愛がっていた緑ちゃんが法政を受けている。受かったかな?。受かったらアクアクラブかな。これで、娘と孫が法政アクアに入ることになるようなものだ。2月22日に法政のたしか50周年で、ご挨拶することになっている。その時にはもう緑ちゃんの合格、不合格がわかっているはず。これは2012年に式根島に行った時の写真。今年は、海に一緒に行かれるとおもっていたけれど、アクアに入ると練習とか合宿とかで時間が無いかもしれない。

0212 要約すると -1

月刊ダイバー3月号、連載、日本潜水グラフィティ最終回、本屋にでた。

24回の予定が27回にしてもらった。27冊のダイバーを書架に並べる。
須賀潮美が編集してくれたのだが、全くの書き直しもかなりあった。娘だから厳しいのかなとおもったりしたが、直すと必ず良くなっている。いい編集者になったのだなあ、と思う。最終回、ここまでの流れから少し時代を飛んで、どうしても書かなくては終われないことを書かせてもらった。「ダイビングの夢と冒険とは何だ、そして安全管理と危機管理についての事を書いた。良い終わり方、自分にとっては感動的だった。どうか、ぜひ買って読んでください。
 絶対カットされるなと思いつつ、坂部編集長と潮美に謝辞を書いたが予想通りにカットされていた。 
この終わり方は、これで一番良かったと思うのだが、もう一つの終わり方、これまでの26回分を振り返ってようやくして終わる終わり方も考えた。

サマセット・モームの自伝的な「要約すると:summing up」という作品がある。内容は忘れてしまったのだが、タイトルだけは覚えていた。最後に人生は経糸横糸を編んで行くタペストリーのようなものだというところが印象に残っていた。と思っていて、もう一度読もうと図書館で目を通したけれど、ちがった。これは、別の小説「月と六ペンス」と混同していたことがわかった。「月と六ペンス」は、ゴーガンをモデルにしたモームの長編ではベストだろうか。つまり、僕の潜水人生の要約、summing up にしようかと思ったのだった。

潜水、ダイビングの意味、それにかけた人生の意味は、何だったのだろう。
ブログに書きかけたけれど、容易にはまとまらない。

 この前、ここまで書いたが,かなり時間がたったし、その間にシンポジウムもいれてしまったので、もう一度前書きをここにのせた。

★要約すると
東京水産大学で潜水を教えてくれて、写真の使い方、調査のやり方、レポート、論文の書き方、その後、自分が生きるためのアイテムのほとんどを指導してくれた、恩師の宇野寛先生に「潜水とは、潜ることは、海の中、水の中で何かをするための手段であって目的ではない。」と教えられた。先生は研究者だから、潜水は研究の道具で当然だが、もう一人、潜水だけの師、つい最近亡くなってしまった後藤道夫の師でもあった菅原久一にもそのように教えられた。
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そして、以来、潜水は目的ではない手段である。手段として潜水を使って、海の中、水の中で、社会にとって、人類にとって何かに値することをやり遂げなければならないという思ひに縛られた。
27歳の時、100mを空気で潜って90mで引き返したが、これにも意味を求めた。新しい送気式潜水器の開発だった。今、潜水士の受験本を書いているが、今の作業潜水の中心である潜水器は、デマンドバルブをフルフェイスマスクに付けた送気式応需弁付きの全面マスクで、これこそ、僕が100m潜水に使った潜水器だった。
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      27歳、館山沖の死ぬ一歩手前の100m潜水

しかし、これは、何としても深く潜りたいために無理やり考え出したテーマであった。とにかく、誰よりも深く潜りたかったのだ。ダイビングしたかったのだった。
ただひたすら潜りたい、ダイビングがしたい。これは今現在でも全く変わっていない。
潜ることが僕にとっての生きがいだった。他に何もないのだから、潜ることをお金に換えなければ生きて行けない。
プロという言葉がある。それでお金をもらうこと、稼ぐことがプロであるが、もうひとつ、そのことを止めたら生きて行けない。ダイビングを止めたら生きて行けないというのもプロだ、と思う。その道に人生を捧げる、プロフェストするのもプロという言葉の語源だと、スポーツ社会学の佐伯先生に教わった。これは社会体育指導者の講習で教えられたことであるが、なるほどと思った。
他の職業でお金を稼いでいても、ダイビングをしなければ生きて行けない気持ちであれば、これはプロだ。本当のプロともいえるだろうが、こんな人は稀だ。稀だが僕の周りにはかなりたくさんいる。
好きこそものの上手というから、プロダイバーの多くは上手になるが、下手であってもプロはプロだ。
出発点にもどって、潜水とは手段であるという言葉に縛られていたから、いろいろと目的を考え出していた。
東亜潜水機では、今の作業潜水の中心である、送気式応需弁付きの全面マスク潜水機の開発では、疑いも無くトップを走っていた。それでも、もっと潜りたかったから、魚突きの水中射撃連盟をつくり、潜水の安全指導を目指して日本潜水会をつくり、さらにそれを全国組織として全日本潜水連盟をつくって、水中スポーツ大会を沖縄海洋博でやったりした。東亜をはみ出してしまった。それでも大事にしてくれたが、大事にされればされるほど、申し訳ない気持ちになりやめてしまった。
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       1967 日本潜水会、一緒に泳いだ浅見も友竹もとうに世を去った。 
            これは伊豆海洋公園


東亜で作っていた潜水機をそのまま持ち出すことは義理に反してしまう。それではもう一つのプロフェツションであった撮影だと水中カメラを作ることを始めた。これも良いところまで行った。ブロニカマリン、R116 は、まだシー&シーも水面下にあった当時日本でトップだった。しかし、それでも、そのカメラを売ることよりもカメラを持って潜水すること、撮影することに体が向いてしまうのだ。
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     ブロニカマリンの最終形


撮影することは記録することだ、記録することは調査をすること。大学で専攻してつもりだった水中調査が仕事になった。ハウジングメーカーが調査会社になってしまった。スガ・マリンメカニック、メカニックという名前が付いているのは、器材を作る技術を生かそうという意味だった。
そして、調査撮影からテレビ撮影に変わって、ポナペ島、ナンマタール遺跡の呪いの風に吹かれて、テレビ番組の撮影に飛んで行ってしまった。

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       ニュース・ステーション、須賀潮美の水中レポートシリーズ

そしてニュース・ステーションをはじめとして、最後は大型展示映像、3Dの撮影まで進んでいった。
 もう一つ、後に指導団体言われることなるダイビング指導の途も派生的に歩んでしまった。
 ダイビングは「安全だ」などという雑音が途中で入ったけれど、安全とは安全な範囲にとどまるから安全なのであって、夢と冒険を追うことがダイビングの本質であるとすれば、冒険とは安全を確保しつつ、危険に立ち向かう事であり、決して安全域にとどまることではない。冒険とは危険をどのようにして切り抜けるかということに知力(インテリジェンス)と身体能力を傾けることなのだ。
その身体能力を鍛え、維持するにはトレーニングが必要である。トレーニングあるのみ、潜水のトレーニングとは、泳ぐことだ。トレーニングを安全に行うために、フィンで泳ぐ競技を始めた。
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沖縄海洋博 海洋フリッパーレース

ダイビングという冒険で、声明を維持するのはトレーニングであり、トレーニングの成果を競うのが競技会だ。1975年だったか、沖縄海洋博のイベントとして、全国大会をやり、一つの頂点を極めた。その後、山あり谷ありだったが、今でもなお、日本ダイビング界最大のスポーツイベントとして全日本スポーツダイビング室内選手権大会をやっていて、70年代からの通算では56回目になった。

0215  キューバ通信

 2月15日、本当に大雪。外に出ていないで、心も体も外に出ないで、固まっている。ブログを隔日に書きたいと決めて、これは仕事だと、しているのだが、こんな雪の日はなにも書けない。オリンピックを見る。普段その競技のフアンでない人も熱中してみる。男の子のフィギユアなんて見るのは、オリンピックだけだし、女の子のジャンプも始めてみる。男の子、女の子のオリンピックだ。女の子は勝てなかったけれど、敗れた者の涙って良いものだ。このランクまで行くと、心の問題が大きく結果を左右する。そして、ジャンプは自然との闘いでもある。
海にほとんど行けていないと自然を忘れてしまう。そのことのフラストレーションで、病気になっている。ずいぶん昔、多分1980年代だったが、そのころも、都会に居る時はいつも病気と「海の世界」という今はもう無い雑誌に書いたことがある。病気だから書けない。

A.E ホッチナー 「パパ・ヘミングウェイ」読了した。 ヘミングウェイ関連で、日本で出ているものは、ほとんど読んでいるから、これも読んだはず、と思う。もしかしたら、この前読んだ時も、おなじように、前にも読んだ気がするとおもった記憶がある。ヘミングウェイのこの手のノンフィクションとしては、一番面白いと思いながら三分の二を読んだ。後半三分の一は、ヘミングウェイの悲惨な死だ。やはり読んだことがあると思いつつ読んだ。しかし、この文庫は1989年に出したものだが、著者の追記がでている。この本の出版、そして、よく売れたのだが、メアリ・ヘミングウェイからプライバシーの侵害だとして訴えられ、長く抗争が続いていた。本文では、メアリに対して、ヘミングウェイを支えた妻というスタンスは崩していないが、この追記では、ヘミングウェイの自殺の原因の多くの部分が、メアリとの確執、夫婦げんかのひどいものだったことが書かれている。本当はどうだったのかわからないが、多分争っていたのが本当だろうが、ノンフィクションとして、本文で書いたことを追記で完全否定されると不愉快な気持ちになる。しかし、それも真実というものだろう。
最晩年に書かれた、パリでの若いころ、最初の妻ハドリーと暮らした時代のことをかいた「移動祝祭日」は、一番読みやすく好きな本なのだが、ハドリーが中心だから、これが四番目のメアリにとっては気に入らなかったのだろう、とも書いている。そして、ヘミングウェイが亡くなってから、メアリたちがまとめた、「海流の中の島」は、ヘミングウェイの海とのかかわりを考えたら、一番気に入る作品になって良いはずだが、ヘミングウェイも生前出版しなかったし、僕も好きな作品ではない。前に読んだときには、前半は良くて熱中して呼んだが、後半、放り出してしまった。もう一度、前半だけでも読もうと思ったが、今度は前半も読めなかった。ヘミングウェイは複雑な作家だ。

 ハバナのアンボス・ムンドスホテルの北東の角にある部屋は、北に向かって古い大寺院を越えて、港の入口、海、東はカサブランカ半島、そこに開ける家並、港全体が見渡せる。これはある宗教の教義に反することかもしれないが、足を東に向けて寝ると、カサブランカ側からのぼって、開け放した窓にさしこむ太陽は、諸君の顔に輝いて、前の晩君がどこにいて何をしようとそんなことにはおかまいなしに目をさまさせてしまう。もし起き出すつもりが無かったらベッドの上でぐるりと一回りするなり、寝返りをうつこともできる。そんなことをしてもあまり役に立たない。なにしろ日ざしがつよくなってきて、シャッターを閉めるしかないからである。
 シャッターを閉めるために起きだして港を隔てた要塞の上の旗を眺めると、それがまっすぐこちらを向いていることに気がつく。きみが北の窓からモロを眺めるとなめらかな朝の光彩がいちめんにさざめくのに気がつき、早くも貿易風がやってくることがわかる。きみはシャワーを浴びて着古したカーキ色のズボンとシャツを着こみ、乾かしておいたモカシンの靴をはき、もう一足の方は窓に出しておく、そうすれば明日の晩は乾くのだが、エレベーターのところまで歩いて行って階下におりる。受付で新聞をうけとり、角のキャフェに歩いて行って朝食をとる。
 朝食をとるにしても二つの正反対の流儀がある。二、三時間は魚釣りに出かけないつもりなら、上等な本式の食事がふさわしいだろう。ともかくそれも良いことなのだが、私としてはそんなことを信用するわけにはいかないので、ヴィシー水を一杯、冷たいミルクを一杯飲み、キューバのパンを一枚食べて新聞に眼をとおし、ボートに向かって歩いて行く。ヨットを綱で止めてこの日ざし一杯にさらしておいたので、それ以上綱で藻やっておきたくないのである。
 船尾いっぱいに冷蔵庫を置いて一方に餌を冷やし、反対側にビールと果物を冷やしておく。大きなマーリンに一番良い餌は新鮮なさばの類か、1ポンドから3ポンドほどのキングフィッシュである。いちばん上等なビールは「ハチェイ」で、いちばん上等な果物は、シーンの季節のフィリッピン産のマンゴー、冷凍のパイナップル、アヴォガドである。ふつう、昼食には唐辛子と塩をきかせたサンドイッチ、新鮮なしぼりたてのライム・ジュースといっしょにアヴォガドを食べる。・・・・・
 これは、「モロ沖のマーリン」キューバ通信、エスクヮイア 1933年秋 で、僕は1933年から1934年の数回にわたるキューバ通信が、ヘミングウェイの中で一番好きで、そのいくつかは「ヘミングウェイ釣り文学全集「下巻・海」に収録されているが、このモロ沖のマーリンは全集にしか入っていない。昔はヘミングウェイ全集の廉価版[三笠書房)を持っていたのだが、引っ越しを続けているどこかに置いてきてしまったので、ない。図書館でコピーして持っている。
 こういう文章がダイビングについて書けたらいいと思っているうちにものを書く才能が失せてしまった。もっとも失せたのか、最初からないのかわからないが、とにかく今は無い。
 そして、訳文の問題がある。「老人と海」は、唯一僕が高校時代に英文で読み、翻訳した本だった。その翻訳は夏休みの英語の宿題で、提出したら、これは訳ではないと点がわるかった。超訳だった。残念なことにこれもどこかに失せてしまったが、以来、老人と海の訳を読んで、良いなと思ったことが無い。英文の本を読むという事は誰も、頭の中で超訳をしているのだとおもう。もう一回ヘミングウェイのキューバ通信あたりを英文で読みたいと思っているが、そのチャンスがない。
 
 ブログが書けないのは、今のダイビングが、複雑化しすぎてロマンがなくなってしまったように思うからかもしれない。1980年代のハワイでのダイビングあたりなら、ヘミングウェイのように書けるかもしれない。いや、そんなことは無いか、今の、21世紀のダイビングだって書けないことはないだろうが、海に行かないで、雪の東京に閉じこもっていたのでは、どうすることもできない。

0216 プライマリー研修


 要約すると―2を書いているが、筆はどうしても進まない。

 プライマリーコースの指導者の研修会を市川の国富マリンセンタープールで行った。プライマリーを広めるためには指導者を増やさなければならない。そこで、僕のアシスタントの鈴木さんを指導者に仕込んでもらおう。同時に現指導者の倉田君ももう一段アップしてもらいたいという願いで、久保君に指導してもらう。
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     市川、国富マリンセンター

 同時に、指導者への途を歩むように、とアンバサダーという賞状を渡した、国方君、長口さん、そしてVカード直前の本田さんに来てもらい。こちらは米沢君に指導してもらった。
 雪で、米沢さん、倉田君はくるのに大変な苦労をしたらしい。国富のプールは狭いが、泳ぐ速さを競う練習ではないし、トリムを取った水平姿勢で、オクトパスブリージング、フロートを上げて段階的に浮上、沈んだダイバーのレスキューとエキササイズをこなすには、差支えなく、良い練習ができる。このプライマリーの練習プログラムの優れている点は、このようなプールで十分な練習が出来るという事かもしれない。
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オクトパス・ロングホースの扱い。
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オクトパスブリージング

 オクトパスはロングホースを使った練習だが、二つのセカンドステージからの呼吸を巧みに交換する手法は、少しばかり練習と習熟が必要だ。僕はロングホースを持っていないので、そろそろ、これにして練習をしなければいけないかと思う。
 スクーバの宿命的な危険はエア切れ、故障によるエアストップだから、指導者はロングホースを持たなければならないだろう。
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SMBを揚げる
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水平浮上
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レスキュー浮上


 SMBの上げ方も、徹底的に習熟しないと、かえって急浮上の原因になったりして危険だと思っている。しかい、これがトレンドだから、練習する他ない。鈴木君が上達すれば、彼の指導で辰巳でも練習が出来る。その上でのプライマリーコースのVカード検定、あるいは練習に来てもらう呼びかけもできる。
 今日も国冨に他のダイビングショップが来て、練習、検定のようなことをやっていたが彼らはまだ立っているスタイルだ。業界最大の指導組織PADIがこのスタイルを取り入れるようだが、まだ、インストラクターの多くはこれを練習していないと思う。
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 僕はこのスタイルが出来ないし、出来なくても自分のスタイルで60年ダイビングをやってきたのだから、出来なくても問題ないだろうが、しかしとにかく練習する。このスタイルに上達するほどの練習時間が僕に残されては居ないと思うが、とにかく、最後の日までトライしよう。

 春先までに、プライマリーの講習の実技指導が出来るダイバーを育てなければいけない。

0219 要約するとー2

  バリ島の漂流のこと、この数日振り回さら、ブログも書いたのだが、現時点での論評とか、予想は控えるようにと、忠告され削除した。僕は走りながら考えることが多い。意見を出して、反応を聴いてまた考えを変える。つまりディベート的な方向だ。しかし、人の生き死にかかわることだし、業界もかかわりが強い。内輪での忠告であり、正しいので削除した。
漂流事故についてはフェイスブックに最終的な意見を書いた。
「漂流事故については、もう、忘れたようにしましょう。結論がどこかで出たら、考えて、ブログで意見を述べます。ただ、いえることは、現地からの情報に一喜一憂したことは決して悪いことだとはおもっていません。その一喜一憂で、それぞれ、たくさんいろいろなことを考えたはずです。ヘリを飛ばす費用が僕たちの常識を超えて集まったことも、誰も知らない、だれも一喜一憂しなければ、費用を募金することもないでしょうし、そんなお金も集まらないでしょう。一喜一憂することが悪いことではないと同様に、募金も悪いことではないとおもっています。ここでまた物議を醸す発言かもしれませんが、一切の制限に類することは好きではありません。夢と冒険を求めて、自己責任で海に潜ります。自己責任とは、過ちは過ちとスッキリ認めて、次の活動に、自分の意志で情報を集め検討し安全対策を考えることです。」

さて、
要約すると 2 だが、書くことは書けるのだが資料集めと、写真集めがあるのでおいそれ、とはかけない。少し進める。
 0212 要約すると -1 
 前回が0212だった。それに続いて

 書くことも嫌いではなかった。きっと、男の大部分がそう思うように、ヘミングウエイのように書きたかった。ヘミングウェイはともかくとして、海とダイビングをテーマにした小説は書けたと思う。しかし、モノを書く努力は、小説ではなくて、教本的な本を書く方向に向けてしまった。最初に書いた本が「アクアラング潜水」1966年 で日本潜水会を一緒に始めた浅見国治と共著だった。日本語で書かれた初めてのスクーバダイビングの教本だった。次に、書いたのは「水中写真の撮影」1972年で、これは大学の後輩にあたる小池康之と共著だった。
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僕は本を書くときに必ずと言ってよいほど共著で書く。教本の場合には、そのほうが視角も広くなるし、お互いの勉強になる。そして、1978年、盟友の後藤道夫と共著で、「潜水と水中撮影入門」を書いた。ちょっと前後するけれど1972年に新宿の高層ビル、住友三角ビルに潜水専用の水深10mプール DOスポーツプラザが「新宿に海ができた」というキャッチフレーズでオープンし、最初のダイビングブームと言える状況になった。そのDOの主任教師になった竜崎秀夫と共著で1976年に「スポーツダイビング入門」を書いた。この本をテキストにしてダイビングを習ったという人が、今のダイビングで一番古い世代になっている。

本業は調査潜水とテレビ番組の撮影になっていたが、日本潜水会から全日本潜水連盟へと、スポーツダイビングの指導にも時間を割いていた。スポーツダイビングの安全と発展は、僕の役目だとおもっていたが、スポーツダイビングでは生活できなかった。つまり、スポーツダイビングでお金を稼ぐ気持ちになれなかった。悪いアマチュアリズムであり、商売人になれなかった。そのことが、僕のスポーツダイビング分野での失敗に繋がったと、後で思うが、後の祭りで、みんなに迷惑をかけている。
この時代にこれだけの本を書いていれば、十分にビジネスにつなげることもできただろう。でも、夢と冒険を追う、テレビ撮影とリサーチダイビングでお金を稼ぐ方が性にあっていた。
話を「スポーツダイビング入門」にもどして、この本では、まだBCを使っていない。救命胴衣を着けている。

救命胴衣の最初は、1950年代、アクアラングが日本に入って来たときからある。クストーの映画「沈黙の世界」ではだれも救命胴衣はつけていなかったが、アメリカの兵隊は、航空機用のライフベストを着けていた。アメリカの兵隊にダイビングを習ったという流れもあるので、そのライフベストを譲り受けて使っている人がいた。舘石さんもその一人だった。
航空機用のライフベストは、炭酸ガスカートリッジで膨らませるもので、アメリカ空軍の装備だから、小さくて恰好がよい。別名、メイウエストと呼ぶ。戦争中のハリウッドにメイ・ウエストという胸の大きいグラマー女優がいて、この救命胴衣を着けると胸の辺りがメイ・ウエストになる。これは、とても良いベストだったが、市販ではないので補充が効かない。船舶用にも同じような炭酸ガス膨張用の救命胴衣があり、これを使うのだが、これはメイウエストのように恰好が良くない。だから、僕たちは救命胴衣を着ける派、と着けない派にわかれた。全員着けるようにと潜水士の規則には定められたが、ウエットスールの浮力があるのだから、ウエイトを捨てれば、溺れようとして溺れられるものではないし、獲物を求めて岩ノ下に身体を入れた時に引っかかって死ぬかもしれない。そんな時代だった。
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    救命胴衣つけない派 鶴耀一郎 着ける派 野田充彦(学習院大学)

炭酸ガスカートリッジの救命胴衣は、封板を突き破ると使い捨てである。水面で浮くために使ってしまえば後がない。僕は東亜で、小さい空気ボンベを着ける救命胴衣を作った。そして、背中のボンベから移充填できるようにしたが、これは水中で出来るわけではない。使った後で、陸上で補充できるだけだ。
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     僕の作った移充填式BC

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      フェインジイ

そして、次にヨーロッパから、フェンジイというメーカーのライフジャケットが出た。これがBCの原型だろう。小さな移充填できるボンベの他に、背中のタンクから中圧ホースで、蛇腹に空気を入れることができる。これを見た時に「やられた」と悔しかったが、なぜ僕が思いつけなかったのか。
そのころ僕の作っていたレギュレーターは、ダブルホースだった。シングルホースもあったが、まだ、ダブルホースが良いかシングルが良いか論争中だった。シングルホースを作っていれば、これを救命胴衣に導くという発想が出てきたかもしれない。
このフェンジイ救命胴衣ができて、ダブルホースの息の根が止まった。今ではリブリーザーがダブルホースで、開放式のスクーバはすべてシングルホースである。
フェンジイと同じような胸掛け式の(ホースネックとも呼ぶ)BCが使われるようになったが、これはABLJ (Adjustable-Buoyancy-Life-Jacket )と呼ばれ、一般に普及した。そして、BCの最初の型ともいえるスタビジャケットが売り出されるのが1977年ごろである。そして、日本で本格的にBCが普及するのは1982年以降だろう。
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    胸掛け式BC ホースネック(馬の首型)
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一方で、胸掛け式のBC(ABLJ)をタンクとハーネスの間に挟み込んだBCを自作する人もいた。スガ・マリンメカニックの加藤君がそれを愛用していた。神奈川水産試験場の工藤さんもそれを使っていた。バックフロートBCの始まりである。加藤君と一緒に潜ると、減圧停止をするときに僕がロープにつかまっている横で、きれいな姿勢の中性浮力で止まっている。しかし、僕はこの技術を学ぼうとはしなかった。
最初、僕たちはBCをスポーツダイビングに導入することには反対した。溺水防止ならば、ライフジャケットで良いではないか。理由は、操作を誤って急浮上して、空気塞栓になる可能性があるということだった。事実、BCの使い方がわからずに急浮上して、何らかの障害になった人も居たはずだ。まだ、少しずつ空気を入れたり出したりという使い方も知らなかった。そこで、浮上する時にはまずBCの空気を全部抜いて、フィンキックだけで浮上して、水面に到達したら空気を入れるというライフジャケット的な使い方をすることにしていた。
この浮上方法は、かなり後まで実行されていたから、この方法での浮上を教えられた記憶のあるダイバーもまだかなり残っているだろう。

しかし、スタビジャケットはかなり便利で、これを使うと良いですよ、などと、法政のOBでDOスポーツプラの主任コーチであり、スポーツ大会のチャンピオンである青木順一に勧められたことを記億している。そして、やがて、僕もBCを使っての浮上する方法を覚え、BCの空気を抜きながら、フィンキックをほとんどしないで浮上する方法も身に着けたが、ダイビングが下手になると思った。まだ、そして今でもプロのダイバーはBCを着けることを嫌い、着けると堕落したと思っている人もいる。BCを着けると引っかかるのだ、いまだに海保や、海上自衛隊のダイバーがBCを着けないのも同じ理由だろう。これは、いまでもリザーブバルブを使っていることとも関係があり、ジャケット型のBCでは、リザーブが使えないのだ。彼らが救命胴衣(救命身)を着けるとすれば、胸掛け式のBCであり、これならばリザーブバルブのプルロッドを引くことができる。
そして、スタビが普及する、その頃にはもう、僕の昔のスタイル、スポーツダイビング入門のスタイルのスポーツダイビングは、古いものになっていた。しかしまだ、中性浮力で浮き漂うというダイビングは、市民権を得ていない。つまり、まだ個人の技術であって、一般化はしていない。
 ここまでも、そして、ここから先もダイビングのスタイルはBCの進化、BCの形、BCの使い方によって変化し、進化してゆくことになる。

そして、PADIは、「泳がなくても潜れます」というキャッチフレーズで全国をそして全世界を風靡し始めた。スイミングが上手な者が、スキンダイビングが上手になり、スキンダイビングが上手な者がスクーバダイビングが上手になるという事を金科玉条としている僕たちは、これをとんでもないことだと言ったが、なに、自分の周囲を見ても泳ぎが下手なダイバーが沢山いる。ホースで潜るヘルメット式は歩くダイバーだし、ヘルメットから転じたフーカーのダイバーは、フィンを履かない。港湾作業の石均しなどでは、フィンが邪魔になるのだ。話が横道にそれたが。
そしてC-カードが生まれる。

0221 真野先生を偲んで

 真野喜洋東京医科歯科大学名誉教授が亡くなられ、昨夜お通夜があり、参列した。
真野先生は日本の潜水医学の分野で多くの業績を残された。専門的な医学分野での業績については、詳しくは知らない。知ったとしても、僕のスタイルの生き方、つまりダイビングの現場的な生き方とは、あまりかかわりは無い。自分の位置から見ると、業績の一つが、僕たちとの付き合いであった。どの分野のダイバーとも等しく、同一目線で話をして、適切なアドバイスをしてくれた。僕は幸いなことに減圧症にはかかっていないが、かかったとすれば、もっとお世話になることになっただろう。
真野先生の、これも僕にとってだが、僕の意見をなんでも聞いてくれた。聞いてくれたとは文字通りに聞き取ってくれたということだが、お願いしたことで、できることはしてくれた。このことは、僕だけではなく、きっと、昨夜のお通夜に参列した多くの人にとっても同じだったのだろう。専門分野である潜水医学では、真野先生ほど、直接、間接に減圧症を少なくしてくれることに実績のあった人は無かったと言ってよい。
僕が、「減圧症で死んだ人をこの頃聞かない。」と、安全停止などせずに、何かがあったら医科歯科大学に行けばいいなどとうそぶいていられようになったのは、真野先生のおかげである。先生に足を向けて寝てはいけないといつも言っている。
私的なお付き合いといっても、半分は公的なお付き合いだが、たくさんありすぎて、書ききれない。そのうちの一つだけ写真のあるものについて、
以下は2008年まで僕のブログは楽天のブログでその頃のものだ。

2008 4月12日 真野先生退官記念パーティ

 4月12日、帝国ホテルで行われた、東京医科歯科大学教授、真野先生の退官記念パーティに行った。真野先生はダイビング関係者には、説明する必要がないだろう。
 このところ、全然潜りに行っていない。ログを見たら、3月29日が最終だ。半月海にでていない。そろそろ狂いそうになる。
 真野先生には、本当にお世話になっている。困ったときには真野先生だのみだったことが何回か。僕のお願いを聞いてくれなかったという記憶がない。これは本当にすごいことなのだ。パーティに行ってみて、200人ぐらいの大パーティだが、知った顔が多いので驚いた。医学関係者以外の人脈が共通している部分が多いのだろう。知床の漁師の面々が勢ぞろいして来ていた。かつての、僕の知床エージェントである佐藤雅弘も来ていた。鮭定置の魚の値が良かったので、みんな金が有り余っているらしい。こっちは時化ていてイクラも買えないのに、まあ、みんな元気でお金があればめでたい。
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 真野先生と、知床でスノーモビルに乗って遊んだ時の記念写真を引っ張り出してきた。真野先生と僕と真ん中が、高校生時代のまだ坊やの息子さんだ。その息子さんも今ではお医者さんになっていて、会場で挨拶されたら誰だかわからなかった。
 写真を出してみたら、当り前だけれど、面影が残っている。
 歳月だ。パーティ会場で、僕がまだもぐって仕事をしていること、みんなに驚かれる。酒も煙草ものまないからだ。と答えることにしている。もう少し、あと10年、潜水仕事をさせてください。
 真野先生の後を引き継ぐ、山見先生に、僕が減圧症になって時の予約をしておいた。答えは、いつでもどうぞということだった。

 写真を見ると、86年3月と見える。こういう時に写真に日付が入っていると本当に助かる。この頃では、デジカメで撮る写真のほぼ全部に日付を入れている。
 で86年というと、須賀潮美のニュース・ステーション、水中レポートシリーズが始まった年で、そのニュース・ステーションも知床の流氷の撮影から始まった。
 この時なぜ、真野先生が知床にいたのか記憶を手繰ると、知床斜里の定置網漁師ダイバーが減圧症関係のアドバイザーとして、そして減圧症にかかった時のよりどころとして真野先生にお世話になっていて、その斜里定置網組合の潜水部の何周年記念かで式典があり、それに出席された、多分主賓だったと思う。僕も末席に呼ばれていた。斜里の定置網と僕との関係は月刊ダイバーに書いたが、定置網ダイバーの兄貴株であった佐藤雅博が、僕の知床でのエージェント、流氷の撮影も雅博の助力で始め、そして継続していた。
 斜里には自動車代理店を営む佐野さんという、雅博の兄貴分がいて、スノーモビルのチャンピオンだった。そして、真野先生、息子さん、そして僕がスノーモビルで遊んだ。
 そんなかかわりで、昨夜のお通夜にも知床代表として、佐藤雅博が来るというので、会えるかと期待して行ったが彼は今日の会葬に出席とかで会えなかった。

 そんな昔の話が、思い出せば際限もなく、真野先生とはある。先生が教授になった時、ヴアンティアンに招待した。そのもっともっと前、海中開発技術協会でもずいぶんお世話になり、そのもっと前の記憶はない。だから、1970年代からのお付き合いだ。さらっというけれど、40年余りだ。すべての事には終わりがあるが、、、、、

0222 法政アクア50周年

 バリ島での漂流事故について、書いたが、僕が考えを述べることが、この時期、適切であるかどうかについて考え直すようにJAUSの理事に注意されて、あえて火中の栗をひろうこともない。しかし、ダイビング関係者、とくに海外のダイビングリゾートについて、あるいは国内でも、ドリフトダイビングを行うポイントでは、明日は我が身である。また、否定的な視点での意見が出ることによって、お客が減るおそれがある。僕は決して否定的な意見を持っているわけではないが、これだけの大きな話題、ダイビング関係者だけでなく、日本中の人が、救出に一喜一憂した。人のうわさも75日ではあるが、ダイビング関係者は、もっと情報を集めて、今後の立て直しの状況を見守らなければならない。
 しかし、今ここで、取り上げることは、やめておこう。
 しかし、一点だけ、
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 ダイビングワールド 2007年12月号、パラオのドリフトダイビングを特集している。読みごたえがあって、ダイビングワールドも、ようやく読む価値のある雑誌になってきたか、と保存した。そしたら、その2号ぐらいあとに休刊になり、復活はしていない。僕が良いと思うものはダイビング界ではダメなのか、と、少しばかり落胆したが、パラオのドリフトダイビングのほぼ全容がわかる。そして神子元についても取り上げられていて、
 そのことを、フェイスブックに書くと、大久保正昭 さんが書き込んでくれた。「確か現地サービスの神子元ハンマーズ、290、タートルフラワーのガイドさんは皆持ってたと思います(辰丸は最近のってないので不明)現地サービスの取り決めで30分経っても浮上開始しない場合は全ての船がダイビングをやめて捜索開始、またゲストをロストした場合、ゲストがはぐれた場合の対処法(他船でも助けをもとめてその船に拾ってもらうなど)細かく決めてあって、ゲストにもブリーフィングで周知させています。なかったのですが。2007年のダイビングワールドにそのように書いてありました。」
 このあたりが、解答だろう。インドネシアでもフィリピンでも、どこでも、できることだ。
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 法政大学のアクアクラブ50周年の記念式典(2月22日)に招待していただき、50周年記念誌「法政アクアの桟(かけはし)に「半世紀の歴史の先にある学生ダイビングの未来」と題して、あいさつ文を書かせていただいた。この部の創部の時から、いやその少し前からのお付き合いがあったので、書かせていただくことになったのだろう。
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       校歌斉唱、音頭を撮っているのは、青木さん
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       コーナーには、僕が50年前に作ったレギュレーターが飾られていた。

 僕にとってもこの50年の記憶、法政アクアとの絆は、強い。そして、そのOBである娘の亭主である柴田君、彼は文句なしの親戚だが、青木さん、丸山さん、松田さん、JCUE の会長の山中さん、オーシャンαの寺山君、そして、初代の加藤さんは、1967年の日本潜水会学生会員であった。以下、ここに書ききれないが、OBはみんな他人とは思えない。
 事故を絶対ゼロにすることなどは、願いはしても実現できない可能性もある。しかし、事故が発生したあとで、あの時こうしていたら、とか、こうゆう手法でやっていれば事故は起こらなかったのに、という防げた事故は、絶対に起こさないでほしいと願う。
 書かせていただいた原稿の一部だけ「 安全潜水、無事故を目指すと言われますが、不特定多数についての安全はタダの呼びかけにすぎません。しかし、特定のグループや活動範囲を限定すれば、「不可抗力と判断できる事故以外の事故は起こさない」ことは可能であり、絶対を目指すことはできます。そのために必要となるのが、文書の記録と今後起こり得ることを推察する力です。特に後者は個人の経験によることが大きいため、全員で共有するためには文書にしておく必要があります。これらの要点をまとめたルールに基づき、器材,、体制、訓練の面で準備し実行します。こうしたローカルルールは、それぞれのグループの環境や状況において、限定された範囲での絶対を目指す具体的な規範になるものです。中略 学生のダイビングクラブは安全を全員で追い求めて行くプロセスこそが活動のすべてだと思うからです。」
 
 法政大学だけでなく、芝浦工大の45周年も呼んでいただきましたし、中央大学は、先日のシンポジウムで発表していただけました。学習院大学も第一回のシンポジウムで発表していただいた。これらのすべてが僕の財産だとおもっている。財産を後に残して行きたいという思いが日本水中科学協会であり、その活動である。
 2月2日の中央の発表は素晴らしいもので、法政での講演にも引用させてもらった。すべての学生ダイビングクラブに、それぞれのローカルルールに基づいての役割分担と責任体制を明確にされた文書の発表を順次お願いして行きたいと思っている。

0227 要約するとー3


 月刊ダイバーの連載「ニッポン潜水グラフィティ」書けなかったこともあるし、書いたがスペースが無いためにカットしたエピソードもある。月刊ダイバーのグラフィティは、娘の須賀潮美の編集であり、彼女のコンセプトが、「夢と冒険」であったので、そのコンセプトからはみ出した、技術的な問題も書けなかった。この「夢と冒険」のコンセプトは正しくて、21世紀のダイビングでは、夢と冒険を追うことはとても難しい。僕の過ごしてきたダイビング生活は、海に潜るという事、ただそれだけで、夢と冒険だった。
今、中田誠さんの書いた「商品スポーツ事故の法的責任」という本を読み返している。これについて論じるのはまた別の機会にしっかりと書きたいが、夢と冒険は、この本にかかれているところの「商品スポーツ」にはなりえない。前にこの本を読んだ時に、反発、反感をもったのは、自分が「夢と冒険」の真っただ中にいたからで、今は少し違う視座から見られる。
バリ島の漂流事故について、ずいぶん書いたり消したりした。ブログも削除した者、削除した部分がかなりある。ここしばらくは、この事故については書かないでおこうとおもっている。しかし、流された彼女たち、そして、命を失くした二人は、夢と冒険を追ったのだ。技術的にもその場の処置についても不備なところがあり、見方によれば、人災といえないこともない。すべてのダイビング事故が人災であると同じ程度に人災だったように、そして夢と冒険を追うダイビングのすべてが、一つ間違えば、人災になり得る問題を内在している。
ああ、もうこの事故について書くのは、しばらく封印のはずだった。
そして、とりあえずは、月刊ダイバーで漏れたエピソード、技術的な問題、そして、1986年で終わっている、その1986年から後のことをぼつぼつ、ブログで書いておこう。これがその3回目だったか。

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        沼沢沼発電所取水トンネル
1981年、龍泉洞を撮影した。そして次の年、1982年(昭和57年)3月、東北電力の依頼で、福島県沼沢沼揚水式の水力発電所の取排水トンネルの調査をやることになった。
揚水式とは、夜間、工場が停止して電力消費が少ない時間帯に余った電力を使って発電機を逆転させて、只見川にある下部貯水池から山の上の沼沢沼に、水を揚げる。揚げた水を昼間に落として発電する。水力発電所とは、電力イコール水のエネルギーだから、夜の間の電力で水のエネルギーを貯金する。そして、昼間に貯金を下ろす。僕たちの受けたのは、夜のうちに、余った電力を使って、只見川の水を上げて沼沢沼に送り込む横穴のトンネルの調査である。ヒビが入っていないか、連結している管の隙間がずれているのではないかを見る。水を一気に落下させるトンネルが山の斜面に並んでいるのを水力発電が盛んな時代には、山岳地帯ではよく見ることがあった。しかし、その落下トンネルは入ることなど不可能だ。沼から、水の落下点に水を導く、山の上にあるほぼ水平なトンネルである。このトンネルを水が往来する。

山の上の入り口からトンネルの中に入り込む。トンネルの長さは480m、行き止まりの沼の出口は格子のような蓋で塞がれている。向こうに抜けることはできない。行って戻って来なくてはならない。水深30-35m、水温は3月で3度。淡水の3度はレギュレーターが凍結して吹き出す。
タンクを背負っていって、仕事をして戻ってくる空気量は無い。減圧停止も長い。
トンネルの中にやや太いホースのエアラインを引き、4人一組のチームだから、先端部で、4本に枝分かれさせたフーカーホースを着けた。この、やや太いホースで送られる空気の吸い口までの往復だけをスクーバで行う方式を考え出した。
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        沼沢沼調査メンバー
月刊ダイバーのグラフィティに書いているが、1970年代、スガ・マリンメカニックの労働条件は、原則として、日曜日は仕事が無ければ休み、海に行くときでなければ、出勤はフレックス、社会保険なし、各自国民健康保険に入る。ボーナスなし、退職金も無し、仕事が無くなれば倒産、と言っても倒れる産は無いから、事実上の消滅、ダイビングはロシアンルーレットのようなものだから、弾がでれば人生は終わり。それでも良いというダイバーが入ってくる仕組みにしていた。それが、やがて少しずつ整備されて、当たり前の会社になりかけたところで、皮肉なことに事故がおこった。このことは、やはり月刊ダイバーの3月号、最終回に書いている。「夢と冒険」と会社業務の間で起きた事故であった。
ロシアンルーレットの緊張感が大事なのかもしれない。しっかり管理するなどと言いながら、抜けている。会社、組織としてダイビングをやることは、とても難しい。つまり、自己責任の緊張と、管理責任の人任せの谷間があり、管理責任の方が何倍か難しいということだ。管理責任で人の命を管理することなど、出来ないのではないか。管理責任を本当に負うのならば、今のレクリエーショナルダイビングは、まったく変わった形になるだろう。

ロシアンルーレットで入社してきた鶴町(中央大学海洋研、村田さん、丸山さんと同期のNAUIインストラクター)と、その後すぐに入ってきた井上孝一(東海大学卒、水中エレクトロニックス、バイテレを卒業論文テーマにしていた)は、入社直後に、やはり山の上の発電所の取水トンネルの調査に知り合いの工事会社に人出し(労務提供)で行ったことがある。工事は、彼らの他にもう一人、年長のダイバーと三人チームだった。点検が終わり、年長の一人が、トンネルの中にスパナ―を忘れてきたと取りに戻った。そのまま戻ってこなかった。二人が探しに行くと入り口から20mぐらいのところで、空気が尽きて死んでいた。
径が3mぐらいの管は、暗い水中でライトだけが光で見るとただの壁である。管だから上も下も左右もわからない。だから、ロープは必須である。もちろん、作業中はロープを着けていた。作業が終了し、ほんの数メートルだからとロープを体に付けないで入った。ベテランの過信だ。
僕はこの事故を肝に命じていた。だから、太いホースでの空気供給システムを考え出して、作った。メインのホースがあるから、ロープを体に付ける必要はない。ただ、太いホースも、どっちが出口かわからなくなる。ホースには、50m間隔でマイク・スピーカーを着けた。これで水面と通話できる。水中から、「今どこにいますか」と声を出せば、何番目のマイクからしゃべっているかわかるから「何メートル地点」と答えが返ってくる。僕たちの得意分野の水中音声を使ったものだ。
先端までの480mは、遠い。往復にスクーターを使うことを考えた。当時はまだ珍しく、スガ・マリンメカニックは持っていない。大阪の、マリン、山本進さんが持っていたので借りた。かなり大きいものだが、4人交代のダイバー4人を牽引して走る力は無い。僕だけが使うことにした。チーフダイバーの河合に言われた。「そんな玩具を使って、もし壊れたらどうするんですか、僕らが引き上げに行くのですからね。」「電池でモーターを回しているだけだから、こわれないよ。壊れても世話にならないから。」
水温3度は冷たい。怖いのはレギュレーターが凍結して吹いてしまう事だったが、幸いにして、凍らなかった。フリーフローした時のために、メインホースの50m置きに、枝分かれしたセカンドステージを着けて置いた。吹いても、メインホースの空気は無尽蔵だから、何とかなる。とにかく冷たい。スポンジの手袋の中に水が入って来ないように、ビニールテープで手首を軽く巻いた。もちろん、着ているのはドライスーツだ。
そのビニールテープがほどけて、ぶら下がっていた。それがスクーターのスクリュー軸に絡まった。スクリューは止まった。スポンジの手袋では、絡まったテープは外せない。思い切って手袋を外した。外した時は切られるように冷たかったが、1分も我慢していれば、冷たさに慣れるので大丈夫,。

苦労はしたけれど、調査は無事に終了し、500mのメインホースもするすると引きだせた。先端から、毎日、工事の終わった分だけ、引き出していたから、終わりころには、50mほどになってはいたが、無事に撤収して、これで安心と思うと、ベテランダイバーの太田さんがいない。「工具の撤収に戻って行きました」という。トンネルの中には、何一つ残してはいけないのだ。一瞬血が引いた。それをやらないために「工事指示書」マニュアルも徹底したし、大掛かりにスピーカーも付けた。その命綱のメインホースを引きだした後に入って行く。すぐに迎えに行くダイバーをスタンバイさせたが、無事だった。

このシステムで龍泉洞をやろう。皆に相談すると、関わりのあるプロのダイバーはほぼ全員参加希望、交通費と食事が出ればギャラは要らないとまでいう。30人も集めて、このホース引き込み工法でやれる。プロ作業ダイバーの大イベントになる。
 何度となくテレビ局に企画書を出した。通る寸前まで行ったのも二つあったが、「本当にX洞はあるのですかね?」と聞かれると、「あります。」と答えればよかったのだが、わかりませんと答え、すべて実らなかった。テレビ番組は結果が必要だ。
 後に久保君が、洞窟学会の調査として龍泉洞潜水をやることになり、その手があったかと思ったが、久保君は、JAUSの中心である理事である。当時の道具が残っていれば、何か手伝えかもしれないが、何も残っていない。
 



0301 潜水士の本


共著者の工藤君が潜水士試験テキストを告知したので、紹介する。

「よくわかる潜水士試験 完全攻略テキスト&問題集」が、ナツメ社より発売。
 発売の予定日は3月17日、価格は2500円(税別)。
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この本の計画をしてからここまで3年の時間が経った。迷いもたくさんあったし、この制度そのものにも考えることが沢山ある。工藤君との意見の差もずいぶんあったような気する。僕よりも彼の目指しているところが高い。僕はとにかく受かれば良い参考書、彼はもう少し理想が高い。そして、計算問題の解き方もきちんと方程式を立てて、解かなければいけないとしている。彼の方が正しいと、考えて、その方向になった。
 若干難しくなったかもしれない。しかし、表紙を見ていただいてわかるように、この本は、スクーバダイバーによって、スクーバダイバーのために書かれた日本で初めての潜水士テキストである。問題集の形式を採っているが、これによってダイビングのすべてが、そして、日本のダイビングの規則の歪みも見えてくるはずであり、そして、とっくの昔、潜水士の資格を取ったダイバーも、今の潜水士試験の状況をしることができる。

 潜水士免許が日本における唯一の免許である。スクーバダイビングのための規則とは思えないのに、スクーバダイバーもこの規則によって縛られるという大きな矛盾がある。しかし、この規則が、スクーバダイビングの安全のために役立つようになんとか育てて行きたい。この本が出てからだが、潜水士の勉強会をやりたい。ヘルメット式潜水についても、先日のシンポジウムで、日本で唯一ヘルメット式潜水を若者に教えている種市高校に発表してもらったが、このテキストの内容とずいぶんずれがある。また、今の作業潜水は、応需弁月の全面マスクが中心になっているが、その運用についても、テキストとはずいぶんと変わってきている。
 システム潜水については、僕は専門家ではないが、この規則、テキストを論じることで、一般のダイバーにも理解ができるのではないだろうか。
 日本のダイバーは、みんな、この規則、潜水士テキストをバカにしている。しかし、細部はともかくとして、骨組みはしっかりしている制度なのだし、いまさら廃止することもできない。すなわち、ダイバーが逃れることができない規則なのだかれ、なんとか、これを良くする。この法律の目的の通りに、ダイバーの働く現場、仕事場の環境をよくして、安全に役立つように、考えて行かなくてはならない。この本は問題集なのだが、この規則、そして、多分改訂されるであろうテキストを論じて行きたい。
 かなり、レベルの高い議論ができるのではないかと思う。
 そして、今度減圧表が改定されるというが、僕は改訂後の公のテキストについては順次議論して行きたい。 残り少ない潜水人生の最後の段階で、潜水士の規則がスクーバダイバーの安全に本当に役立つようになってほしい。そのための活動の、これは、まえがきのようなものと考えている。
 なんだこれは、違うではないかとおもわれるところも多々あるとおもうが、それは、このテキストが準拠している「公の」潜水士テキストの問題点なのであり、それを突き詰めて行くことをこれまでやっていなかった。潜水士の資格を持っている人も、無視してきた人も、これから受験する人も、必携のつもりで書いた。そして、よく言うのだが、今から50年経って、もう潜水士の姿がまるで変ってしまった時、そうなることを願っているのだが、このテキストを見て、ああ、2014年当時、日本の潜水は、こんな形だったのだとわかる資料にもなるだろう。

0303 波佐間ー1

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  1970年代の魚礁テレビ撮影
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970年代、福島の魚礁、ホヤに縁どられて、黄色いアイナメ、二葉町、福島第一の近くである。

 人工魚礁を撮影記録するサークルを立ち上げようとして、そのテスト的なダイビングを千葉県館山、内房で計画した。2月には、海が時化てだめ、3月2日、二回目のトライにでかけた。

 JAUSでは、ダイビング活動を実施展開する研究会をつくろうということで、その第一弾として、ウエアラブルカメラ研究会を2013年春に活動を開始して、9月8日のフォーラム、そして先ごろ2月2日のシンポジウムで活動結果の作品発表会を開催して、好評をいただいている。
 まず、最初は、2012年12月のシンポジウムで、ウエアラブルカメラについて発表した。レクリエーションダイビングでは安全管理をおこなうインストラクターは指導の結果をチェックするために、ガイドダイバーは、水中での動きを全部記録しておくことにより安全につなげることができる。リサーチダイビングでは、リサーチとはすなわち記録、記録と言えば撮影、水中でのリサーチにはウエアラブルカメラが最適、と提案したのだが、次第にそのようになり、どこの海でもダイバーはウエアラブルカメラを持っているようになりつつある。もちろんJAUSメンバーのダイバーの多くはこれを手にしてダイビングしているし、また、するようになるだろう。
 今度の人工魚礁は、まだ研究会の前の段階であるサークルで、先のウエアラブルカメラに比すると、2012年12月のシンポジウムでの、ウエアラブルカメラ発表の前段階のようなもので、2014年秋のシンポジウムで発表して、2015年に研究会が発足できるかどうかという試みである。3月中にはその概要をホームページに発表する。サークルの段階では、JAUS会員でなくても参加できる。
ただ、本当に自己責任になるので、原則として、公知された指導組織のインストラクター、もしくはVカード保持者、または、ダイビング経験20年以上として、それ以外の方の場合は、インストラクター、あるいはガイドダイバーと密着した1:1のバディで活動してもらう。
ここまでは公式ホームページに載せる発表の下書きだが。
 さて、3月2日、2回目のトライ。ここからは、須賀の日記風になる。
4日前の波浪予報では、凪が予想できた。しかし、2日前になるとだいぶ怪しくなってきた。しかし、房総半島の内側だから、大丈夫かもしれない。前日の3月1日土曜日になると、だめだろうなあ、という気配になってきた。
 しかし、僕は、11月中旬に式根島に行って以来、毎月のお台場と、プール練習に明け暮れるだけで、本物の海に行っていない。波浪があった場合の逃げとして、波佐間海中公園に行こうと考えた。ここにも3年以上ご無沙汰している。波佐間は、目的としている塩見よりもバス停にして二つ先になる。
 朝、5時に起きて、6時集合、僕は石川さんの車に乗せてもらう。後二人のメンバー山本さんと小俣さんはそれぞれ、自分の車で館山道を下って行き、途中、携帯での連絡を行いながら、館山での待ち合わせとしている。6時少し前に塩見の組合長に連絡を入れる。「今は風は吹いていないようだね」車で走る。習志野あたりまで来たとき、組合長から電話が入り、悪いようだという。予定通り?波佐間だな。波佐間のオーナーである荒川さんに電話を入れる。荒川さんとは約50年の付き合いで、そのエピソードを書き連ねれば、月刊ダイバーの(終わってしまったが)連載、一回分ぐらいになる。
 ダメでも、とにかく塩見の港まで行ってみよう。海を自分の目で見ないといけない。
 塩見では、いつも舟を出してくれる佐野さんが待っていてくれたが、海を見ると、やはり波が1.5m-2mだ。リサーチは、たくさんの道具(カメラ)を持ち込む用意をしている。本当の凪でないと良い結果が期待できない。
 
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      予定していた魚礁(小さい)

 一つだけ良いことがあった。実は、今回目指している魚礁は、それほど、面白くは無い。水深が7-8mと浅いこともあって、そして、2013年の6月に調査をしているので、その補足的な意味もあるので選んで調査しようとしている。本当に行ってみたいのは少し沖に出た、水深20-30m線にある1.5立方の魚礁群である。
 港に組合長が出て来てくれたので、今度来たときには沖も潜らせてくれと頼むと、それだけではなくて、そのさらに沖に新しく沈設した大型の魚礁を見てくれという。実は、僕はこの新しい魚礁についての情報を持っていなかった。この沿岸にもしかしたら魚礁の大きなプロジェクトとしては、東京近辺では最後になるのではないかと思える計画については知っていたが、その詳細、しかも塩見の沖に沈設が行われたことを知らなかった。まだ誰もその写真を撮ったことは無いという。そういう魚礁を見ることが、JAUSのこの人工魚礁サークルから研究会への目標の一つである。

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 これは、波佐間の隣の浜田沖にある魚礁


 東京湾の入り口内房の館山、沖ノ島から洲崎にかけての大魚礁群は、この沿岸に並んでいる定置網の漁獲増大を目指して置かれたもので、このようなプロジェクトとして最後のものだろうと思う。スガ・マリンメカニックで僕が本格的に魚礁に取り組んでいる時でも、魚礁の調査予算は少なかった。沈設した時に、設計通りになっているかどうかを調査するが、その後、魚礁の状況を調査するということは無い。予算がつかない。要するに漁獲が増えれば良いわけで、魚礁がどうなっているか魚がどういう具合になっているかは、問わない。調べられれば調べた方がいいが、潜水調査の費用は小さくないから、その調査に見合う成果はない。調査したからと言って漁獲が増えるわけのものではない。しかし、どうなっているかも調べずに、莫大な金額を海に置き去りにしている。僕たちがその調査の簡略なフォーマットを作れるならば、有意義だと思う。
 
 とにかく塩見では潜れない。予想通りで波佐間の荒川さんのところに行き着いた。そこでまた、この魚礁群の話をした。この沿岸で唯一工事作業ダイバーの経験がながく、さらに定置網の調査の経験も長く、70-80は、空気で普通にもぐっている荒川さんである。この魚礁群の情報も詳しい。図面をもらって、今後の協力も得る話もできる。波佐間は岸から沖に向かって魚礁群がのびている。まず、この地域でフォーマットが作れれば、それを発表して、他の部落の魚礁に展開して行けば良い。しかし、僕に残された時間はほんのわずか、フォーマット作りの準備ぐらいで終わってしまうかもしれない。海は生きている時化も凪も流れもある。こちらの予定には合わせてくれない。

 冬だし、寒い。お客は僕たちの他にワングループ、女性2名、男性2名で、これは大きなボートでスタッフの萩原君がガイドする。僕たちの方は荒川さん自らが、小さい方のボートを出してくれる。小さいと言っても、塩見のボートに比べれば全然大きいし、フラットだから使いやすい。
 僕と石川さんは、同じ、スポンジのドライスーツ、僕のウエイトはジャケットタイプの7キロ、そして、ウエイトベルトとして3キロ、レッグ、足に巻くウエイトが1.7キロ、合計で11.7キロになる。深さは25mが底だから、重すぎる。しかし、この頃は水深3mで安全停止しなければいけない。水深3mで浮いてしまわないようにというと、お台場と同じウエイト設定になる。底ではBCに空気を入れる。タンクは12リットルと10リットルだが、僕は10リットルにした。他の三人は12リットルだ。僕に合わせるのでは申し訳ないが、僕の空気量に合わせてもらう。
 潜水地点は、平成10年に沈設した2m角のブロック165個を、荒川さんがきれいに三段に積み重ねたもので、ドリーム魚礁とネーミングされている波佐間で最も人気のなってお金を稼いでいる。荒川さんのところに来る、僕たちのようなお客ダイバーは、ひとりについて、いくらと漁協にお金を収めている。

 
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 波高は1.5-2m 2mになると小さいボートは、向い波では、頭から水をかぶる。ウエイトを付けてタンクを背負うと、今の僕のフィジカルでは、ボートの上では身動きできない。荒川さんは、たしか69か、70だ。ウエットスーツで船外機ボートを操船し、ドリームの上の係留索にもやいをとる。僕らを入れてから、素早くウエイトを付けタンクを背負って飛び込んでくる。僕は、多分、65歳で癌をやるまでは、彼と同じぐらいの動きが楽にできたと思う。70歳では彼のようにはできなかったと思う。しかし、荒川さんも、4-5日潜らないと体が鈍るという。船縁の椅子に腰を掛けているのだが、身動きできない、そのままバックエントリーするのが普通だが、僕は一回舟底に四つん這いになりそのまま這って、サイドロールで入る。しばらくぶりの海だから、BCの空気を抜いて、ドライスーツの空気を抜き、ロープまで泳いで行くのが、少ししんどい。ロープにたどり着いて、BCの空気を抜いて、足から入って行くドリーム魚礁の上の面は、18mぐらいだろう。
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   ポールカメラが僕たちの人工魚礁調査の武器になる。
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 透視度は8mぐらいで、この魚礁の美しいソフトコーラルが美しく見えることは無い。
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 波佐間の売り物は、コブダイだ。金槌でトントンと魚礁を叩くと、餌をもらえると思って出てくる。魚礁の上にビニール篭に入れてあるサザエを金槌で叩き壊して、餌にする。

 ダイブコンピューターによれば、最大水深は23m、海底に着地はしなかった。0950-1025まで潜水時間は35分、水温は13.2度。ここは減圧停止用のとまりぎがある。2分ほど止まって浮上した。石川さんを先に上げて、僕は3番目に梯子に掴まった、かなり揺れている。梯子を膝で上がって、後一段で身動きが出来ない足を梯子にかけて登れないのだ。この前11月の式根島では上がれたのに、梯子に掴まったままタンクを外して、石川さんにあげてもらって、ウエイトを外し、空身になってやっと上がった。
 この動きで僕は完全に消耗してしまった。岸に上がって道具を上げて、これで今日のダイビングは終わりにしようとおもってしまった。もう目標の魚礁も見たことだし、しかし、ストーブで暖まってやすんでいるうちに回復して、問題なく二回目の潜水をしようとしていた、仲間と一緒に潜る気持ちになった。僕だけが無理をしないで、ダイビングをお休みするなどという事はこれまで無かった。
 2回目を潜らなかったら、完全に僕は矜持を失うだろう。
 続く
 

0304 波佐間ー2

 この年齢になって、学んだり反省したりすることばかりなのは、どういうことなのだろう。とこれまた反省してしまう。そういえば、反省してはいけない、突き進めというのがこれまでのモットーだったから、進めなくなったので反省するのかな。

 一回目の潜水から上がって、「今日はもうこれで良い」と思ってしまったこと、そんなことを思っただけでもいけない。何でも消極的になっているようだ。「G0.for broke! 」
の心意気はどこへ行ってしまったのだ。「寒さ、体の辛さ」は望むところではなかったのか。安全とか慎重とかいう言葉、感覚が、頭の中を占領している。
 バリ島の事故のことを考えたり、中田誠の商品スポーツ事故の法的責任、などという本を読んでいると、そういう感じになる。自分の責任を果たそうという気持ちになる。最終的にはバランス感覚の問題になるのだが、それにしても、消極的にバランスが傾いている。
 
 このところ、BCはハルシオンのバックフローティングを使っている。この方がトリムを取った水平姿勢をとりやすいと思うからなのだが、どうも、自分の身体の一部になった感覚を持てない。だから、ダイビングが下手なのだ。水平姿勢についても、これでおよそ3年間練習しているけれど、これが自然体にならない。この考え方が正しい、重要だとおもうから、プライマリーコースをやっている。若いころ、ダイビングを始める時から、この姿勢で練習することはとても良いことだし、これが21世紀のスクーバダイビングだと思う。しかし、僕は20世紀のダイバーなのだ。ここまで来たら自分のスタイルを貫かなければいけない。もちろん3年間の練習は無駄ではないし、これからもプールでの練習は繰り返し続けて行こうと思う。しかし、フィールドに出て、波のある状態、流れの速い状況では、自分の自然体を貫かないと却って危ない。これまで3年間の練習はその自然体に反映しているはずだ。60年間しみついたスタイルは容易に代えられるものではない。練習とフィールドは別で、フィールドでは自分の自然体で行こう。荒川さんの潜水、身体の動かし方を見ていて、自分のスタイルもあれだったなあ、と思ってしまう。自分のスタイルを捨てるという事は、初心者に戻ってしまう事なのだ。そしてフィジカルでは、若い初心者に及ばないとすれば、もういけない。
 インストラクションをするときに、新しいスタイルでやれないと、出来ないということはある。だからもう、自分で手本をやってみて、やらせるという事はあきらめなくてはならないだろう。それこそ、もう、次の人が育ってきているのだから、プライマリーコースでは、別のデモストレーターが必要で、アンバサダーという役割を作った。
 一回目の潜水で、ボートへのエキジットに手間取り、助けてもらいすぎた。ハルシオンのBCが、ワンタッチで外せなかった。
 今後は海に出る時には、体の一部になったアポロのプレステージにしよう。これは、あまりにも旧型で修理部品も無いかもしれないが、2台持っているので、一台をメーカーに送り返して整備してもらうことにしよう。先日、後藤道夫の葬儀で、メーカーの営業部長に会ったので頼んでみよう。新型でも同じ感覚で使えるならば、良いけれど、どうだろう。

  午後は、高根という水中神社を祀っているポイントに潜る。ここも10回以上潜っているが、濁っていると方向がつかめない。
 ボートはブイにつかまっているが、ブイを潜降索として使うためには、少し、7mほど水面を泳がなければならない。荒川さんは、潜降索と船の梯子を結ぶようなガイドラインを付けてくれる。考えて見たら、親しい古い友人だが、こんな形で一緒に潜ったのは初めてだったかもしれない。
 もう、20年前になるだろうか、いや、25年前か、玄界灘の水深80mの魚礁を調査することになり、ヘリウム酸素の潜水だったが、僕が総指揮で荒川さんにダイバーを頼んだことがあった。報告書がどこかに残っていたはずだから、今度、荒川さんのところに行くときに持って行ってあげよう。あるかな?その時も、僕は潜ったがバディではなくて、トップ(船上)の指揮だった。今はお世話してもらって一緒に潜る。
 午前の潜水よりはスムースに海底にヘッドファーストで潜り着いた。周囲を見てもだれもいない。見通しがきかないのだ。潜降索の直下を動かずにいれば、誰かが来てくれるだろうと待つ。

 透視度が良ければ、近くに見える位置に、大鳥居がある。3mほどの高さか。コブダイを集める場所でもある。近くに、エアードームもある。これは前に来たときには無かった。樹脂製の透明な半球上のドームで、ダイバーは、この中に顔を出して、マスクを取り、話をすることができる。システムダイビングで言えば、オープンベルであり、透明なベル(釣鐘)を沈めて設置したものだ。
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 大鳥居から、神社への参道は、ガイドラインが付いているので、ラインを手繰れば10mほど離れた、小高い根(高根)の上の神社にたどり着く。ステンレス製の小さな神社で、ご神体の象徴はガラス玉のようで、青々とした樒が両側に供えられている。荒川さんは手袋をはずして、神社の屋根、と周辺をはたくようにして、ごみを落とす。ゴミのようなものがなんだかわからないが、叩いて散ると、それを餌にする、カサゴや黒鯛が集まってくる。聞かなかったが何かお供え物なのかもしれない。

 神社を越えて、縦に走る根に沿って一周してくるのがコースになっているのだが、20mほど進んだところで、僕の空気が100になった。波があるからエキジットは容易ではないだろう。二分の一ルール、空気圧が半分になったら戻るルールを適用して、僕は、戻るサインを先頭を行く荒川さんに送った。了解して戻り始める。僕のタンクは10リットル、みんなは12リットルだから、まだ150は残っているだろう。
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 戻り道で、鳥居のところで、ハンマーで鳥居をたたき、コブダイを呼ぶ。良く慣れていてたちまち現れた。置いてある生簀からサザエを取り出して、砕いてやる。コブを撫でても、しばらくは我慢している。そのあたりで、餌をやっている野良猫ていどには慣れている。
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オープンベルのエアードームは、システム潜水では、水面からホースで空気を送るのだが、ここではタンクを持って入り、バルブを開いて空気を入れ替える。そのために、タンクを持ち込み、またボートに戻さなければならない。酸欠が一番恐ろしいので、どうするのか見ていたが、まず、山本さんが顔を出し、交代して小俣さんが入ったときに、空気を噴出させていた。
波佐間の海底は、別に何の変哲もない場所である。それを、人工魚礁を組み立ててドリームを作り、高根の上には神社を作り、コブダイも慣らし、半球のドームを設置して、レクリエーショナルダイバーを楽しませるように、努力を惜しんでいない。
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 水面へ上がる途中に減圧停止用のバーがある。荒川さんはちょっと止まっただけで浮上して、ボートに上がり、僕たちを待ち受けてくれる。浮上しかかって水面を見ると、すごい波に見える。上がれない波ではないが、迫力があるので撮影しておいた。僕は後から上がって、タンクを受け取ってもらいたいので、みんなを先に上げる。梯子に掴まってしまうと身動きができなくなるので、タンクを外して上げてもらい、7キロのウエイト、3キロのウエイトも上げて、ボートの縁に手をかけて、よじ登る。自力でも上がれるのだが、上で引っ張り上げてもらって、難なくボートに転げ込む。
11時57分潜水開始、最大水深17.2m 12時30分潜水終了、潜水時間33分、
水温13.4度、透視度8m
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      小俣氏撮影の須賀 気に入ったので。

このダイビングが商品スポーツと呼べるかどうか、別に来ていたグループも無事に潜水を終了して、満足して戻って行った。しかし、波は高く見えた。
ドライスーツを着て、12キロのウエイトとタンクを背負うと、79歳の自分には、エキジットが苦行だ。若いころはこんな波は波ではなかったと言って見ても、それならば、やめれば?と言われてしまうだろう。苦行=スポーツだと思ってやらないとやれない。やはり、トレーニングが必要で、トレーニング=スポーツである。
帰り道、眠りかけそうな石川さんの眠気覚ましもあって、ダイビングの安全と自己責任について議論する。 

0305 雑感

  朝起きて、毎度のことだが、高校時代のバスケ合宿の朝だ。これを縮めて合宿の朝としよう。合宿の朝をレベル10として、今朝はレベル6ぐらいだろう。フィジカルなトレーニングを続けなければ人間は生きて行かれないのだが、芝浦工大の足立先生、50mフリッパーの対戦相手である石川君のように、ウエイトトレーニングは趣味ではない。出来るだけ、辰巳国際プールを借り切り、一緒にトレーニングしてくれる仲間を集めて泳ぐ。
その成果が合宿の朝、レベル6となる。
朝起きて、ベッドの中で本日やるべきことを考える。頭の中で箇条書きにする。しかし情けないことに、ベッドから出て、PCに向かった時には、この箇条書きが消えている。
時にはベッドの中で、これから書こうとする文学的エッセイの原稿も頭の中で描く。これも消えてしまうから、ほぼ永久に僕のエッセイは文字になることは無く消失する。
消失、忘却という事を考えた。「忘却とは忘れ去ることなり。」この名文句をラジオドラマで聞いたことのある人は、もうあまり生き残っていないだろう。「忘却とは忘れ去る異なり、忘れ得ず忘却を誓う心の悲しさよ。」だったかな、こんなどうでも良いことを覚えていることを思い出しているうちに、今日なすべきことのリストを忘れ去ってしまうのだ。
頭に気合を入れて、思い出そう。

①メールの返事を書く。「ニッポン潜水グラフィ」の出版についてのメールの返事をださなくてはならない。出版については、著者が手売りが条件になる。これまで、何冊ものダイビング関係の本を書いてきたが、幸いなことに手売りをしなくても良かった。結構しんどいから、100部ぐらいかなと返事をだした。CCで潮美にメールをしているのだが、気合が入った。本は著者の手売りが何ぼのものなのだ。水中カメラマンもKさんも、Uさんもいつも持って歩いて売っている。彼女も自分の本を300は売った。500を目標にしなさい。500目標で企画が通りそうだというメールの返事をだす。お、500-1000を押し売りすることになる。考えてみるとこれは良いことで、買ってくれる人のことを頭に置くと、憎まれ口は書けない。

②確定申告の書類を作らなければならない

③これもメールだが、関東学生潜水連盟についての企画というか、自分の考えをまとめたものを書いたが、書いては書き直している。そろそろ踏ん張ってジャンプ(メールをだす。)しなければならない。

④人工魚礁研究サークルの企画も現時点のものをまとめて、ホームページにアップしなければならない。

⑤後藤道夫の偲ぶ会について、日にちを理事会で決めたのだが会場にしようとしていた、東京海洋大学が借りられない。4月、5月は空いていないのだ。6月以降はダイビングシーズンに入ってしまう。いっそ一周忌にしてしまうか。いやいや、それではいけない。4月、5月を探す電話を掛けなくてはいけない。

⑦昨日の辰巳のフリスビー、環境ビデオになるように撮れている。要するにカメラのアングルと位置だったのだ。これも編集の準備に入っている。その準備の暇に、こんなことを書いている。ベッドの中で考えていたことは、もっと良かったのだが、ほとんど忘れたために、こんなことになった。

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⑧中田誠さんの本をしっかり読んでいる。これもノートにまとめておかなくてはいけない。彼の考え方が、「致死性スポーツの事故の法的責任」が気に入らない。致死性のものを商品として売るという考え方がおかしい。論理的に成立しない。致死性だから自己責任でなければいけないのに、自己責任が欺瞞だという。糸の切れた凧であるスクーバでは、それは商品であろうがなかろうが自己責任でなければ成立しないのだ。では、商品として、売るのを止めれば、完全な自己責任となり、ばたばた死んでゆくのを、「下手は死ぬ」と傍観していることになる。お世話をすれば、その対価をもらわなければならない。それを商品とされてしまう。パラドックスがある。頭の中で考えがまとまりつつあるが、その前にこの本の学歴詐称的な欺瞞が気になってしまう。

書きすぎたからブログにしよう。

0306 漂流ー1

 昨日、辰巳プールで奮闘したので、きょう午前中はのんびり過ごそうとおもったが、気持ちはのんびりできない、のに、のんびりしている。いろいろなこと、よしなしごとが頭の中を通り過ぎる。

 これは、あくまでも僕の個人的な考え、それも頭の中を通り過ぎるだけのことだから、論文的に正確を期する事でもないし、責任ももてない。

 少し前にインドネシアはバリ島で起きた漂流事故のことである。事故が起こった当初、興奮していろいろなことを考え、書いて、一部はブログに乗せた。7人流されて、まだ、二人が行方不明の時であり、まだ、正確なことはわかっていないし、処理も終わっていないことだから、断定的に聞こえることは言わない方がよいと忠告されて消去した。振り返れば、その時はそのように考えたのだから、構わないようにも思うが、言葉尻をとらえられて、あの時、あんなふうに言ったと咎められるから、やはり消しておいてよかった。
 内容はこれから書こうとしていることと大差はない。

 この事故を見る視点がどうも一般の人の視点になっていた。そのことが気になったから、中田誠著「商品スポーツ事故の法的責任」という本を再読した。再読と言っても、この前、最後まで読んだかどうかわからない、こんどもまだ途中である。自分とは全く違った視点でダイビングを見ることができる名著であるから、座右の書と言っても良いくらいだ。まだ、再読三分の一ぐらいだから、読み続けよう。
 「ダイビングは致死性のスポーツであり、それを商品としているのだから法的責任は重い。」というコンセプトの本だ。そして、自己責任という考え方は、責任逃れの表現だとしている。ダイビングは致死性であるという証明のために、次々と危険例をあげる。そんなに例を挙げなくても、ダイビングで人が死ぬことはまちがいないのだから、致死性のスポーツである。
「致死性のスポーツを商品として売ったりしてはいけない」というのが僕のダイビングを教えられた時からの考え方である。数日前、千葉県の波佐間へ行き、波のある海で潜り、昔の僕よりも、当時の僕が100とすれば、120ぐらいの能力の荒川さんのガイド、お世話になって潜水した。致死性のスポーツを買ったのではない。僕たちだけでは危ない海で、助けてもらうその代価、船代、時間代、を支払うのであり、致死性スポーツ商品を買ったわけではない。
 しかし、一般的には商品としてのダイビングが通用している。いわゆる講習というのは商品だろう。講習の結果、身に着けた技術と知識を持ってダイビングをする。その手助けをしてもらうのは商品ではない。ただ、現今のダイビングは、ダイビングを始めてから、インストラクターになるまでが商品化されていて、どこまでが商品なのか、自己責任のダイビングなのか定かではなくなっている。多分、それぞれの指導組織によってそれは定められているのだろうが、それが統一されていないために、素人ではない僕でもわからない。ましてや一般社会にはわからないだろう。
僕の考えでは、講習ですと言われて、講習の代価を支払えばそれは講習であり、自己責任ではない。講習ではありません自由練習ですと言えば、自己責任である。ダイビング技能講習ではないと言い切って、友人、あるいはグループで行くダイビング活動はすべて自己責任である。ただし、学生の潜水クラブのクラブ活動は自己責任ではなくて団体責任である。潜水業務も自己責任ではない、業務の指令をする事業者の責任である。
今、スポーツ安全保険という保険に自分のグループ全員に加入をお願いしているが、これは講習についてはカバーされない。講習は、商品スポーツだからであろう。ただし、一緒に行うスポーツ活動における指導[コーチング)は、講習ではないからカバーされる。
 一方で、インストラクターの加盟している賠償責任保険は、自己責任の活動であると言えば、カバーしてもらえない。講習と言えば、文句なしに保険が降りるから、ほとんどのダイビングは、保険でカバーされている講習、すなわち、販売する側が訴訟される商品になるのだろう。そのあたりは複雑であり、ケースバイケースと考えられなくもない。
責任を認めない限り賠償責任保険は支払われないという、パラドックスがあるから、明確な線引きを、業界としてはできないのだろう。
自分としては、講習か講習でないかと明確な線引きをしているが、これは個人的なものであり、業界すべてにわたってコンセンサスのあるものではない。また、講習ではなくて練習だと言い切ってしまえば、訴えられた時に、賠償責任保険が支払われない可能性があるので、グレイにしてしまう。
どの段階まで、どのような活動が講習なのか練習なのか、PADIはPADI、NAUIはNAUIで、線引きをしていると思うが、僕の目、耳には入ってきていない。多分、オープンウォーターがその基準ですというのかもしれないが、社会的には説得力がなくて、中田さんの著書が生まれる背景になっている。
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         写真はイメージです。
 そして、僕の個人的な判断では、バリ島の漂流事故でのお客5人は全員、自己責任で参加したのだと考えるが、今後の推移で、どのようになるか、それはわからない。部外者が云々することではない。
とにかく、近頃のたくましい女性ダイバー5人が、2人のインストラクター、・ガイドダイバーに案内されてドリフトダイビングを行った。亡くなった最年長の人も、不確定なまた聞きだが、海女さんをやっているそうだ。
 僕は、この前、事故について述べた時に、携帯などの無線機器を持っていればこの事故は防げたと述べ、この意見は今も変わらないし、ローカルルールとして、その地域のガイド組合のようなものがあれば、その組合が取り決めるべきもので、今後の課題である。そして、このような事故の防止には、そのローカルルールが最重要であるという意見も変わらない。
 しかし、それを用意していなかったことが、法的責任になるかどうかは別である。ローカルルール(それが一般的)であれば、咎められるだろう。ローカルルールが無かったとすれば、業界としては、そのようなローカルルール(ローカルカスタムでもよいが、新しく取り決めるとすれば、ルールであろう)が浸透するべく努力しなくてはいけない。僕が学生連盟について、やろうとしていることは、安全のためのローカルルール(組織の責任体制の確立)の徹底である。
 
 とにかく、そういう状況で、7人の女性は、ダイビングに出発した。ここから先は、まったくの個人的な想像、ストーリーである。それを書くことの是非はあるだろうが、多分日本中の、ある程度以上の、上記で言えば自己責任で活動できるダイバーのほとんどすべてが、頭の中でこのようなシナリオを組み立てただろう。そのうちの一つである。おなじような事故がおこらないように、(なるべくであり、絶対になどとは言わない)それぞれのシナリオでディスカッションすることは、悪いことではないと思う。
 漂流の体験について、他の漂流事故で、書き残されたものがいくつかある。いずれ、彼女たちのだれかが、書くかもしれないが、僕はそれが必ずしも正確とは思えない。すでにガイドした側とお客の一人の語ったことが食い違っている。責任の追及という視点もあるので、食い違いを指摘することは適切ではないだろう。それぞれのダイバーの想像のシナリオで、それだけで良いのかもしれない。ダイビング事故を防ぐために必要なのは想像力なのだから。

 7人の女性たちは、前と後ろ、二人のガイドに守られて、途中難所はあったかもしれないが、バラバラになることもなく、一緒に浮上した。一緒に浮上できたということは、二人のガイドの優れた技量であり、天気が良ければ、ここでボートに回収され、何事も無く幸せに、良いダイビングが出来たと満足して家路についただろう。
 しかし、雨が強く視界不良でボートから浮上したダイバーを見つけることができなかった。ここには、ボートオペレーターの能力の優劣があり、ダイバーとのチームワークの強さが問題になるが、神業的な技量を持っていなかったこと、そして、陸地、他のボートとの連絡手段を持っていなかったことは、問題にされるだろうが、現地の警察では、一応の取り調べの後、責任を問わないことにしている。
 今後のことを考えるならば、同じコースをリクエストする自己責任のダイバーは、現地のダイビングサービスがこれらの点の改善状況を確認し、改善されていなくても、まあいいや、と考えれば、それはそれで良いだろう。そのことも含めての自己責任なのだ。
 とにかく流れてしまった。

続く

0309 事故について

 3月6日に、 バリ島の漂流事故について、下記のような書だして、ブログを書いた。

 これは、あくまでも僕の個人的な考え、それも頭の中を通り過ぎるだけのことだから、論文的に正確を期する事でもないし、責任ももてない。

 少し前にインドネシアはバリ島で起きた漂流事故のことである。事故が起こった当初、興奮していろいろなことを考え、書いて、一部はブログに乗せた。7人流されて、まだ、二人が行方不明の時であり、まだ、正確なことはわかっていないし、処理も終わっていないことだから、断定的に聞こえることは言わない方がよいと忠告されて消去した。振り返れば、その時はそのように考えたのだから、構わないようにも思うが、言葉尻をとらえられて、あの時、あんなふうに言ったと咎められるから、やはり消しておいてよかった。
 内容はこれから書こうとしていることと大差はない。

 この事故を見る視点がどうも一般の人の視点になっていた。そのことが気になったから、中田誠著「商品スポーツ事故の法的責任」という本を再読した。再読と言っても、この前、最後まで読んだかどうかわからない、こんどもまだ途中である。自分とは全く違った視点でダイビングを見ることができる名著であるから、座右の書と言っても良いくらいだ。

 ここまでは、6日に書いた部分である。
 
 この本は、ダイビング事故は訴訟として、どのように扱われているかについての資料になるし、漂流事故の事例についても書かれている。意見として、自分とほぼ等しい部分もある。しかし、この本と、自分とのスタンスを明確に示さないで、不用意に引用したので、一旦、全文をブログから削除した。
ここにまずこの本についての、僕の考えを明示したうえでの引用でないと、同一視される恐れがある。
この本のいくつかの点で、心情的にも、自分の潜水のここまでの経歴、考えてきたことの上で、完全に相いれない。

その第一は、これがもっとも重要なことなのだが、この本にはスクーバダイビングについての共感、海を愛し、ダイビングが好きだという視点が欠落している。ダイビングを楽しもう、楽しませよう、あるいはダイビングを手段として、命を危険にさらして活動しようとしているダイバーたちについての理解がない。むしろ敵対しているということである。
その一つの表れが「致死性」という言葉、である。この本の総論ともいうべき、第一部、商品スポーツ概論 では多数の「致死性」という言葉がちりばめられている。「商品に高い致死性があることを社会と消費者に隠蔽していたこと」「致死性を内包する商品スポーツ」など、そして、至る所で、致死性であることの証明として、事故例が取り上げられている。 
確かに、ダイビングの場合、事故というと命に及んでいる事故例が思い浮かべられる。しかし、致死性という言葉には、死に至る可能性が高いことが強く印象付けられる要素がある。まるで、ダイビングを行えばすぐに死んでしまうようなイメージがある。そして、死に至らしめられる。つまり、インストラクターやガイドダイバーに殺されるという意味だ。僕も、プロのダイビングとしては、「死ぬか、上手になるか、やめるか」の三つしかないとか、「ロシアンルーレットのようなものだ。」とか、過激な表現をしたことがある。しかし、それは自分の会社の社員、あるいは身内などについて、ダイビングに立ち向かう覚悟を言ったものであり、商品として売られるレクリエーショナルダイビングについて言ったことではない。レクリエーショナルダイビングをしようとする人たちに対しても、このスポーツが持つ、命を落とすかもしれない危険性について、正確な知識を与える必要はあるが、それは、致死性などと表現されるべきものではない。本当に、致死性、殺されるという言葉が正当化されるような商品であったならば、それは、国によって制限されるべき事柄だろうと考える。もしかしたら、この本の著者は、このスポーツを禁止させようとしているのかもしれない。ほかの表現はいくつも考えられる。ここにそのすべてを上げることはできないが、古典的な表現、1950年代から使われている表現、「ルールを定めて遵守しないと、命にかかわる事故を起こす可能性がある」というのもある。この場合、ルールを守らないのは、事故者本人に帰納する場合が多く、致死性という言葉とはずいぶんと違う。
この前のブログでは、致死性という言葉が含まれる部分の引用を不用意にしていたので、削除した。
なお、スクーバダイビングでは、日体協の作っているスポーツ安全保険では、アメリカンフットボールとかパラグライダー、一部の登山が別格の保険料が必要とされるのに対して、他のスポーツ波の保険料金で推移している。スポーツ安全保険はクラブ活動を行うスクーバダイビングクラブの多きが加盟しており、学生のクラブには必須と薦めている。この範囲内で事故がいくつか発生すれば、保険料金が上がることが想定されるから、クラブ活動で要求される程度のルールを守っていれば、死亡事故は起きていないことの証明にもなる。もちろん、スクーバは安全ですなどという気のゆるみがあれば、たちまち事故が起こり、保険料金も値上がりするであろう。

その第二は、自己責任についてである。「その責任を「自己責任」という文言を利用して、消費者に転化することは許されない。」3p がある。この本では自己責任は認められていないのだ。少なくとも、対価を払って指導してもらう、ガイドしてもらう状況では、それは商品スポーツであり、「自己責任」ということで、消費者に転化することは、許されない。
しかし、許そうが許すまいが、ボート、あるいは陸上と一切の直接的な連絡を切断したスクーバは、その成り立ちから、自己責任の潜水である。初心者であろうがベテランであろうが、その自己責任の度合いは異なるにせよ、自己責任が原則である。自己責任が許されないのであれば、スクーバダイビングは許されない。すべてのスクーバダイビング事故は、その半分は本人の責任であり、本人に自覚がなく、努力が無ければ、スクーバダイビングは、本当に致死性になる。したがって、この本が事故を起こす本人に向けられたものであるならば、その内容は納得できるが、法的責任を論じたものとしては、肯定できない。

 その三は、著者が再三にわたって、東京大学潜水作業事故全学調査委員会について言及し引用している。
 60p「東京大学農学部潜水作業事故全学調査委員会、平成18年3月30日40Pでは、「①役務提供商品に対する製造物責任法(PL法)の適用要求、ダイビング業界はピラミッド型の業界形態、(階層的事業構造)をとっている。ダイビングビジネスの最上位にある(指導団体)は、一般ダイバーやインストラクターなどの養成プログラムンの製造、販売や、その結果の認定事業を下部の講習機関や、インストラクターを通して実施することを目的とした事業を行っている―中略― したがって、会員個々の事業の結果に対する最終的な責任は「指導団体」にあると考えるのが自然である」としている。」
 この議論が正当であるか否かについては、また別の議論が必要であるが、そもそも、東京大学潜水作業事故全学調査委員会は、指導団体の責任をテーマとしている委員会ではない。379P 「本書刊行についてのあとがき」東京大学名誉教授 桐野豊 では、「略―平成17年7月4日に、農学生命科学研究科・水圏天然物化学研究室の研究者4名が、八丈島沖で研究材料としての海綿を採集するため潜水中にリサーチフェローが溺死するという痛恨極まりない事故が発生した。これに対し、東京大学総長は、東京大学潜水作業事故全学調査委員会を設置して、再発防止策を確立することを指示した。」
すなわち、この委員会は、レクリエーションダイビングのあり方について設置された委員会ではない。レクリエーショナルダイビングの業界が「楽しさ、安全を強調していた(平成17年当時は、もはや安全を強調などしていないし、リサーチダイビングの世界では、昭和57年に日本潜水科学協会が発足して以来、危険を強調していた)」ために事故は起こったとするのは、東京大学潜水作業事故全学調査委員会の結論であろうわけがなく、正常化の偏見(横断歩道みんなで渡れば怖くない)は、東京大学の反省であり、一般レクリエーショナルダイビングのインストラクターは、そんな偏見はもっていない。この報告書の引用部分は、この著者の主張を報告書に掲載したにすぎないものであり、この報告書の全文をネットでみれば、本来の事故報告として、さすがに東大で、公式文書として、明確な事故報告が行われていることがわかる。 
そして、33pには「死者や遺族に対しての礼儀などが最低限度要求される」とあるがこの事故の遺族、ご両親は、この著者の言動を諒とせず、詳細な本当の説明を求めて、僕のところにお見えになり、出来るだけの説明を申し上げ、現在は水中科学協会を後援してくださっている。
この矛盾により、この本には、ダイビングが好きで、その安全と、矛盾があるとすれば正常化を願おうという心が、無いと結論せざるを得ない。なんとなれば、この本からの引用が、僕の文についてもダイビング関係者の誤解を招く恐れがあり、全文を削除せざるを得なかったからである。(そのような指摘を受けた)
ダイビングを愛する心があり、致死性などという、すぐに死んでしまう可能性を示唆する言葉の使用がなく、遺族の心に対するケアがあるのならば、良かったのに、と思いつつ、今後、この本のデータ部分を引用することもある。この部分についての著者の努力は傾倒に値する。


0310 自己責任

  こんなことばかり書いていると、気がめいるけれど、書きかけたものだから、今の僕の気持ちとして、結末をつけておきたい。
 自己責任について、引き続いて書く。
 中田さんの「商品スポーツ事故の法的責任」では自己責任を完全に否定している。商品としてのダイビングであれば、責任逃れのために自己責任を主張するビジネスマンもいるだろう。その問題については、訴訟によって争う他ないと思う。「安全対策が不十分だったことで消費者に損害が生じた場合、その責任を「自己責任」という文言を利用して、消費者に転化することは許されない。」消費者対、サービス提供者という関係だけであるならば、それで良いと思う。
 僕の立ち位置は、少し違う。もちろんプロは、受け取る対価で生活しなければならないから、一般的な表現をすれば、消費者対サービス提供者であろう。しかし、僕はその消費者対サービス提供者という人間関係が、事故を起こす一つの、それも最重要な要因になっているとおもっている。

 ダイビングで最重要な活動規則として、バディシステムが上げられるが、バディシステムは、一般社会でいうところの消費者対サービス提供者の関係では成立しない。ここでいうサービス提供者、インストラクターやガイドダイバーも不死の人ではない。もしかしたら、消費者よりもフィジカルでは弱い人かもしれない。最近では女性インストラクター、ガイドダイバーが多い。僕の周辺にいる女性ダイバーは、フィジカル的にはアマゾネスである人が多いが、インストラクターやガイドダイバーのすべての女性がアマゾネスとは限らない。女性インストラクターが、経験による知力と判断力を提供し、強い男性ダイバーがお客であり、助け合ったダイビングを達成するのがバディシステムである。最近では、年齢としても、高齢のガイドダイバー、インストラクターが次第に多くなっている。中田さんの本では、30代と40代、50代のフィジカル能力を血圧によって比較しているが、血圧の高いガイドダイバーも、枚挙の暇もない。彼らが全部現役を退いたら、経験豊富なガイドの多くを失うことになる。ガイドの能力として、フィジカルを求めるか、メンタルをもとめるか、言うまでも無く両方だが、どちらに軸足を置くかとなれば、メンタルであろう。
 そして、バディシステムというものは、心の繋がりであり、相互理解と協力が無ければ成立しない。どうしても、気質的にバディが成立しない消費者が居た場合、どうするかと言えば、天に祈るしかない。消費者とサービス提供者の人間関係において、消費者の権利を振り回すお客であれば、これも、耐え忍ぶしかない。
 これらの人間関係の基調になっているものが自己責任である。自己責任を責任逃れのために持ち出すガイドダイバーもインストラクターもいるだろうが、そんな人の多くは淘汰されるであろうから、まず、大丈夫と思ってよいだろう。
 そして、自己責任は、ガイドダイバーとかインストラクターのための方便ではなくて、個々のダイバー、ここで言えば消費者のための理念なのだ。こちら側、ガイドダイバーの側で考えれば、一応の手段を尽くした上で、どこかに消えてしまった、事故を起こしたとすれば、、賠償責任保険を適用して、自分は生き続ける他ないが、死んでしまったとすれば、その命は戻らない。自分の命は自分のものだから、自分の責任で守る他、守りようがないのであり、これは、死んでしまってからの商品スポーツ事故の法的責任とは別の次元のことなのだ。
 商品スポーツだから、すべての責任を負ってくれる、自分は何も考えなくても良い、他力本願がレクリエーショナルダイビング事故の原因として大きな部分を占めている。良く、スポーツは心技体と言われるが、特にダイビングは心、メンタルな部分が優先するスポーツと言える。
 そのメンタルな部分が自己責任である。スクーバダイビングのスクーバという言葉は、自己責任を指している。セルフ・コンテインド、自分ですべての責任を持つて行動することだと、ダイビングを始める第一歩で教えられるはずである。
 業務として潜水を行う、労働者と事業者の関係は自己責任ではない。責任の大部分は潜水を指令する事業者の側にある。労働者は自己責任でその指令を拒否することができるが、拒否をしなかった責任をダイバー自身が負うことはない。自分の意志で、自分の責任で、危ない潜水をしたとしても、それを黙認した事業者の責任になる。幸いにして、作業潜水の多くは送気ホースで空気を送り、電話が通じている送気式潜水機であり、最近では、ホースによる送気と背中に背負うタンク二系統の呼吸気元を持っているから、スクーバよりもはるかに安全度がたかく、水面の指令の責任で潜水することができる。
 一方、スクーバは、自分の意志によって水中で活動する。しかしプロの潜水、業務潜水では自己責任は許されないのだ。もちろん、ダイバーの自由意志も尊重されない。僕は、スクーバを使って業務潜水を行う調査潜水の会社を経営していた。ハイリスクである。ハイリスクハイリターンであればよいが、ローリターンである。
 そして、事故を起こした。最近まで、3月号まで、自分の若いころからの夢と冒険を追った潜水生活を書きつづった「ニッポン潜水グラフィティを28回にわたって連載していた。その最終回にこの事故のことを書いた。ブログでも、何度もこの事故については書いた。僕にとっての潜水生活最大のポイントであり、一生を通して背負って行かなければならない事柄であった。

 あらすじを言えば、自分の責任がある会社スガ・マリンメカニックが北海道で調査をおこない。一番若い社員脇水輝之君が一人で潜った。その一人で潜ってスケジュールは彼自身が立てたものであるが、現場の監督はそれを承認している。僕は現場にはいなかった。そして、浮上して来て水面に顔をだし、再び安全停止のために水深3mまで潜りアンカーロープにつかまっていた状態で命を落とした。その原因はわからないが、事故の時に一人であったことは間違いない。その潜水をさせて事は、最高責任者である僕の責任である。
 それより以前から、有線通話器を使って水中でしゃべる、レポートするテレビ番組を娘の須賀潮美をレポーターとして、行っていた。その有線通話器のケーブルは中世浮力で水中で真っ直ぐに伸びる。絡むことも少ない。長さは100mだが、その100mの半径範囲で、水中でおこるほとんどの事物を撮影できていた。
 このシステムをリサーチダイビングでも使おうと、ケーブルダイビングシステムとなずけて、それを、事故をおこした調査現場にも持たせて行かせていた。
 このシステムを使ってさえいれば、命を落とす事故は発生しなかった。

 続く

0313 風邪を引いてしまった。

風邪を引いてしまって、頭の中で考えていることを組み立てることができなくなってしまっている。
要するに、管理責任が絶対的にあるプロのダイビングは、何らかの形で有索潜水にならざるをえないのだということ、だから、スクーバは、自分で自分のすべてについて責任を持つことが原則なのだから、基本的にレクリエーション。その自己責任の機材をプロが管理責任のある現場で使用せざるを得ないことの矛盾、この溝を埋めることは原理的に不可能だから、個々の苦労で、なんとかしなければならない。それがバディシステムであり、バディを集めたチームで潜るのだが、それでも、根っこの部分はどうにもならないから、事故が起こる。これは、スクーバというものに内在した事故だから、どうにもならない。
 だから、自己責任がさらに重くなるテクニカルダイビングは、プロが行うことがない類のダイビングといえる。アジア海洋作業の柳井会長は、僕が東亜潜水機以来の親しい友達だけれど、あれは、プロの機材、プロのテクニックではないといいきっていた。そこで、逆にテクニカルダイビングをプロのダイビングとして行うにはどうしたらよいのだろうかという問題が出てくる。もちろん軍事的な潜水については、リブリーザーがその元祖のようなものだから、その線に沿って発達してきた方法があり、SRT (special response teams ) など、特殊な潜水、あるいは軍事的な潜水では、プロであっても、スクーバが必須であるが、いわゆるコマーシャルダイビングの世界で、スクーバが使われるのは特別のことである。プロの潜水でスクーバを使うことは、ハイリスクであり、それを40年近く続けてきた経験が僕にはある。プロデューサーもリサーチダイビングはスクーバにならざるを得ない場面がある。
 そんなことを書こうとしているのだが、風邪を引いた頭では支離滅裂になる。治ってから書こう。
 風邪は毎年のように引く、身体がだるくなり、これぞ風邪という不快な気分になる。咳が出る、鼻水がでる。身体も熱っぽくなる。プロのダイバーは、風邪を引いても潜らなければならない。特にテレビの撮影のしごとではカメラを置くことはできない。まあ、役者さんもそうだろう。そういう意味では辛い仕事だ。だから、薬を山ほど飲む。長生きできない仕事だなとおもいつつやっていたが、気が付けば周囲はみんな死ぬか倒れてしまった。だから、人の死は、運なのだ。死ぬ日までプロとして潜るつもりだから、風邪でも潜る。
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 流氷の撮影の時に風邪を引いたことが何度もある。それでも潜る。そんなある日、風邪を引きながら氷の下に入っている時に、先日亡くなった真野先生が斜里の定置網ダイバーの何周年だかの式典に招待されてきた。僕も現地に居たので、招待された。その時は風邪で完全に声が出ない。咳もひどい。熱もあった。その日、その前から真野先生とスノーモビルに乗って遊ぶ約束をしていた。これは、キャンセルせざるを得なくて、スノーモビルの親分である佐野モーターの社長にすべてを任せて倒れた。それは、若い日のころで今は違うと言われるだろうが、その頃も50代の半ばすぎだったから若くは無い。それに、もっと若いころも僕は病弱で、風邪を引いたり咳をしたりしていた。
 という事で、今日も辰巳で泳ぐことにした。それで倒れたら、明日は一日寝ていられる。

0314 ケーブルダイビングシステムと自己責任

  13日の辰巳国際水泳場のスキンダイビング練習会は、15時から17時という、これまでに、あんまり使ったことのない時間。だから、どうなのかな、誰も来てくれないのかな、と思っていたが、10人ほど集まってくれた。中には、この時間が都合がよかったのに、来られなくて残念という人もいた。悪くは無いのだが、僕が風邪をひいてしまって、かなり風邪らしい風邪なので、こんな状態で泳ぐのは、めちゃくちゃだとも言われるが、それでも20年前、現役のテレビ番組カメラマンの時には、メインのカメラマンが寝込むわけには行かないので、熱があっても水中でカメラを振っていた。でもそれは20年昔のことで、今は、と思わないでもないが、とにかく泳いでみることにした。2時間泳ぐのはさすがにはばかられるので、16時から17時まで泳ぐことにした。
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    左、石橋君、右須賀 まだえんりょして抜かないでついてくる。
 中尾研究室の新人、石橋君が来てくれた。PADIのアドバンスを持っているということ、そして、早稲田のダイビングクラブ、学連に入っている水中クラブではない、後、ブルーラグーンというクラブ、あんこう というクラブもある。耳が悪いので明確に聞かなかったが、彼はバドミントンのクラブにも入っていて、それはキャプテンだったので、ダイビングサークルの方は、おざなりで、別にPADIのダイビングショップにも通っていて、そこで、アドバンスも、そしてドルフィンスイムにも行ったということだった。スキンダイビングも、僕の基準である、水深5mで25m水平というのも楽々できるし、フリスビーもはじめてにしては、敏捷に動ける。次のお台場にもきてもらい、そして、プライマリーコースに来てもらう。いますでに、PADIのアドバンスというのも使えるなと思うほどである。
僕自身は、1時間フルに、普通に泳いで、ダッシュも3本入れたし、プールでは風邪の影響はほとんどなかったし、今日も普通にしていられるし、20年前のと、風邪に対する抵抗力は衰えていない。

 さて、
 自己責任について述べてきているが、講習を省略して行う体験ダイビング、あるいは、講習修了直後にヒヨコのようなC-カード取得者、C-カード取り立てから10本程度の間の事故が多いと言われているが、その間のダイzビングでは、確実な安全管理のもとで行わなければならない。
 前回書いた若い社員の安全停止中の事故の原因が何であったかはわからなかった。病院に送られて来てからの症状をみても、レントゲン検査の結果からも、空気塞栓ではないことがはっきりしている。減圧症に関係した事故でないことも確かであった。
 死因はなんだったのだろう。親しくさせていただいていた東京医科歯科大学の真野教授に意見書を書いていただいた。遺族の意向もあり解剖もおこなわなかったから、正確な判断はできないが、肺圧外傷によるエンボリヅムも、減圧症も、内耳損傷も兆候も症状もなく、空気も十分に残っていて、海面も平穏で流れもなく、2年の経験があるプロのダイバーが、パニックになる可能性も無く、ウエイトを外して浮かび上がり船底にひっかかっていたことから、何らかの身体的な不調で浮上しようとして、船底に拘束されてしまった。としか判断できない。ということだった。
 僕のチームはサーカスと異名をもらっていた。サーカスで跳んでいる時の事故ならば納得ができる。しかし、減圧停止の時である。僕の想像だが、ハードな動きの後の休息中に負債を請求するかのように体の不調が襲ってくることがある。何かが体の中で起こった。そして、とにかく意識を失った時、脇水は一人だった。
 
 経営者として適切ではなかったと思うが、みんな僕のチームだと思っていた。チームの勝敗の責任は、選手とそして監督にある。監督としての責任を果たさなければならない。
 まず、社員、保険給付規定では三分の二だったが、およそ6000万の全額を受け取っていただき、ご両親の心のケアに専心した。何度も繰り返しお目にかかり、もしも、ご両親との人間関係を損なうようなことになる、例えば法廷での対決などがあるのならば、スガ・マリンメカニックは解散する。撮影の会社は別になっていたから、そちらの業務だけにするとお話しした。ご両親とも素晴らしい人で、良く理解してくださり、次の年の新入社員の歓迎会には、紅白の水引のあるお祝い金をいただいた。その後も、親しい付き合いが続いている。
 今回も、月刊ダイバーに掲載した記事のことをご紹介したところ、丁重なお礼状をいただいた。
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   脇水輝之も生きていれば今は40代半ば 夢と冒険などと書いてあるのは月刊ダイバーのコンセプトだったからだ。
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 レクリエーショナルダイビングでは、参加するダイバーの自己責任が原則で、ダイビングを組み立てることができるが、業務の潜水では、事業者の責任が大きくなる。港湾土木名の作業潜水のほとんどは、送気式の潜水で行われる。送気式の潜水はホースで、空気を送っており、ホースに沿わせて束ねた電話線によって、常時通話が保たれている。この繋がりによって、船上の監督と潜水士が責任を共有することができているが、スクーバでは、この連携がない。このことが、スクーバの使用が必然となっているリサーチダイビングなどで、大きな危険要因になっている。スクーバでは、プロでもバディシステムが絶対であり、またプロであるからこそ役割分担などを定めやすくバディが組めるのであるが、人件費の節約、もしくは技術過信によって、バディが行われない例が多々あり、それがために、前記の事故が起こった。


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  100m潜水で手作りしたフルフェイスマスク

 1964年に行った、27歳の時、東亜潜水機で行った館山沖での100m(実際は90mまでしか行かれなかった)大深度実験潜水では、水中と船上との明瞭な会話が実験成功の条件となった。空気を呼吸して潜水した90mの深さで、一緒に潜水した舘石昭さんは、こん睡状態に陥り、すぐに気が付いたがとにかく意識が途切れた。僕は、自分の通話ケーブルと潜降索が絡み合って、自力では外せないで、舘石さんに助けてもらった。しかし、水面との通話話明瞭で、これは大成功だった。今、空気を呼吸して70mより深く潜ろうとする者はいないから、現在生きているダイバーで空気で90m潜った経験があるのは、世界でも僕一人だろう。今となっては自慢もできないが。この潜水は、現在使われている工事用潜水機の主流であるデマンドバルブ付きの全面マスクの嚆矢だtt。
 そして、フルフェイスマスクによる有線通話器による会話は、僕の得意技となり、1986年から始まったニュース・ステーションの水中レポートシリーズは、娘の潮美を世に出すとともに、水中撮影のテレビシリーズとしては、もっとも人気を集め、10年以上続いた長寿番組となった。今ではもう、記憶に残っている人は少ないかもしれないが。
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      ニュース・ステーション 水中レポート
 この番組では有線通話器のケーブルを引いて、世界の海をで縦横に潜水した。行かれないところは、ほとんどなかったのだ。2ノットの強い潮に流されてもケーブルが助けてくれた。50mで昏睡状態になってもケーブルが引き上げてくれる。殆ど無敵のような気分になった。
 当初は、テレビの信号ケーブルと束ねて、浮子を着けたごついものだったが、終わりのころには、中性浮力のプラスティックケーブルで、黄色で細く、引っかかりにくく真っ直ぐ伸びて行き、4人のダイバーが掴まっても引き上げられる強度をもつものになった。
 これは、テレビ番組だけではなく、一般の潜水、特に家業であるリサーチダイビングにも使えると思い、ケーブルダイビングシステムと名付けて売り出そうとしていた。それをテスト的に使うようにと、事故が起こった北海道にも持たせてやった。
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 中性浮力ケーブル
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  通話機部分

 そして、若い脇水輝之が一人で潜る状況になった。このケーブルを使ってさえいれば、「呼吸音がいつでもスピーカーから流れているし、「助けて」と一言言えばケーブルを手繰って事故は起こらなかった。ご丁寧に海保への許可申請には、この有線通話器を一人で潜る時には使いますと書いておいたのだ。
 社長として、はらわたが煮えくり返る思いだった。現場全員、縛り首にしたかった。縛り首にはしなかったが、自分が狂ってしまった。有り金を全部はたき、親しい有力な友人全部からお金をだしてもらい、株式会社テ・ルを資本金2900万円で立ち上げた。テ・ルは、亡くなった輝之のなまえにもちなんでいる。このケーブルを運用するあらゆる事態を想定した、運用マニュアルも作って、およそ10年間奮闘した。いくつか成功した場面もあった。船橋三番瀬沖で24時間定点観測潜水をやった時、強い流れがかけて、ケーブルを使っていた僕たちのチームは流されず、使わなかった風呂田先生のチームは流された。当時は、VIPのダイビングも受けていたが、それはこのシステムあればこそだった。
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   体験ダイビング
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     沈船に入るところ
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     マニュアルの図

 チュークでは沈船の中にもこのケーブルで安全に入り込めた。
 しかし、ダメだった。
 どうしても一人はボートの上で監視員に残さなければならない。こんなことは当たり前の事なのだが、いざやるとなるとスクーバダイバーにとっては大きな負担なのだ。事故を起こしたスガ・マリンメカニックでさえも、このシステムを使わないことが多くなったとき、僕はあきらめた。これはスクーバではないのだ。スクーバダイバーというものは、命を失っても、ケーブルでつながれることは嫌なのだ。自由に動きたい。その代償が、たとえ命であったとしても、フリーで居たいのだ。
 
 事故を起こして死んでも自由で居たい。ならば勝手にしろ、すなわち自己責任なのだ。しかし、自己責任ではない体験ダイビングや、講習、そしてサイエンスダイバーのソロには役立つと水中科学協会を作ってから、たびたび、人に勧めもしたし使ってもらいもした。しかしそれでも、スクーバダイバーは自由がほしいのだ。

 まだまだ、それでもあきらめてはいない。80歳で80m潜る時にはこのケーブルを使ってフルフェイスマスクで通話しながら潜ろう。27歳の時の90m潜水の再現である。

 僕が有線通話にこだわる理由、そして、スクーバはケーブルでつながれていない以上、初心者であろうと、ベテランであろうと同じように自己責任なのだ。中田さんがなんと言おうと、関係ない。すべての束縛から自由になれば、頼るのは自分だけなのだ。プロの送気式潜水は、業務だから責任を分担し合える。プロのリサーチダイビングは、ケーブルダイビングシステムを使わない限り、業務であろうと、ハード的に自己責任だ。バディシステムはもちろん、それ以外にも、潜降索、ガイドライン、様々な手法を凝らして、舟との間接的でも良いから連携を取って潜ろうとするのが僕のフィロソフィーで、僕が生き伸びている理由でもある。
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